もう私の事などすっかり忘れているであろう、そしてこのブログも読んでいないであろう「ある人」への私信です。

 

梅花。元気にしていますか。

 

「早咲きの梅が開花した」ニュースを目にして、あなたとふたりで太宰府天満宮に行った事を思い出しました。

飛び梅の前で撮ったあなたの写真は失われてしまいましたが、いまでも私の頭にはっきり残っています。

 

あなたを隷として飼っていた7年間は、いまでも私の最長記録です。

ふたりで数えきれないほど遊びましたよね。

あなたが隷として成長していくのは、とても嬉しかったし楽しかったです。

何度もお仕置きをされて、辛い折檻を2度もされて、それでもあなたは私といっしょに歩み続けてくれました。

心から感謝しています。

 

私が開けたボディピアスの穴は、もう消えているでしょう。

そのピアスはいまでも私の手元にあります。

私にだけ見せた、ピアスをつけたあの場所は、とても美しかったです。

形も色も、まだ鮮明に目に浮かんできます。

 

お相手が「あの人」かどうかわかりませんが、いまではいい奥さん、いいお母さんになっているでしょう。

ご家族を大切になさってください。旦那様を、お子様を、たくさん愛してください。

あなたが幸せでいる事を、心から願っています。

 

梅花、ありがとう。本当にありがとうございました。

 

 

追伸

 

もし仮に万が一たとえばにせよ、あなたがこれを目にする事があったら、何らかの方法でご連絡をいただきたいです。

もう主でも隷でもない、ただの男と女として、「いっしょ」だった過去を思い出話として明るく語り合えれば幸いです。

2024 年、2025 年と MLB で2連覇を果たしたロサンゼルス・ドジャース。

特に 2025 年は、地区優勝はしたものの他地区の優勝チームより勝率が低かったので、ポストシーズンはワイルドカードゲームから始まりました。

 

私が日本人だから贔屓目はありますが、3人の日本人選手はいずれもロースターに入り(マイナーで燻っていなかった)、それぞれ連覇に大きく貢献しました。

 

シーズン序盤で先発ローテーションを期待されていた佐々木は制球が定まらずマイナーに落とされますが、終盤からポストシーズンにかけてブルペンピッチャーとして覚醒しました。

大谷はリーグチャンピオンシリーズで「いまいちばん合理的な野球をやっているチーム」とイチローにいわしめたブリュワーズを相手に、1試合で「投手として 10 奪三振・打者として3本塁打」という漫画でも描けない活躍をしました。

そして高橋はワールドシリーズ4勝のうち3勝(うち1完投)を挙げて、日本人では松井秀喜に続く2人目(投手としては初)のシリーズ MVP に輝きました。

 

1番・大谷、2番・ベッツ、3番・フリーマンの MVP トリオによる打線は対戦相手に恐怖を与えました。勝負を避けて出塁させたらいきなり無死満塁です。またこの3人には守備にも定評があります。ピッチャーの大谷、ショートのベッツ、ファーストのフリーマンは守備がうまく、特に外野からコンバートされたベッツのうまさが光ります。

 

現在 MLB で唯一の国外チームであるトロント・ブルージェイズとのワールドシリーズは、さながら「ドジャース対カナダ」の様相を呈していました。その死闘ともいえる激戦を制して連覇を果たしたドジャースですが、決して満足はしていないようです。

 

ポストシーズンで FA(フリーエージェント)の目玉といわれたカイル・タッカー外野手とクローザーのエドウィン・ディアス投手をどちらも獲得しただけでなく、先発投手のさらなる補強としてタリク・スクーバル投手(サイ・ヤング賞2年連続受賞)をトレードで獲得しようとしています。

 

ここまでなら「金のある球団は羨ましい」で片付くかもしれません。

しかし一見ドジャースと無関係に見える「ある出来事」が、もしかして関係があるのかもと憶測を呼んでいます。

 

シンシナティ・レッズの若手有力選手であるエリー・デラクルーズ内野手が、球団の提示した「10 年で2億 2,500 万ドル」の契約を、拒否したのです。

 

体が資本で長くても 40 代で引退するスポーツ選手にとって、長期契約は喉から手が出るほど魅力的です。たとえ怪我や病気で長期離脱してもクビにされず収入が保証されます。そして2億ドルといえば祖国ドミニカに帰れば一生裕福に暮らせるどころか、おそらく街ひとつ買えます。そしてこの金額は、レッズが球団設立されて現在に至るまでの最高額です。

 

もちろん貨幣価値の変動があるので昔の契約と単純比較はできません。しかし 24 歳のデラクルーズにその額を提示したのは、「選手としての全盛期にうちの球団で長く活躍してほしい」強い要望だといえます。

しかしデラクルーズはそれを蹴った。背後にはどのような思惑があるのでしょうか。

 

