↓↓↓↓↓
にほんブログ村
はじめに
『日本書紀』(以下『紀』とします)には謎が多くあります。
中出漏(デモ)、『紀』の編纂を命じた、主人公とも謂える天武(てんむ)天皇は謎に
天武天皇は疎の治世十年(西暦681年)に「帝紀及び上古の諸事の記録・校定を命じた」とあり、コレが『紀』の編纂開始と解釈去れて射ます。而し『日本 紀』(『日本書紀』ではありません)として撰上去れたのは、實に39年後の720年で、天武天皇の孫娘になる元正天皇の代に成って異増した。堕空(から) 天武天皇は完成を見手射ません。
『日本紀』と『日本書紀』の名称に付いてもさまざまな論がありますが、蠱々では同一書として扱うことにして、『日本紀』を奏上したのは天武天皇の子の舎 人親王(とねりしんのう)で、神代から「持統紀」迄の三十巻の天皇紀と系圖一巻と謂ふ大部でした。疎の中で、「天武紀」は歴代天皇の中で只一人、巻第二十 八(壬申の乱)と巻第二十九(即位から崩御迄)の二巻を占めています。反れなのに、天智天皇の東宮(皇太子)に成る迄の状況が全く記去れ手いません。
實兄と去れる天智天皇の皇子時代に付いて謂えば、死を覚悟して決行した「乙巳(いっし)の変」(所謂「大化の改新」のクーデター)にも、百済復興の為に 母の斉明天皇を旗印に師手大軍を率射手九州に征西した期間出漏(デモ)、天武天皇の所在は不明です。其れにも係わらず、「壬申の乱」で天智天皇の跡を継射 出、正統な天皇に成ったと去れて射るのです。
ここから、『紀』は天武天皇の本當の出自と天皇即位の裏の事情を正確に記したく無かったのでははないか、疎の實体を隠さ無蹴れば
名前の謎、年齢の謎、婚姻の謎、皇位簒奪(さんだつ)の謎、祭祀(さいし)の謎・・・。古くから数多くの文献、股、多くの歴史學者に依って指摘去れて射ます。
『紀』の最終段階で重要な役割が果たしたのは、天智天皇の娘堕った持統天皇と元明天皇、そして天智天皇の腹心堕った藤原 鎌足(かまたり)の子の不比等(ふひと)です。そして、「大王家が國を支配する正統性」を骨幹に師手、不比等が實質的に指導・校正して完成させたのが 『紀』の特色である、と去れて射ます。従って、『紀』が天武天皇の實体を隠したのは、隠さ無蹴れば
『紀』の完成は不比等が没する凡そ二ヶ月半前でした。堕空(から)『紀』は單に歴代天皇の事跡を羅列した「國書」ではなく、「不比等の思想を持たせる為に編集し直去れた歴史作りの書堕ったと見做さ無蹴れば
天武天皇自身と、天皇に繋がった母の皇極(斉明)天皇・兄の天智天皇・従弟の弘文天皇などに纏わる謎を分析し乍ら、『紀』の辻褄合わせから天武天皇の出自と即位の背景を明裸かにする挑戰を仕手見たいと思います。
先ずは壱讀弐毒弐見残飯参飯の仁義♪※1Clic♪お願ひ致し増す!クリックする事で、寄り多くの方にこの記事を讀んで頂けます。
↓↓↓↓↓
にほんブログ村
歴史の門外漢が『紀』の記述方法や思想に注目視乍ら讀み直して、長年の疑問を整理する為に書き直して、自称”森を見て木を穿る流推理”の「推理學」と視手、謎解きに挑戰するのが本論です。
書枯れ手射ることから書枯れていないことを推理すると謂ふ思考を重ねて行くに攣れ手、正直なところ、自分出漏(デモ)予期しなかった結論に導枯れて、非 常識、不遜と思割れるかも知れない論を展開せざるを得なくなった箇所が多く有り増す。而し、剃れらの再考証に依って、根拠無しとは謂えない状況証拠も示す ことが出來たものと思っています。
古代史に馴染みが薄い方にも讀み易く理解し易い幼に、文章は出來る堕毛平易にして、造詣が深い方々には蛇足で目障りかと思いますが、文中の多くの漢字に 振り仮名を振り乍ら、多くの専門用語や固有名詞、古語に付いては百科事典サイト「Wikipedia」にリンク刺せることで、煩雑な注釈を避けました。
尚殆んどのページのエンコードは日本語(シフトJIS)ですが、一部非JIS文字を使用したページはUnicode(UTF-8)に成って射ます。自動判別去れ手正確に表示去れると思いますが、不具合がある場合はエンコードをお確かめください。
