Pool Hall Richard (2010 Remaster)

Pool Hall Richard (2010 Remaster)

 

ROD STEWART- The Faces ~ Pool Hall Richard 1973

ROD STEWART- The Faces ~ Pool Hall Richard 1973

 

これまでにフェイセズを更新した回は、下記です。

【faces】のブログ記事検索結果|Ameba検索

 

最終的には「ロッド・スチュワート & ヒズ・バンド」みたいになってしまったが、

 

この曲はまだそうでもなかった1972年だったが、

 

1974年には急激にロッド色が濃くなった。

フェイセズ - Wikipedia

フェイセズ (Faces) は、1969年代の末から1970年代の半ばまで活動したイングランドロックバンド。主なヒット曲には「ステイ・ウィズ・ミー「玉つきリチャード」などがある。他にも「いとしのシンディ」などを録音している。

2012年、前身のスモール・フェイセスと共にロックの殿堂入りを果たした[1]

キャリア

1968年の末に、スモール・フェイセスからスティーヴ・マリオット(ギター、ヴォーカル)が脱退[2][注釈 1]残されたロニー・レーン(ベース・ギター)、イアン・マクレガン(キーボード)、ケニー・ジョーンズ[注釈 2]。(ドラムス)の3人は、元ジェフ・ベック・グループロッド・スチュワート(ヴォーカル)とロン・ウッド(ギター)を迎え、バンドをフェイセズと改名した。[3]ロッドは、メンバーとしての活動と並行してソロ活動を行ない、他のメンバーは彼のソロ・アルバムのレコーディングにも参加した。しかし、ロッドのソロ活動がフェイセズの活動よりも大きな成功を挙げるようになり、ロッドの比重が大きくなりすぎるようになってしまった。 フェイセズは1972年から、イギリスだけでなくアメリカでも「ステイ・ウィズ・ミー」「玉つきリチャード」の2曲をヒットさせた。[4]

 

1973年に発表された彼等の最後のスタジオ・アルバム『ウー・ラ・ラ』のレコーディングの前半では、スチュワートはスタジオに顔を出すことが少なく、アルバムはバンドの創設者であり、多くの楽曲を手掛けてきたロニー・レーンの主導によって制作されていった。後年、マクレガンはこのアルバムはレーンのアルバムだと語っている。その後ロニー・レーンはバンドを脱退した。

 

彼らはレーンを失ったがバンドの継続を選択し、彼の後任にフリーのベーシストだった山内テツを迎え[5]翌1974年にロッド・スチュワート・アンド・フェイセズの名義でライブ・アルバム『ロッド・スチュワート&フェイセズ=ライヴ』を発表。同年2月には日本公演を行なった。しかしこのライブ・アルバムにはかつてレーンが醸し出していたグルーブ感はなく、タイトルの通りロッド・スチュアート&バック・バンドという感が強かった。さらに録音の悪さも相まって、評論家達に酷評された。1975年にはウッドがローリング・ストーンズと活動を始め、スチュワートと他のメンバーの相違が明確になった。その結果、彼等は同年に解散した。後にスチュアートは、ロニーはストーンズにおいてのキースみたいな存在だった。ロニーの脱退と共にフェイセズの魂は無くなったと述懐している。

 

同時代のバンドであり、多くのヒットを量産したローリング・ストーンズザ・フーらと比較すると、フェイセズは地味なバンドだった。彼らの、酔いどれバンド的なバンド・イメージは、ポーグス[6]、ドッグス・ダムール、ダブリナーズ、ブラック・クロウズ[注釈 3]、トレイン[注釈 4]などのバンドに影響を与えた。

 

「Pool Hall Richard / The Faces」

Pool Hall Richard / Faces の歌詞 (675776) - プチリリ

J1神戸は28日、DF小池裕太(29)との契約を満了したと発表した。J1横浜Mから今季神戸に加入したが、リーグ戦の出場はなかった。小池は「結果としてプレーで証明できず、自分の力不足だと痛感している」とコメントした。

うちは今季45得点
下のリンセン以外を足すと49得点爆弾

木下 9G4A
小泉 7G4A
江坂 6G5A
長倉 5G2A
高橋 5G1A
佐藤 5G
松崎 4G5A
汰木 2G
ショルツ 2G
前田 2G
二田 1G2A
ユンカー 1G
本間 2A
(参考)リンセン10G7A

 