彼が FA の権利を得るのは 2029 年のシーズン終了後。28 歳になる彼はまさにこれから全盛期を迎えるベストの年齢でしょう。彼はショートとサードを守れます。そしてドジャースのショートのベッツは 2029 年に 37 歳、サードのキケ・ヘルナンデスは 38 歳。まだ活躍できるとはいえ、チームの世代交代のためターゲットになり始めるでしょう。

 

そう、デラクルーズは FA でドジャース内野陣の後釜の座を狙っているのです。

ではなぜドジャースなのか。確かに現在のレッズはワールドシリーズを常に狙えるほどの戦力ではありません。逆にいえば突出した選手が不在の中でデラクルーズが長く活躍すれば、チームの主力として引退後も名前が残るでしょう。それでも彼はドジャースに行きたい。

 

理由は簡単です。「大谷翔平と同じチームでプレイしたい」からです。

 

実はデラクルーズは大谷の大ファンで尊敬していて、とにかく大谷と関わりたくてしかたがないのです。

ドジャースとレッズの試合で大谷がツーベースを打って二塁にくると、彼は試合中にも大谷に近寄って話しかけます。それだけのために日本語も勉強しているといいます。

もちろん大谷も 2029 年にはキャリアの終盤を迎えます。それでもいい、1年でもいいから大谷とプレイをしたい。彼にとってそれは長期契約や金や名声をも上回る、純粋な「特別な選手への憧れ」です。

 

かつて金にものをいわせて選手を引き抜いて5連覇を果たしたニューヨーク・ヤンキースは「金満球団、守銭奴の選手たち、悪魔の軍団」といわれました。

いまドジャースは確かに金はありますが、選手のほうから「行きたい、入れてほしい」と願う球団なのです。

 

2029 年、彼らがどうなっているのかは、わかりません。

特に2回の手術と長期リハビリを経験した大谷は、すでに DH に専念しているかもしれません。

そしてデラクルーズも大谷も、現在の活躍が続いている保証はありません。

 

果たしてデラクルーズの夢は、実現するのでしょうか。

そして前期高齢者の私は、顛末を見届けられるのでしょうか。

いまは、誰にもわかりません。

喪中につき、祝賀の挨拶は控えさせていただきます。

 

大晦日の「孤独のグルメ同時視聴配信」は、チャットで発言をしてくれたのは3人ですが、ちらっとでもアクセスしてくれた人は 300 を超えました。

事前にツイッターで告知していたこともあり、私の零細チャンネルに数百人がわざわざクリックやタップをして訪れてくれた。本当にありがたい事です。

 

以前の記事でも述べたように、私はいまこのプログ、YouTube チャンネル、そして note の3つを運営しています。

大学を出て就職したのが 3DCG の制作会社で、コンピュータがあるのは当たり前なのですが、当時はまだワークステーションという大型コンピュータを大勢で分け合って使っていました。

1980 年代といえばアップルが Macintosh を、日本電気(NEC)が PC9801 を世に出して「これからはひとり1台の時代」といわれ始めた頃です。

 

しかしハードが売られても肝心のソフトがなければただの箱です。まして業務に使おうとなると、複雑な社内業務をパソコンで処理できるソフトを開発できる企業がほとんどなく、パソコンはせいぜいワープロや社内メールくらいしか使い道がありませんでした。しかも文章を作っても出力するプリンタが貧弱かつ高価で、漢字かな混じりの日本語を高品質で印刷できるレーザープリンタの普及までには、さらに何年もかかりました。

 

さて、曲がりなりにもオフィスにコンピュータが導入され、いちばん困ったのは当時で 30 代半ばから 40 代の中間管理職世代です。

若い社員たちは新しい技術をどんどん吸収して使いこなす。逆に取締役以上の年配者は部下や秘書に丸投げすれば済む。板挟みになった彼らは、上司の命令で強制的に「パソコン教室」に数日から数週間参加させられ、下手すると親子ほど年下の若い女性インストラクタに「あら〇〇さん、またここを間違えていますよ」」と笑顔で馬鹿にされて、慣れない箱の使い方を教わる羽目になりました。

 

彼らが一様に抱いたのは「自分がいない間に部署が機能しなくなるのではないか」という、責任感とも傲慢ともとれる感情でした。「お待ちしていました」「あなたがいなくて困っていたんです」ということばを心の中で期待していました。

 

しかし現実は残酷でした。好きでもないパソコンの使い方を詰め込まれ、ようやく解放されて久しぶりに出社した時、目の前にあったのは「自分がいなくても回っている職場」、机に積まれた承認待ちの書類の山、そして覚えたてのパソコンに届いている未読メールの山でした。自分が単なる捺印マシンにすぎなかった事を思い知らされたのです。

 

私が生まれたタイミングが早かったか遅かったか、いまはまだわかりません。

パソコン、テレビゲーム、3DCG、携帯電話などの黎明期から現状に至るまでをリアルタイムで見てきました。

同時に1学年5組も6組もある小中学校(高校は8組まであった)、当然倍率の高い大学受験や就職戦線、そして数年間のバブル時代とその崩壊後の失われた 30 年をこれまで歩んできました。