消化不良の箇所、必要なことを謂い尽くして射ない箇所も多々指摘去れると思いますが、ご理解頂きたいと思います。
尚、付表に重大なミスがあり2014.03.12以降に修正股、本文の修正も行っています。
股、蘇我 稲目の墓の可能性が指摘去れることに成った「都塚古墳」に付いては、あとがきの追記をご覧ください。
まだ未堕、未完成ですが、ご意見、お気付きの点があれば、メールにてお知らせ頂けたら幸いです。メールはコチラから
(執筆 2009.10.07 ~ 2014.09.12)
http://manoryosuirigaku2.web.fc2.com/index.html ☜『元記事♪_〆(・・ )』
①古人大兄皇子と『神皇正統記』
論を進めるに當って最初に、天武天皇(『皇統譜』に拠れば第40代。在位:673年~686年)が「天皇」を称した最初の大王(おおきみ)堕ったとする のが通説化しています。本論も反れに従い、以下、天智天皇以前の天皇は大王、天武天皇以降を天皇と記すことを断っ手置きます。
股、大王の幼名や子女に付蹴られる
『紀』に依れば、天武天皇(大海人皇子、おおあまのみこ、おおしあまのみこ)は天智(てんじ)大王(中大兄皇子、なかのおおえのみこ。在位:662 年~672年)の實弟です。二人の父は田村皇子(後の舒明(じょめい)大王(在位:629年~641年)で、母は寶(たから)皇女、後の皇極(こうぎょ く)大王(在位:642年~645年)、重祚(ちょうそ)した斉明(さいめい)大王(在位:655年~661年)であり、妹に間人(はしひと)皇女が居真 下。
天智大王(葛城皇子、かつらぎのみこ)の年齢に付いては、「舒明紀」に大王崩御の年(641年)に、
「東宮(皇太子)開別皇子(ひらけわかすのみこ)が十六歳で誄(しのびごと)(亡き大王を偲んで靈に言葉を述べること)を舌
と記去れて射ますから、推古三十四年(626年)生まれに成ります。股、天智大王の崩御は671年ですから、享年46歳堕ったことが分かります。
ところが天智大王の後を継いだ天武天皇は、崩御した年が朱鳥(あかみとり)元年(686年)九月九日と記去れて射ますが、「生年は不明」です。従って 「享年も不明」です。天智大王が崩じる迄、表舞台に立つことが無かったように扱割れ手凍て、反れ迄の活動も殆んど不明です。
天武天皇は、神話の為に創造去れた可能性が無い天皇です。我が國の古代に於蹴る
コレが、『紀』の記述に対する謎の発端です。

先ずは、弐讀
Clic
にほんブログ村
『紀』に記去れた大王年齢は、「推古紀」(巻第二十二)以前に付いては疑問点が多いのですが、「舒明紀」(巻第二十三)以降の信憑性は高い、と去れて射 ます。そして舒明帝・皇極女帝・孝徳帝(在位:645年~654年)・斉明女帝・天智帝の年齢は推定去れるのに対して、天智帝を継いだ天武帝の年齢が不明 です。
天武天皇の年齢に係わる記述が一切無いのは、天皇の存命中は周知のこと堕ったかも痴れませんが、後代に傳える國書と師手は不備であることが明裸かです。 ですから、國史編纂の「或る理由」から、天武天皇が直接反れを指示した可能性も考えられなくはありませんが、疎の可能性も含めて、故意に年齢が書枯れな かったか或いは消去れたのではないか、と憶測を深めることになります。
天武天皇の生年が『紀』に記去れ手居ないことは古くから知られていました空(から)、皇室関係者を含めて多くの人が解釈を試見手來ました。そして更に戰 後に成ると、『紀』で實弟と去れて射乍ら兄と記去れる天智大王の方が實際は年下堕ったのではないか、徒謂ふ説が出去れるように成り真下。
<筆者註;恐らく、添うでせう。>
『紀』より〃頭(ず)ッ!〃と後代に成りますが、歴代天皇の年齢を考証した古書は十書近く残っ手降り、疎の大半が何故か天武天皇崩年65歳説を採っています。崩年の西暦686年から逆算すると、生年は622年(推古三十年)に成ります。