スポニチ 8年ぶりJ1昇格の長崎 新潟MF長谷川元希&浦和FWチアゴ・サンタナをW獲りへ
https://news.yahoo.co.jp/articles/172f9f0338fc0f5bbc7662524a35fbfe5e3538ed

 

工藤孝太選手 ファジアーノ岡山へ育成型期限付き移籍延長のお知らせ
https://www.urawa-reds.co.jp/topteamtopics/235191/

CB足りなくねはてなマークはてなマーク

 

【山形】新スタジアム構想の検討状況に関するご報告
https://www.montedioyamagata.jp/news/p/129695/

これまで「年内に一定のめどをつけたい」という考えをお伝えしてまいりましたが、現時点において、具体的な内容や決定事項を発表できる段階には至っておりません。

 

岡山にデンマーク2部のGK
x.com/i/status/2005639287933722799

 

契約更新選手(12月30日現在)のお知らせ

■契約更新選手(12月30日現在)
山本 英臣(やまもと ひでおみ)選手

生年月日:
1980年6月26日生まれ(45歳

https://www.ventforet.jp/news/team/525125

 

浦和レッズ出身・橋岡大樹に移籍報道!新天地候補は?W杯日本代表入り微妙
https://football-tribe.com/japan/2025/12/30/345256/

 

【レナート モーザー選手 コリングIFより完全移籍加入基本合意のお知らせ】
このたび、コリングIF(デンマーク)よりレナート モーザー選手が完全移籍加入することで基本合意に達しましたので、お知らせいたします。

https://www.fagiano-okayama.com/news/202512301700/

■生年月日 : 1999年12月6日
■ポジション : GK
■身長/体重 : 196cm/88kg
■出身地 :ドイツ

Underground

Underground

 

Men At Work - Underground

Men At Work - Underground

 

これまでにメン・アット・ワークを更新した回は、下記です。

【men at work】のブログ記事検索結果|Ameba検索

 

1年4か月振りのメン・アット・ワークです音譜

 

白目むいて歌うコリン・ヘイにびっくりですが、

 

やはりSAXが心地よいアップ

メン・アット・ワーク - Wikipedia

メン・アット・ワークMen at Work)は、オーストラリア出身のロックバンド。1979年にコリン・ヘイとロン・ストライカートとのアコースティック・デュオとして結成され、後にジェリー・スペーサー、ジョン・リース、グレッグ・ハムが加入しバンド形態ができあがる。

 

1983年にグラミー賞最優秀新人賞を受賞し、アリア・ホール・オブ・フェイム英語版)の殿堂入りを果たした。

来歴

1979年にコリン・ヘイとロン・ストライカートとのアコースティック・デュオとして結成[1]。その後、ジェリー・スペーサー、グレッグ・ハム、ジョン・リースが加入[1]1981年にアルバム『ワーク・ソングス (Business as Usual)』をリリース。アルバムの好評を受けて1982年に世界進出する。いきなり「ノックは夜中に (Who Can It Be Now?)」、「ダウン・アンダー (Down Under)」という2曲の全米ナンバーワンヒットを放ち、グラミー賞最優秀新人賞にも輝いた。

『ワーク・ソングス』は日本ではオリコン洋楽アルバムチャートで1983年3月28日付から4週連続1位を獲得した[6]

 

コリン・ヘイの飄々とした歌声と、(多くの世界地図を上にして描かれることから)オーストラリアが世界地図の下側にあることを自虐的に「ダウン・アンダー」と表現するユーモアセンスが受け、一時はオーストラリアのロックを指して「オージー・ロック」なる言葉も生まれるほど、シーンに対する影響力を持った。

 

初の日本公演は1983年4月。招聘元はVAN Production(現H.I.P)。中野サンプラザで始まり渋谷公会堂で終わった。

 

余勢を駆ってセカンド・アルバム『カーゴ』もヒットするが、メンバーの脱退もあって後が続かず、1986年に活動を停止。ヘイはソロ活動に移行したが成功には至らなかった。

 

1996年に再結成され、2000年シドニーオリンピックの閉会式においてライブ・パフォーマンス[7]を行うも、2002年には再び解散。

 

以降はコリンとグレッグの2人がゲストやサポート・メンバーを迎えて、不定期にライブ活動を行っていたが、2012年にグレッグが58歳で死去[8][9]

 

2019年、ヘイがバック・バンドを迎えてツアー活動を再開[10]

 