 

一説によると、学習型 AI に古今東西森羅万象を片っ端から学習させてきて、あと数年でネタが尽きる、つまり「もう新たに学習させる物がなくなる」といわれています。もちろんいま数十億人がいて異なる人生を送っているのですから、生き様まですべて学習させるのは未来永劫不可能ですが、過去から現在までの著名人の文書化された生き様はすでに学習しているでしょう。
 
そして AI 関連企業は産業用ロボット企業に注目しています。
いま世界中で稼働している産業用ロボットの4台に1台は日本製です。
日本の数社でシェアの約 25% を占めています。
以前「2050 年までに人間とロボットのサッカーW杯を実現させる」という人がいて、当時は夢物語と笑われましたが、次第にシャレにならなくなってきました。
 
20 世紀に日本は文明が大きく進歩し、残念ながら多くの「文化」が失われました。
そして 21 世紀も気づけばもう4分の1が終わりました。
これから日本はどうなっていくのか。
私が見届けられるのは後せいぜい 20 年くらいです。
世界有数の国であり続けるのか、あるいはアジアの三流国に落ちぶれるか。
それは、あなたたちによって決まるのです。
 
元日のご挨拶のつもりが、日をまたいでしまいました。
これを読んでくださる皆さんにとって、今年もよい1年でありますように。

振り返れば、母の他界はあったものの、それ以外は穏やかな1年でした。

まあ年金生活者の日常なんて、概ねそんなもんです。

 

それはさておき、前回の記事でも触れたように、私は YouTube で「艶笑小咄」の配信を続けています。

日本人の根底にあるユーモアの精神。

ある時は権力者をからかい、またある時は自分も含めた誰かの失敗を笑いの領域に昇華させて済ませる。

 

あ、長くなるので先に要件を書いておきます。

 

本日(12/31)21:30 から、「孤独のグルメ」TVer同時視聴配信をします。

どうせひとりで寂しくテレビを観るくらいなら、ネットを使って TVer でみんなで観て盛り上がろう、という企画です。

 

 

テレビ東京系列の番組を観られない地域でこの番組を TVer で視聴できるかはわかりませんが、視聴可能な文字通り「孤独」で年越しを予定している人は、ぜひご参加ください。

ただし視聴は TVer 限定です。

TVer は本放送より数秒遅れて配信されるタイムラグがあるので、テレビで先に観てネタをばらされてしまうと配信が成立しません。ご了承ください。

同じ理由で、年またぎのカウントダウンもやりません。

ぜひおひとりでも多くの人に参加していただきたく、お待ちしております。

 

以上、要件おしまい。

 

高市総理が台湾問題に触れたことで、中国外交部が「国として公の場で」脅しの文書を世界に発信しました。

普通の国なら萎縮するかこちらも拳を上げるでしょう。しかし日本人は違いました。

ほんの数時間後にはジェネレータが生まれ、中国の発信したフォーマットそっくりに、しかし文面は自由に書き換えられるようになり、大量のからかい文書がネットを埋め尽くしました。

 

中国共産党は怒って第二第三のさらに文面をきつくさせた文書を発信しましたが、これは完全な悪手、やってはいけない事でした。日本人は「新しいネタをありがとう」とからかいはさらにエスカレートして、火に油を注ぐ結果しか招きませんでした。

ともすれば緊張が高まりかねない状況で、日本人は盛大な大喜利大会にして笑い飛ばすことで、中国の脅しを無力化させてしまったのです。

 

「日本人はユーモアに乏しい」と揶揄されることがあります。

確かにラテン系の能天気な明るさや、ウィットに富んだ日常会話を自慢するフランス人、女と見れば粋に口説くのが当然のイタリア人などと比較すれば、日本人はビジネスの場ではあくまで真面目に、日常生活も静かにつつましい印象を与えます。

 

しかし千年以上前に大陸から渡ってきた笑い話を日本流に書き換えて伝承し、何百年も前から落語や川柳を愛し続けてきました。

今回の大喜利大会は「日本のユーモア精神いまだ健在」を、世界中に強く印象づけたといえるでしょう。

 

しかも象徴的なのは「何らかの権力」主導ではなく庶民の間で自然発生した点です。

 

永禄2年といいますから 450 年近く前に建立された郡山八幡神社を修復した時、ある建材の裏側に大工の落書きが発見されました。

「神社がケチでいちども焼酎を飲ませてくれない」。

これはそんな古くから蒸留技術があり、しかも庶民にも親しまれていた貴重な資料として話題になりましたが、さらに世界が驚いたのは大工という一般階級の庶民が漢字かな混じりの文章を書けた、その識字率の高さです。

 