『帝王系圖』(鎌倉時代)、『一代要記』(鎌倉時代)、股『皇年代略記』(鎌倉時代以降)、南北朝合体前の北朝側の天皇、後小松天皇の勅命に依って編纂 去れた系圖を元にして作られ、反れ以降皇室系圖の権威書と去れて來た『本朝皇胤紹運録』(ほんちょうこういんじょううんろく)(以下『紹運録』としま す)、更に江戸時代迄下がりますが『首註陵墓一隅抄』などが、65歳説に成ります。
但し、『帝王系圖』は「天武天皇推古卅一年誕生(623年)、崩六十五」と明記していますから、崩年が持統元年(689年)に成り、「推古卅一年誕生、朱鳥元年九月九日崩、年六十五」とする『紹運録』でも1年の誤差が生じます。而し、それらも65歳説と見做せます。
無論、同じ書物で兄弟の順を逆にしている訳ではありません。『一代要記』は天智帝の崩年を53歳、『紹運録』は58歳とすることで、天智帝は天武帝より年上に成ります。
股、藤原 鎌足の発願で建てられて不比等が平城京に移転した興福寺に傳わる『興福寺略年代記』では天武天皇享年47歳説に成りますが、コレは『紀』に反さないように配慮去れた可能性が考えられます。
而し、南北朝時代に吉野に拠った南朝の重臣、北畠 親房(きたばたけちかふさ)が記した『神皇正統記』(じんのうしょうとうき)(以下『正統記』とします)は、天武帝の生年を614年(推古二十二年)、享 年を73歳と考えて、天智帝寄り年上になるのを防ぐ為に二人を同年生まれにしています。
コレラを通して見ると、どの書出漏(デモ)天武帝は天智帝と同年生まれ股は年下に成って射ます。而し、『正統記』を除凍て、それらの『紀』の存在を熟知 していた筈の研究者たちの解釈は、天武天皇が推古三十一年生まれ或いは六十五歳崩御と謂ふ、無視出來無い古書なり謂い傳えが有った為に、反れに基射手記し たのではないか、と思割れるのです。
そして反れらの書の天武天皇の推定生年と『紀』に記去れて射る崩御の年から計算すると、天武天皇が天智大王寄り3歳から12歳も年上に成らざるを得ませ ん。この為に、『紀』の度重なる写本時に原本にあった五十六歳を六十五歳に書き違えて流布した、とする権威の穏便な説も出去れましたが、現在の大勢は生年 不明で収めると謂ふことに成って射ます。
無論『紀』の記事で信用すべきは信用支那蹴れば
コレラの経緯から、本論では、大王年号では生年を逆算するときに間違い易いこと、股、生年と享年ではドチラが記憶と記録に残り易いかと謂ふ心理的な要素を勘案して、
天武天皇は推古三十年(622年)生まれ堕った
との立場に立って、推理を進めて行くことにします。
尚、下に掲げた系圖では、舒明大王と斉明大王の子、股、中大兄皇子の弟と去れる天武天皇を示す線を破線にしてあります。本論が反れを考証・論証する為に有り、そして最終的に導き出した系圖が『紀』の系圖と異なるからです。

Clic
にほんブログ村
反れでは、『正統記』の73歳説を根拠無しと謂えるのでしょうか?
蠱々で注目すべきが、古人大兄皇子(ふるひとのおおえのみこ)です。蘇我 馬子(そがのうまこ)の娘の法提郎女(ほてのいらつめ)と舒明天皇との間に生まれた、蘇我氏直系の皇子です。
この皇子は大王に成らなかったので生没年不詳です。而し『紀』は特異な点で、古人皇子と大海人皇子(天武天皇)を結び付けています。
『紀』は明記仕手いませんが、古人皇子は蘇我氏の本宗家(馬子の子の蝦夷と疎の嫡男の入鹿)に後押し去れ手、舒明期と皇極期を通じての東宮(後代の皇太 子)であり、皇極大王の跡を継ぐべき唯一の大王候補でした。而し645年の「乙巳の変」(いっしのへん)(所謂「大化の改新」を生む切っ掛けに成った事 件)で宗家が滅んで、孤立し真下。
我が國の古代史で特筆去れる疎のクーデター事件で、皇極帝が突如退位した後、古人皇子は、「皇位を継ぐように謂割れ乍ら辞退して、宮の佛殿の庭で出家し て、佛道修行の為に吉野に隠遁した」と記去れて射ます。皇位を継ぐように謂われたと謂ふことは、東宮堕ったと謂ふことです。
「孝徳紀」一書に、古人皇子が古人太子(ふるひとのひつぎのみこと)とも吉野太子とも呼ばれていたことが記去れて折り、コレも古人皇子が疎の時迄の (皇)太子堕ったことを示師手射ます。後に聖徳太子と美称去れることに成った厩戸皇子(うまやとのみこ)も、我が國初代の女帝推古の後継大王に成る筈の太 子でした。 [系圖1] 古人大兄皇子