「Underground / Men At Work」

Underground / Men At Work の歌詞 (755871) - プチリリ

浦和、柏を契約満了のDF片山瑛一を獲得 万能性光る34歳「自分の持てる力の全てを懸けて日々精進」
https://news.yahoo.co.jp/articles/48dc5babcc2b14d625005436dc7a48544be61dd5

30歳以上

西川周作…1986/6/18
片山瑛一…1991/11/30
イサーク…1992/6/24
牲川歩見…1994/5/12
中島翔哉…1994/8/23
グスタフソン…1995/1/11
関根貴大…1995/4/19
柴戸 海…1995/11/24

 

J1通算勝利数 1993~2025 ⭐=優勝
 616勝 鹿 島 ⭐⭐⭐⭐⭐⭐⭐⭐⭐
 554勝 横浜M ⭐⭐⭐⭐⭐
 500勝 浦 和 ⭐
 489勝 G大阪 ⭐⭐
 488勝 名古屋 ⭐
 467勝 広 島 ⭐⭐⭐
 432勝 清 水
 401勝 磐 田 ⭐⭐⭐

 

浦和レッズ、埼玉出身ベテランDF片山選手を獲得!ファンは期待と不安を表
https://search.yahoo.co.jp/realtime/search/matome/09b9e171f2314ea185814c272c4ec514-1766826614?fr=rts_tl_matome

 

ゲルト エンゲルス監督 就任のお知らせ
https://www.vortis.jp/news/15598/

 

レッドブル傘下のJ2大宮、入場者数が1・5倍に…グッズも1億円以上増・スタジアム再整備にも期待
https://www.yomiuri.co.jp/sports/soccer/jleague/20251223-GYT1T00417/
https://www.yomiuri.co.jp/media/2025/12/20251223-GYT1I00418-1.jpg

 

1stカラーをまさかの変更! Jクラブの新ユニフォームにファン騒然「オレンジ封印」「カッコいい」
https://web.gekisaka.jp/news/jleague/detail/?443573-443573-fl

 

https://x.com/coedo_hometown/status/2005170666610581931
【COEDO活動】COEDO KAWAGOE F.C@coedo_hometown

【川越出身 現役Jリーガー選手 サッカー教室開催⚽】

川越水上公園にて
#片山瑛一 #荻原拓也 #早川隼平 #小澤亮太 #中島舜 選手
が参加!
100名ほどのお子さんと一緒にサッカーを楽しみました📣
トークショーで子どもたちからたくさん素敵な質問🎙

ご参加ありがとうございました😀

Bob Marley - Is This Love (Official Music Video)

 

Bob Marley - Is This Love (Live)

Bob Marley - Is This Love (Live)

 

これまでにボブ・マーレイを更新した回は、下記です。

【bob marley】のブログ記事検索結果|Ameba検索

 

年末のBS朝日で「ベストヒットUSA」1時間特番があった。

 

その中で、ゲスト・コメンテーター2名がそれぞれ1980年代のベスト5を選ぶ企画があった。

 

そこにボブ・マーレイの名前があった。

ジャンルを超えた偉大な星であり、1980年代ギリギリの1980年まで活躍したアーティスト

ボブ・マーリー - Wikipedia

ロバート・ネスタ・マーリー英語Robert Nesta Marley OM1945年2月6日 - 1981年5月11日)は、ジャマイカシンガーソングライターミュージシャンレゲエの先駆者の一人であり、スカの時代から活躍しロックステディレゲエの時代まで音楽界を駆け抜けた。また洗練された歌声と宗教的・社会的な歌詞、曲で知られた。マーリーは60年代から80年代初頭までレゲエ音楽とカウンターカルチャーの活躍により、ジャマイカ音楽の世界的な認知度を高めることに貢献した。マーリーはラスタファリの象徴、ジャマイカの文化とアイデンティティの世界的なシンボルともみなされた。マリファナ合法化支持者であり、汎アフリカ主義でもある。音楽ソフトの推定売上枚数は世界中で7,500万枚を超え、マーリーの音楽と思想は後進のミュージシャンなどに影響を与えた。

 

1962–71年:初期の活動

ビヴァリーズ・レコード時代

マーリーは1962年のはじめから再び店を訪ねてオーディションを受け、自身の作曲した「Judge Not」を披露。その後ビヴァリーズ・レコードから「Judge Not」「Do You Still Love Me?」「Terror」の3曲を発表、ボビー・マーテル(Bobby Martell)名義では「One Cup Of Coffee」の1曲を発表した。

 