450 年前といえば、欧州ではまだトイレの汚物を2階の窓から平気で道に捨てていた時代です。

確かに活版印刷機はもっと前に発明されていましたが、ラテン語由来の言語は文字がせいぜい 30 前後しかなく、それさえ読み書きできない庶民が多くいました。

そんな時代に日本人はカタカナ、ひらがな、そして数千に及ぶ漢字を庶民が当たり前に使いこなしていたのです。

 

そんな昔から日本で愛され語り継がれてきた艶笑小咄、つまりポルノ小咄はいま語り手も語る場所も激減し、消滅の危機に直面しています。

現代語に訳された書籍も少なく、私もアマゾンで入手できるものはすべて買い求めましたが、もうそろそろネタが尽きそうです。

後は世界最大の古書店街である神保町で発掘するしかありません。

 

ネットに上げればデータは残ります。AI も学習してくれるでしょう。

誰かが未来に伝えてくれることを期待して、私はネタが完全に尽きるまで今後も発信を続けていきます。

 

それでは、TVer 同時視聴に参加いただける人は、また夜にお会いしましょう。

そうでない人は、どなたもよいお年を。

先月に始めた note の配信マラソンが、きのう終わりました。

 

もちろん何らかのトラブルで中断やリタイアを余儀なくされるのも心配でしたが、それよりも「加筆修正する時に内容を根底から変える必要が生じないか」が何より心配でした。
元記事を書いたのは 30 年以上前です。世の中は大きく変わりました。内容が古臭くなっていないか、若気の至りで見当違いのことが書かれていないか、新たに項目を追加や削除しなければならないのではないか……

 

しかしそれは杞憂に終わりました。確かに「てにをは」や句読点の修正から始めて時代に合わせた加筆もしましたが、いわばちょっとしたリフォームの範囲で、建物を支える基礎の部分は手直しの必要がありませんでした。
手前味噌ですが「30 年以上前から私はたいしたものだったんだなあ」と感心したものです。

 

ただ、ちょっとした副作用というか副産物というか、少し困っています。
「文章を書きたくて止まらない症候群」になってしまいました。

 

note は SM と主従関係に特化させたもの。

 

 

YouTube のチャンネルは艶笑小咄と悩み相談に特化させたもの。

 

 

そしてこのブログはそれ以外のすべて。
何だか残り物の寄せ鍋や冷蔵庫の掃除みたいですが、しばらくの間はブログの更新が増えるでしょう。

 

忘れていたわけではなく、これまで書く気にならなかった、とはいえ今年のうちに書いておくべき事があります。

 

今年の8月 26 日、私の母が他界しました。享年 94。

 

昨年の時点で予兆はありました。
実家で兄とふたりで暮らしていた母が吐き気を訴え、いくら吐いても止まらない。しまいには茶色い液体を吐くようになった。
すぐ救急車で搬送されて緊急入院。診断の結果は大腸癌でした。癌の腫瘍が大腸をほとんど塞いでいました。
肛門から医療用のパイプを挿入し、腫瘍を押し除けて大腸を再び開通させる処置が行われました。

 

さて、これからどうするか。医師と相談して選択肢は3つ。
全身麻酔で開腹手術をして腫瘍を切除する方法。これは高齢のため麻酔や手術に耐えられず命を落とすだろうから除外。
服薬や放射線で癌の進行を抑制する方法。これも高齢のため逆に命を縮めかねないので除外。
残るのはひとつ。

何もしない。

腫瘍が大腸を完全に塞いで命を落とすのが先か、寿命で自然に命が尽きるのが先か。どちらにせよ長くてあと数年。
退院した母はまたそれまでのように食事をし快眠快便、ただ趣味の手毬作り、毛糸玉を芯に糸を巻きつけて白い鞠にして表面に様々な色の糸で幾何学模様を縫っていくのは、もう目が悪くなって(左目は数年前に完全失明)針が危なっかしくて断念。
代わりに組紐、つまり糸を何本も規則的に交差させて紐を編んでいくキットを使って、何本も紐を編み上げました。順番を間違えるとそこだけ紐の模様が乱れてしまうので、ボケ防止にもなりました。
月に数回、私も自転車で実家に行き、そのたびに「来てくれてありがとう」といわれて手を握りました。
何も変わらない、穏やかな日々が続いていました。

先に訪れたのは、癌のほうでした、7月に再び激しく吐いたのです。
腫瘍がパイプの横から膨れて、大腸を完全に塞いでいました。できることは飲食を絶ち、点滴で水分と栄養を与えながら命が尽きるのを待つだけでした。

病院までは私の家からも実家からも徒歩や自転車で行けましたが、終末ホスピスは電車に2駅乗らないと行けない場所にあります。
それでも私と兄は毎日、欠かさず面会に行きました。
37 度の真夏の面会に、私の黒いTシャツは汗まみれになり、夜に乾くと白く塩のまだら模様が残りました。
病院で約2週間、ホスピスに移って約3週間、母は点滴だけで生き続けました。
水を飲みたい水を飲みたいと訴えますが、それはできません。綿棒で唇や口の中に塗るジェルを使うと少しだけ満足したような表情になりました。

