皆様こんにちは。ちょっぴりご無沙汰してしまいました。
急に冷え込みが厳しくなり、木々の色付きを待たず冬になってしまいました。秋のコートを着ることなくしっかり防寒服になっている今日この頃です。
さて本日は『その心配は誰の為?』というお題でお話をしてみようと思います。(いきなり)
私は幼少期過度に干渉された経験から、人から心配されることがとても苦手です。
心配してくれる人の顔色通りに動かされるような気がしたり、やろうとしていることを否定されているような気分にもなります。
病気などの際に心配されると、とんでもなく具合が悪いのに『大丈夫だよ』と相手を気遣う自分が嫌になったりもします。笑
このように文字にするとなんだか人の好意?を無碍にする嫌なヤツに聞こえますが、基本的に人が心配するような“大変なこと”の渦中を人に話すことさえあまりありません。
幼少期に過度に干渉される環境で育った方は、私に限らず他人から心配されることに過敏な方は多く、首尾一貫「放っといて!」という方も少なくありません。
逆に何でも心配で口出しをしたり、感情的に言葉を掛けてしまうという方も多くいらっしゃるでしょう。
子供の生き方、近しい人の健康など心配になるシーンというのは多くあります。しかしながら、本当にその心配は適切な心配なのか、一度考えていただきたいなと思います。
子供の将来が心配だから金切り声で勉強を強制する、家族の健康が心配だから徹底的に不健康に繋がるものを排除する、職場で部下の失敗が怖くて厳しい管理を敷くなど、“過ぎたるは猶及ばざる如し”となってしまっている状況も良く耳にします。
そういったお話を伺う度、「人権とは何なのだろうか」と何だか虚しい気持ちになります。
そのように過度な心配を盾に相手をコントロールしようとする方は、相手を思った愛のこもった心配ではありません。
“心配している側が”安心するための心配、自分の心が苦しまない為の防衛策、自分の考えを実行させるための心配という名の支配などということが多くあるのです。
では愛のある心配とはどのようなものなのでしょうか。
心配という気持ちは自然と湧き上がるものですが、それを一から十まで感情的に伝えるのではなく、何かの大切な節目では冷静にこちらが心配している要因は某であると伝えれば良いですし、相手がやる!と決めていることを心配するならば、“応援”に変換する必要があるでしょう。
絶対に失敗するのに…と思うようなことは一言だけ伝えて見守り、転んでもしも立ち上がれなければ起き上がる手伝いをして差し上げれば良いですし、一人で起き上がれるならば継続して見守りに徹すれば良いのです。
愛のある心配は必ず尊重がセットで付いてきます。
利己的な心配には、愛も尊重もありません。
ならばこの心配する気持ちをどう昇華すれば良いのか?と疑問に思われるかもしれませんが、それが本当の意味で愛のある心配ならば、それも一つの愛の形として心に持っておいて良いのです。
そしてただただ心配する時間を過ごすのではなく、心配していた通りの状況になった時、その方を“受け止める準備をする時間”に充てると良いのではないでしょうか。
人は変えられません。それは幼子であっても同じです。
相手を尊重すること、心配な気持ちを持ちつつもエールを送り、適切なサポートに徹することが愛の形であると、心に留めて下されば幸いです。
相手の成長や在り方、生き方、個性など様々なものを尊重しつつ、心配だけはさせてねとそっと言葉を添えられれば、良い関係を築いていけるのではないかなと思うところです。
寒さもこれから本格化!
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秋月せいら