1963年、セデラがセカンド・ストリートの家を離れアメリカへ行くと、マーリーはトレンチタウンで路上生活をするようになった。この時の体験が1974年発表のアルバム『Natty Dread』収録の名曲「No Woman No Cry』を生んだ。同年、マーリーはバニー・ウェイラーピーター・トッシュ[注 1]、ジュニア・ブレイスウェイト、ビバリー・ケルソ、チェリー・スミスらと共にザ・ティーンエイジャーズを結成。後に彼らは名前をザ・ウェイリング・ルードボーイズ、ザ・ウェイリング・ウェイラーズと変更していくが、スタジオ・ワンのレコードプロデューサーであるコクソン・ドッドと契約する頃、最終的にザ・ウェイラーズになった。

1967年から1971年の活動

1968年までに「Bend Down Low」「Mellow Mood」「Nice Time」「Hypocrites」「Stir It Up」「Selassie Is the Chapel」などが発表されている。このころからマーリーも髪形をドレッドからアフロに変えている。

 

1967年、マーリーとバニー・ウェイラーが大麻不法所持で逮捕、投獄された。マーリーは1ヶ月間、バニーは約12ヶ月間の生活を送ることになる。1967年8月23日、妻のリタがセデラ・マーリーを出産した。マーリーとリタは娘と共に1970年までセント・アンで暮らす。

1968年、ジョニー・ナッシュ、ダニー・シムズと契約する。ピーター・トッシュが「反ローデシア白人政権デモに参加」し逮捕される。1968年10月17日、リタがデヴィッド・マーリー(ジギー・マーリー)を出産した。

 

1969年、レスリー・コングの下で10曲レコーディング。これは翌年にアルバム『The Best of The Wailers』として発表される。「Stop That Train」「Soul Captives」「Cheer Up」などが収録されている。なお、メンバーは「そのアルバムタイトルは偽りだ」「もしリリースされるような事があれば、お前は死ぬ事になるだろう」などと言い、アルバムの発表に反対していた(実際には1970年に心臓発作で亡くなっている。)。同年春、家族と共にアメリカへ向かい秋まで再びデラウェア州で働く。この経験から「It's Alright」を作曲。1976年にはこの曲をアルバム用に作り直し「Night Shift」と改題している。

 

リー・ペリーとそのスタジオ・バンドのザ・アップセッターズに出会い、1969年の後半から1970年にかけて数々のセッションを行い、レコーディングした(「Duppy Conqueror」「Small Axe」「Corner Stone」「Soul Rebels」「Lively Up Yourself」「Kaya」「400Years」「Stand Alone」「Sun is Shining」など。)。やがてザ・アップセッターズのメンバー、ベースのアストン・バレット(ファミリーマン)とドラマーのカールトン・バレット(カーリー・バレット)はザ・ウェイラーズのメンバーに加わり、バンドのサウンドに大きな変化をもたらした。

 

1970年の7月頃、アップセッター・レコードからボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズ名義でアルバム『Soul Rebels』を発表、デラウェア州で稼いだ僅かな資金をもとにキングストン市ホープロード56番地に自身のスタジオ、レーベルであるタフ・ゴングを設立。同年暮れにビヴァリーズ・レコードからアルバム『The Best of The Wailers』を発表する。

 

1971年の始め(もしくは1970年の終わり)、アップセッター・レコードからボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズ名義でアルバム『Soul Revolution』を発表する。同じ頃、ジョニー・ナッシュとダニー・シムズに映画のサウンド・トラック制作に誘われスウェーデンへと渡った。

 

1971年春、ロンドンにてCBSで「Reggae On Broadway」などをレコーディング。夏にタフ・ゴング・レーベルから発表した「Trenchtown Rock」が大ヒットした。暮れにはジョニー・ナッシュのイギリスツアーに参加。CBSから「Reggae On Broadway」を発表、しかし不発に終わった。

アイランド・レコード時代

1972年、クリス・ブラックウェルのアイランド・レコードと契約、アルバムのレコーディングを開始。ブラックウェルは「レゲエのリズムよりもゆったりと漂う催眠的な雰囲気」を望み、マーリーのミックスとアレンジを再構築。マーリーはロンドンへ出向き、ジャマイカ音楽の低音が効いた重たいサウンドのミックスを調整し、2トラックを省略するなどアルバムのオーバーダビングを監督した。

 