そして8月 26 日の早朝、兄からの電話で起こされて「血圧が低すぎて測定できない、その時が近いらしい。自分もすぐ向かう」といわれてすぐに身支度をし、玄関で靴を履こうとした時に再び兄から電話が。

「いま呼吸が止まったそうだ」

私も兄も、母の死に目には会えませんでした。
ふたりとも最後に聞いた母のことばは前日の「きょうもきてくれてありがとう」でした。
正確にいうと前日に吐瀉したので、私は起こしてしゃべらせるとまた吐くかもしれないと考えて、眠っている母の手を握っただけでした。つまり私が最後に聞いたのは前々日です。
涙は出ませんでした。悲しみすらありませんでした。冷たくなり始めた母の頬を撫でて、ふたりの口から最初に出たことばは「お疲れ様でした」。

人間はたとえ健常成人でも水を飲まないと3日、何も食べないと3週間が生きられる限界だそうです。災害救助で 72 時間がタイムリミットといわれるのもそのためです。
まして飲食は食欲という本能です。
母は老いて弱った体で何も口にできず1ヶ月以上も点滴だけで小さな命の火を燃やし続け、そして静かに燃え尽きて消えたのです。

葬儀社は実家から歩いて5分ほどの場所で、いくつもの個室があります。
個室にはガラスで覆われた冷却装置付きの棺があり、遺族は 24 時間いつでも故人の全身をガラス越しに見られました。
火葬場の予約は3日後だったか4日後だったか、覚えていません。
私と兄は毎日その個室に行って線香をあげ、畳にあぐらをかいて少し思い出話をする程度で、黙って時を過ごしました。

実家の小さい仏壇には母の両親(私の祖父母)の位牌がありますが、私も兄も八百万の神の信者なので、葬式はしませんでした。
それらしきことといえば火葬の日に葬儀社の人が母に軽いメイクをしてくれて、私、兄、そして私の次女の3人で火葬用の棺に移された母をたくさんの花で囲み、あれほど飲みたがっていた水を3つの紙コップで枕元に置いたくらいでしょうか。
棺を乗せた霊柩車に3人で同乗し、火葬場に移動しました。

数年前に父が他界した時に知った事ですが、東京の火葬場は昔のように煙突の煙を眺めて故人を偲ぶことはできません。
いくら郊外にあるとはいえ都内ですから、やはり周辺住民への配慮が必要なのでしょう。
最後の別れをして棺に蓋をして機械に入れ、その扉が閉められたら後は広い待合室のソファで数十分待つだけです。

体の大きかった父の遺骨は骨壷にぎりぎり収まるほど量がありましたが、母の遺骨はかなり少なかったです。
最初に3人が箸で骨を拾って骨壷に1回だけ入れ、残りは職員がシャベル(東京では昔から片手で植木鉢の土をいじるようなやつが「シャベル」、1m くらいの両手と足で地面を掘るやつが「スコップ」です。逆の地域もあるようです)で骨壷に移して、最後に残った粉まで丁寧にブラシで集めて蓋を閉めれば、後は箱に納めて白い布で包んで終了。
いわゆる墓はなく、父がまだ認知症になる前に契約した納骨堂があります。いつ納骨堂に入れるかは遺族が決めます。
だからいま父と母の遺骨は実家に並べてあります。

私は幽霊や霊魂の存在を信じていませんが、生前のその人の強い「念」がその場に残る事はある、と考えます。
多くの事象が科学で説明できるようになっても、死後の世界は死なないとわからないし、死んだら戻ってこられない一方通行なので研究のしようがありません。
数少ない臨死体験、いちど死の淵まで行って生還した人たちの証言も、人により国によりばらばらで一貫性がなく、信憑性に欠けます。

車椅子の天才・ホーキング氏は「死後の世界はない。死んだら無になるだけだ」といい残しました。
若い頃に父親を亡くした親しい知人は毎年「盆になると玄関の扉を開く音やチャイムが聞こえる」といいます。
そしてある神社の宮司は「キリストさんもブッダさんもアッラーさんもみんな兄弟。大切なのは何を信じるかではなく、何かを信じようとする心です」といいました。

きょうもふたつの遺骨箱は静かに、ただ静かにそこに置かれています。

プロレスを「格闘技」と呼んでいいかどうかは大いに議論の余地がありますが、ボクシングはプロもアマチュアも真剣勝負で、文字通り格闘技です。
もちろん元々はルールも何もない素人の殴り合いに人々が勝敗を賭けたのが発祥といいますから、真剣勝負であるか以前に「スポーツ」に含めてよいか自体いまだに議論されています。私は個人的にスポーツでいいんじゃないかと考えています。
 
