肺がんのステージ4を宣告されて,18年の歳月が過ぎました。

 

 

32歳の春に見た桜の花は,とても切なくて,あと何回この花を見ることができるのだろうと,ぼんやりと見つめていたように思います。そして,花見を楽しむ家族連れの人たちや若い人たちを遠巻きに眺めながら,あたりまえに広がる日常の生活から,何だか自分だけ取り残されたかのような孤独を感じていました。

 

仕事に充実感を覚える働き盛りの年代で,将来の具体的な展望も持てず,「生きる」ことが最大の目標となる人生をこれからどう過ごせばよいのだろうと思い悩んだ時もたくさんあります。

 

職場に復帰しても,再発の不安は常に頭から離れることはなく,体調がすぐれず思うように仕事ができないときや,周囲の何気ない一言が必要以上に胸に刺さったときも幾度となく経験しました。

 

闘病と言うよりも,自分の不安との戦いと言った方が,私にはしっくりきます。自分の不安をかき消すかのように,その後はひたすら仕事に没頭してきました。自分の病気を言い訳にはしたくない意地もありました。幸いなことに,5か月間の入院治療から7年間,再発することなく仕事に専念でき,管理職として結果を残すこともできました。

 

残りの人生に後悔はしたくないと考え,周りの反対を押し切り,40歳を目前にして,会社を退職し,独立開業の道を選びました。肺がんで余命宣告を受け,経過観察中の身にありながら,家族にはまたもや多大なる心配と迷惑をかけてしまいました。

 

開業後2年間は貯金を切り崩す毎日で,ただ事業を軌道に乗せることだけを考え,必死に働き,自分の病気を振り返る余裕も正直ありませんでした。開業2年目が終わる頃,今度はまさかの精巣腫瘍になってしまいました。41歳にして,肺がんに次ぎ,二度目のがん体験です。まだ仕事も軌道に乗らず,経済的に苦しい中,本当に自分の運の悪さを呪いたくなりました。

 

しかし,肺がんでどん底を味わい,手術も放射線治療もできない最後尾からのスタートを余儀なくされた自分にしてみれば,精巣腫瘍(非セミノーマ)は「手術できるがん」であり,その分,冷静に対処できました。ただし,有用な腫瘍マーカーであるαFP(アルファフェトプロテイン)が2700,HCC-βが33という,かなり高い数値を示し,右高位精巣摘出手術後は入院4か月程度の抗がん剤治療を,執刀医から強く勧められました。

 

会社員の立場だったら,抗がん剤治療を選択していたかもしれませんが,開業間もない自営業の自分にとっては,長期の入院治療となれば,その期間まったくの無収入で廃業の危機に立たされてしまうため,外科手術後すぐに退院の道を選びました。結果的にその後,腫瘍マーカーは正常値に戻り,現在に至るまで再発なく,肺がんに次ぎ,二度目の命拾いとなりました。

 

今回,このブログで取り上げた詩は,すべて肺がんの体験をもとに書き上げ,2002年に,PHP研究所より出版させていただいた詩集「ボクハココニイル」のものです。今回,自分でブログを始めるにあたり,他の方のさまざまな闘病記を読ませていただきました。本当にたくさんの方が自分以上に悩み苦しみ辛い体験をされている中で,努めて前向きに明るく書かれていることに心を打たれました。

 

私はたまたま運が良かっただけで,がんについて誰かの相談に答えたり,治療に対してのアドバイスなどは到底できません。自分の病気に置き換えても,「なぜがんになったのか」と同様に「なぜ今生きていられるのか」との問いに対して,医学的な明確な答えは見つかりません。ただ,がんは本当に人それぞれで,自分のような人間もいるということはお伝えしてもいいのかなと思っています。

 

 

あれから18年,自分が望むことも望まないことも含め,いろいろなことを体験してきました。大切な人との別れも少なくありませんでした。予期せぬ不運に見舞われるとともに,予期せぬ幸運にも救われてきた自分のこれまでの人生ですが,おかげさまで現在は仕事も軌道に乗り,健康には気を配りながら元気に過ごしています。

 

 

今年,50歳の春に見た桜の花は,とても美しかったです。