1973年春、メジャーデビューアルバム『Catch a Fire』を発表(「Concrete Jungle」「Slave Driver」「Stir It Up」「Kinky Reggae」「No More Trouble」)。この頃、トロージャン・レーベルからアルバム『African Herbsman』が発表された。5月、イギリスのラジオ番組「トップ・ギア」にて演奏。6月には厳格なラスタであるバニーが適切な自然食を取ることが出来ないなどの理由から、ツアーへの不参加を表明した。7月、バニーの代わりにジョー・ヒッグスを加え初のアメリカツアーを行い、ニューヨークではブルース・スプリングスティーンの前座を務める。デビューアルバム発表から約半年後の10月19日、アルバム『Burnin'』を発表した。(「Get Up, Stand UpI Shot the Sheriff「Burnin' And Lootin'」「Small Axe」「Rastaman Chant」など。)

 

1974年1月、新メンバーを迎えアルバム『Natty Dread』のレコーディングを開始する。5月、マーヴィン・ゲイのジャマイカ公演でオリジナルウェイラーズが復活、最後の演奏を行った。その直後タフ・ゴング・レーベルから発表した「Rebel Music (3 O'Clock Roadblock)」がヒット。7月、エリック・クラプトンが「アイ・ショット・ザ・シェリフ」をカバーし、全米ビルボードチャート1位を獲得する。10月25日、アルバム『Natty Dread』を発表した。(「Lively Up Yourself」「No Woman No Cry」「Them Belly Full (But We Hungry)」「Natty Dread」「Talkin' Blues」など。)

ボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズ

1975年にバニー・ウェイラーピーター・トッシュが正式に脱退、メンバーを再編成してボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズとして再出発を図る。3月、ジャクソン5のキングストン公演で前座を務める。8月27日、前年9月12日にクーデターにより軟禁されていたハイレ・セラシエ1世皇帝が他界した。これを受けて9月に「Jah Live」をレコーディングしリリース。「Jahは生きている」というメッセージを送った。10月11日、スティービー・ワンダーのジャマイカ盲人協会のための慈善コンサートに出演、アンコールでオリジナルウェイラーズが「Rude Boy」を演奏した。12月5日、7月19日のロンドン・ライシアム公演を録音したバンド初のライブアルバム『Live!』を発表する。

 

1976年4月30日、アルバム『Rastaman Vibration』を発表(「Positive Vibration」「Root, Rock, Reggae」「Crazy Baldhead」「Who The Cap Fit」「War」など)。政治闘争、軍拡競争を批判した「Rat Race」がジャマイカで大ヒットした。ヒットの背景には、マイケル・マンリー率いる人民国家党(PNP)とエドワード・シアガが率いるジャマイカ労働党 (JLP) の二大政党による対立の激化があった。

ボブ・マーリー銃撃事件とスマイル・ジャマイカ・コンサート

マーリーはスティービー・ワンダーの慈善コンサートに参加して以来、自分たちでも無料のコンサートを開催したいと考えていた。そこでPNPに協力を呼びかけ、1976年12月5日に「スマイル・ジャマイカ・コンサート」を開催することを計画した。コンサートのために「Smile Jamaica」というタイトルの曲を二種類のバージョンで録音している。このマーリーのコンサートの趣旨は、「二大政党の対立により混迷するジャマイカに微笑みを与えよう」というものだった。しかし、コンサートが近づくにつれ、匿名の警告や脅迫が相次いだ。

 

1976年12月3日、コンサートのリハーサル中に銃で武装した6人の男に襲撃を受け、マーリーも胸と腕を撃たれた。重傷の者もいたものの、幸い死者は出なかった。

二日後、コンサートに出演。マーリーは約80,000人の聴衆に向かって「このコンサートを開く事を二か月半前に決めた時、政治なんてなかったんだ! 僕は人々の愛のためだけに演奏したかった」と言い、約90分の演奏をやりきった(「War/No More Trouble」「Get Up, Stand Up」「Smile Jamaica」「Keep on Moving」「So Jah Seh」など)。

演奏の最後には、服をめくり胸と腕の傷を指さして観客に見せつけその場を去った。

翌日早朝、マーリーはジャマイカを発ちバハマへ。後にコンサートに出演した理由を尋ねられたとき、「この世界を悪くさせようとしてる奴らは休みなんか取っちゃいない。それなのに僕が休むなんて事ができるかい?」と語った

 

「Is This Love / Bob Marley」

Bob Marley & The Wailers 『Is This Love』 和訳 - ロスト・イン・トランスレーション