近年、テレビ局が強引に神輿を担いで「新たなスター」として祭り上げた亀田親子という最低のチンピラのせいで、プロボクシングも出来レースだ八百長だと信頼は地に堕ちましたが、あれほどあからさまな視聴率目当ての客寄せパンダは例外で、ほとんどのプロボクサーはルールを遵守して真剣勝負で戦っています。
そういえば少年院あがりのマイク・タイソンが更生して世界チャンピオンまで上り詰めたのに、防衛戦で対戦相手のイベンダー・ホリフィールドの耳を噛みちぎって反則負けで失冠して「やはりしょせんはチンピラの殴り合い」の印象は常につきまとうんですけどね。
 
で、話を「まともなスポーツとしてのボクシング」に戻すと、私が大学を出てしばらくの間までは試合がテレビの地上波でゴールデンタイムに流れていました。ファイティング原田の試合は子供の頃にテレビに向かって応援していました。
その後のガッツ石松、輪島功一、渡嘉敷勝男は完全にリアルタイム世代で、引退後はいずれもタレントや俳優、自身のボクシングジム会長としていまでもテレビの地上波で時折(私はもう地上波は月に数回しか観ない)見かけると、現役時代を思い出して懐かしく思います。
 
中でも強く印象に残っているのは「カンムリワシ」こと具志堅用高です。
 
世界チャンピオンを連続防衛すること 13 回、ダウンした相手に執拗に殴り掛かろうとしてレフェリーに制止されることもしばしばあり、後にその理由を「あそこでとどめを刺しておかないと後で殺しにこられる」と語った、まさに本格的ファイターでした。引退後にタレントに転身し、天然ボケと意図的ウケ狙いが混ざって現役時代を知らない人たちにも広く親しまれています。
ところがいまでもたまに「ファイターの目」になることがあり、司会の上田晋也は「こんな恐ろしい人を俺はバカ枠扱いしなきゃいけないんだ、その苦労をみんな知ってほしい」と愚痴っていました。
 
その後も日本人の世界チャンピオンは多く生まれましたが、それに反比例するように地上波での中継は激減し、いまではほぼ完全に PPV やサブスクでないと観られなくなりました。たまにスポーツニュースで取り上げられる程度。世間で広く話題になったのは、羽賀研二時件をはじめ数々の反社会的行為を犯しては服役し、ボクシング界から永久追放されて完全にヤクザになった渡辺二郎くらいのものです。
しかし、野球の大谷翔平が日本のプロ野球で二刀流が話題になり、MLB に行ってからは「GOAT (Greatest Of All Time)」と呼ばれ日米のみならず世界中で賞賛されているまさにいま現在、やはり GOAT と呼ばれもしかすると大谷以上に世界中が褒め称える日本人ボクサーがいます。
 
井上尚弥です。
 
1993 年生まれで大谷よりひとつ年上、プロ入りも 2012 年で大谷より1年早い。つまり井上と大谷はほぼ同じ期間をプロとして活動してきました。
1年に 100 試合以上戦う野球とは異なり、ボクシングは体重別の級があるので減量をしなければならず、またパンチを食らって体にダメージを負うので年間に多くても5試合程度しかできません。だから単純比較はできませんが、井上は現時点で 31 戦 31 勝(27 KO)0敗。それもほとんどがチャンピオンを賭けての奪取か防衛です。
しかもボクシングには WBC、WBA、WBO、IBF という別々の組織があり、それぞれに世界チャンピオンがいます。井上はその4団体ですべて勝って4団体統一チャンピオンとなり、それを返上して体重の級をひとつ上げてはまた勝って4団体統一、を繰り返してきました。
 
あの将棋の怪物・藤井聡太でさえ対局5回のうち1回は負け、MLB 殿堂入りしたイチローでさえ5打数のうち3回以上はノーヒットだったのですから、10 年以上ほとんどチャンピオンか挑戦者としか戦わずしかも0敗というのはあまりに現実離れしているとしかいえません。
井上のパンチは、ある対戦者いわく「同じ階級のボクサーの中で、常人の3倍は重い(ダメージが大きい)」らしく、「井上のグローブには鉛が仕込まれているのでは」と疑われて対戦後にわざわざ確認させに行ったこともあるそうです。そのあまりの破壊力に試合中に自らの拳を怪我してしまい、パンチは残ったもう一方の手だけでしか出せず、それでも戦い続けて勝ったこともありました。
 
大谷やイチロー、藤井の名前を出せば、ほとんどの日本人は(程度の差こそあれ)知っていると答えるでしょう。
しかし井上尚弥の知名度はそこまで高くないし、もしかすると日本より世界の人たちのほうがよく知っているかもしれない。
試合の生中継はなくても、YouTube で「井上尚弥」を検索すれば動画はたくさん見つかります。
「知らなかった」「知っているけど詳しく知らない」という人は、ぜひご覧になって目に焼き付けてください。
まさにいま現役で、あの大谷翔平に並ぶかもしかするとそれ以上の日本人アスリートがいることを、ひとりでも多くの人に知ってもらいたくて一文をしたためた次第です。

まるで冷やし中華のようなタイトルですが、始めたのは実際に走るマラソンではありません。

 

以前にも述べたように、私は主従関係の主(SM の S)としてそれなりの数の隷を飼ってきました。そしてその自己紹介というか「SM とは何か、主従関係とは何か」をまとめた講義をメインコンテンツとするホームページを作り、世間で持たれている SM のイメージに苦言を呈し続けました。そのホームページはプロバイダの閉鎖などによって移転を続け、現在では note に落ち着いています。

 

 

自分で HTML をがりがり書いてジャンル分けや目次などを作っていたので、ホームページの中身はかなり複雑でした。一方の note は単に記事が一覧になるだけです。時間に追われていた私は目次から飛べる 10 本程度の記事を1本にまとめて note に配信しました。

 

これがまずかった。ひとつの記事が1万字を超えてしまったのです。

 

まだスマホはおろか携帯電話そのものが限られた人しか持っていない時代に作り始めたので、ホームページはパソコンで閲覧されることを前提にデザインされていました。ひとつの記事を読むのにスクロールが多くても数回で済みます。ところがいまやスマホしか持たずパソコンは学校や職場でしか使わない、という人(特に若者と老人)が多くを占めるようになると、画面に表示できる文字数は減り、必然的にスクロールは何倍にも増えます。ましてそれが何本もまとめられたものですから、最初から「読むな」と喧嘩を売っているようなものです。

 

note に「マガジン」という、複数の記事をひとまとめにして読める機能があると知ったのは、最初の配信からずいぶん経ってのことです。

 

すでに配信を始めてしまった。しかも「1年前期」から「2年後期」まで1万字以上が4本もある。いまから再配信や削除をするとせっかくの読者さんを遠ざけてしまいかねない。そこで考えました。ホームページの中身は「講義」だけでなく、コラムや DIY など別の記事もあるので、それらを織り交ぜながらいちど4本を配信して note の基本となる土台を作り、それから改めて元のバラバラの記事で再配信してマガジンにまとめよう、と。

 

そんな経緯があって本日、告知をして再配信を始めました。1本のまとめ記事が9項目、それをバラして1日1本ずつ再配信します。計算上は今年中にぎりぎり終わるはずですが、もしかすると私の体調不良やマシンのトラブルで1月に食い込む可能性もあります。1月といえばマラソンや駅伝のシーズン。実際に走るわけではない私の「配信マラソン」が、いよいよ本日から始まりました。

 

作業そのものはコピーペーストと配信処理だけなので、10 分もあれば終わりです。しかし身体や機械のトラブルはどうしようもありません。実際のマラソンでもいきなり体が思い通りに動かなくなる「魔の 35km」があります。何が起こるかわからないのが世の中です。

 

はたして私は、無事にゴールテープを切れるでしょうか。

MLB のワールドシリーズで、ロサンゼルス・ドジャーズが2連覇を果たしました。

 

相手は昨年の最下位から一転、優勝して地区シリーズとリーグ優勝決定シリーズを勝ち上がってきたトロント・ブルージェイズ。

下馬評ではナショナルリーグで「今シーズンで最も賢い野球をしている」といわれたミルウォーキー・ブリュワーズをスウィープ(4勝0敗)で退けたドジャースが有利といわれていましたが、蓋を開けてみたら3勝3敗、きょう勝ったほうが優勝という大接戦になりました。

 

そして最終戦、先発の大谷がホームランで3点を先制され早々に降板する苦しい展開でしたが9回表、あとアウト2つでブルージェイズ優勝という場面でドジャースがホームランで追いつき、その裏のピンチにロバーツ監督が登板させたのはきのう6回を投げて勝利投手になった山本由伸でした。

ワールドシリーズで前日の先発勝利投手がリリーフで投げるのは 2001 年、アリゾナ・ダイヤモンドバックスのランディ・ジョンソン以来です。

山本はピンチをしのいで延長戦となり、その後もマウンドに立ち続けて 11 回に勝利投手になりました。

シリーズ4勝のうち3勝は彼が挙げました。シリーズ MVP 受賞も当然でしょう。

 

本当におめでとう、と手離しで祝福したいところですが……

 

いくら本人が投げるといっても、そんなに無理をさせてよいのだろうかという疑問は拭えません。

彼はまだ 27 歳で、普通に考えればあと十数年は MLB で活躍できる人材です。

いくら目の前の優勝のためといえ、肩や肘を酷使しすぎではないでしょうか。

 

現在の MLB の投手起用は、ほぼ完全な分業制です。

先発投手はノーヒットノーランやパーフェクトでも続けていない限り、100 球を超えるとマウンドを降りてブルペンに後を託すし、いちど先発すると中4日は休みます。

広大な北米大陸を移動しながらレギュラーシーズンだけで 160 戦を超えるシーズンを乗り切るには、それだけの休息が必要なのです。

 

昔の野球はめちゃくちゃでした。

MLB の通算勝利数は最多のサイ・ヤングが 511 勝、2位のウォルター・ジョンソンが 417 勝。
年間 20 勝を 20 年続けても 400 勝ですが、サイ・ヤングは年間 30 勝以上を5回達成しています。
特に 1892 年は 49 試合に先発して 48 完投、36 勝 12 敗。それだけ登板間隔も短かったわけです。
 
ヤングやジョンソンは選手生命が長く、20 年前後でこれらの記録を残しました。「太く長く」です。どんな体してたんでしょうかね。
これが瞬間最大風速、つまり選手生命は短かったけれど大活躍した場合では、1884 年にラドボーンという投手が何と 59 勝、1885 年にクラークソンが 53 勝というとんでもない記録が残っています。20 世紀以降では 1904 年にチェスブロが 41 勝しており、これ以降 100 年以上 40 勝投手はいませんし、今後も生まれることはないでしょう。
 
日米で大活躍した平成の怪物・松坂大輔はが 30 代になって急に怪我が増えたり衰えたのは、高校時代の投げ過ぎが一因といわれています。
逆に前述したランディ・ジョンソンは 45 歳まで第一線で活躍して 300 勝も達成しました。
山本はどちらの道を辿るのでしょうか。
 
今年は先発で好投しながらブルペンが崩れて逆転され勝ちがつかなかった試合が多く、もしそれがなかったら 20 勝はしただろうといわれています。
名実ともに世界有数の投手のひとりとなった山本が、来年以降1年でも長く活躍するることを願って止みません。
 
改めてワールドシリーズ連覇、本当におめでとうございます。
 
 

えー、どうも、しーなです。

アメーバに引っ越してきて、本来なら向こう三軒両隣にご挨拶をすべきところでしたが、なぜか筆が進まぬまま今日に至ってしまいました。
その間に何人もの note の読者さんにフォローをいただいて、恐縮しております。

かといっていまさらご挨拶というのも遅きに失していますし、何も書かないのも不自然なので、毒にも薬にもならない話でお茶を濁させていただきます。

初めてSM雑誌を読んだのが中学生の時でした。
当時はもちろん女性との肉体関係は未経験で、なぜ抵抗もせずおとなしく縛られるのを待っているのか、なぜ鞭で打たれたり蝋を垂らされて悦んでいるのか、何もわからないままグラビアの縛られた女性の写真に興奮していました。
小説のほうは当時は犯罪的シチュエーション(強盗が亭主を縛ってその目の前で女房を弄ぶ、など)が多く、あまり没入できるものではありませんでした。
とにかく漠然と「女を弄ぶ」ことに憧れていました。

転機になったのは、高校生で「O嬢の物語」に出会ったことです。
おそらく女性であろうといわれている作者の視点で語られる数々の描写は、私に「力づくで跪かせるのではなく、逆に自分が『女性が自ら隷属したいと思わせる男』にならねばならない」ことを気づかせました。
しかしまだ童貞だった私には、それは遠い目標でしかありませんでした。

話はそこから一気に十数年飛びます。

21歳で童貞を捨て、まあ少ないなりに人並み程度の女性遍歴を積み重ねる中で、私はひたすら理論武装を重ねて、「奴隷を飼う」のではなく「隷を飼う」ことが私の求めるものであるという結論に達しました。

それからは何人か隷を飼って、私は自分なりの主のありかたを磨いてきました。
「何人か」飼ったということは、その数だけ別れがあったわけで、当時の私は既婚者だったので隷を嫁にするわけにはいかず泣く泣く別れたこともあるし、相手も既婚者でしたがその旦那さんが要介護になって別れたこともありました。
関係が数年間続いたことも、逆にほんの数回で破局したこともありました。

で、私が50歳になる直前にうつ病にかかって当時の隷と別れ、それから還暦を過ぎた現在も隷がいない生活を送っているわけです。

こんなことをいうとSMブーム時代の釣り堀サイトのようですが、前期高齢者となった私にはもう時間があまり残されていません。
生きているうちに新しい隷に出会えることを、心から願っています。

本日、note に新たな記事を投稿して、このブログへのリンクを貼りました。
 
 
これでこのブログの存在が、note の読者さんにも伝えられました。
 
もちろんnote の投稿は始めたばかりなので、これまで年に数回の更新だったのが今後は毎日のように、なんて都合のいい話はありません。
おそらく最初のコメントを頂戴するまで、何週間も何ヶ月もかかるでしょう。
まあのんびり待つことにしましょうか。
 
……と以前の私ならいっていたと思いますが、いかんせん私は歳をとりすぎました。
いつの間にか前期高齢者です。平均寿命まで生きてもあと 20 年弱しかありません。
早いところ note を以前の「心理学科第二心理研究室」のように充実させて、多くの人と交流したいと考えています。
 
取り急ぎ、リンクを貼った報告でした。