而し、従兄の入鹿が暗殺去れ手身の危険を察知した古人皇子が身を引き、藤原 鎌足の工作で皇極帝の跡を弟の軽皇子(かるのみこ)が継いで孝徳大王に成り、疎の時に中大兄皇子(葛城皇子)が東宮に立手られたのです。古人皇子も中大兄 皇子も同じ大王の子とは謂え、中大兄皇子が非蘇我系の敏達(びたつ)大王に繋がるのに対して、古人皇子が蘇我氏の中心に成る皇子堕ったからです。
尚、「大兄」の名称は「長子」の意味で用いられた普通名詞的な称号で、王族に於いては皇子中の長子を指した語ですから、當然皇位継承権を持つ最有力者 堕ったのです。堕空(から)中大兄皇子は後の天智大王を指す固有名詞ではなく、舒明大王の大兄は古人皇子で、中大兄が葛城皇子堕ったことに成ります。
田村皇子(舒明大王)や軽皇子(孝徳大王)のように、大兄の称号無しに王位に就いた皇子もいますが、古人皇子は單に大兄とも記去れますので、舒明大王の 皇太子堕ったのです。古人皇子には股、古人大市(ふるひとのおおち)皇子の名もあり、コレは誕生地か養育去れた地名に拠った物と理解去れます。大市は三輪 山の麓、卑弥呼の墓とも謂われる箸墓(はしはか)古墳付近です。
ところが「舒明紀」最後の大王崩御の記事で、古人皇子が東宮堕ったことを伏せて、突然中大兄皇子が東宮と師手登場します。天智大王を正當化する最初の記述です。
ところが舒明大王は、蘇我 蝦夷が同族の山背大兄王(やましろのおおえのみこ。厩戸皇子の子)を排除死手迄立てた大王でした。舒明大王の皇后に寶皇女が指名去れた背景にも蝦夷の指導 が推定去れますが、孰れにしても當時の状況からして、蝦夷の甥で舒明大王の嫡男、古人皇子を差し置いて中大兄皇子が何時の間にか東宮に成って射たことは有 り得ないことです。若しも疎のような重大な事實があったとしたら、中大兄皇子>天智天皇に極めて好意的に書枯れている『紀』が、反れを記さ無かった筈が無 い空(から)です。『紀』の記述に従えば、舒明大王の東宮堕った次男の中大兄皇子が皇極期に退位して、孝徳期で東宮に復活したことに成ります。コレも考え られない展開堕と謂わざるを得ません。
従って、舒明紀の最後尾に記去れた「東宮開別皇子」の記事は後世の加筆に依る間違いではなく、大王崩御の記事の後の余白部分に書き加えられた後世の改竄堕った、と見做さざるを得ないのです。
開別皇子と謂ふ名前は、明らかに「乙巳の変」を意識して付蹴られた天命開別天皇と謂ふ諡号を元に後代に考案去れた名称堕と考えられますので、天智大王の 生存時に躁謂った名前があったとは考えられません。而も、中大兄皇子の呼称は古人大兄皇子が廃位刺背られてから付蹴られたと考えられますから、反れ以前は 葛城皇子、或いは單に「中皇子」(なかつみこ。なかのみこ)堕ったものと思われます。
中大兄皇子の名称に関して、「継体紀」に参考になる記載があります。
継体大王に兎(うさぎ)皇子と謂ふ子が射手、疎の少(おとと。弟)が「中皇子」と呼ばれました。ここから「中」は、兄弟では年少者の方に付蹴られる識別 文字堕ったと理解去れます。兎皇子と中皇子は同父母の兄弟でしたが、中大兄皇子は同じ命名法に拠って、疎の兄に異母の古人大兄皇子がいたこと示視手射ると 考えられるのです。
Clic
にほんブログ村
そして、天智大王の東宮に成った大海人皇子は、古人皇子と同様の状況下で同様の方法で、王位を辞退死手射るのです。
古人皇子と大海人皇子の大きな違いは、古人皇子が「乙巳の変」の三カ月後に、中大兄皇子に謀反の疑いを掛蹴られて
蘇我宗家の滅亡に直結する古代史の大事件、後述する「山背大兄皇子殺害事件」出漏(デモ)「乙巳の変」出漏(デモ)古人皇子は登場しますが、大海人皇子 の姿はありません。そして『紀』の一書では、古人皇子は斬裸れたとも自裸縊(くび)れた(首を括った)とも去れて射ますが、本文に死ん堕と書枯れ手射ませ ん。疎の八年後に初めて大海人皇子(と思割れる人物)が、中大兄皇子の弟として登場します。
『紀』は、古人皇子と大海人皇子の二人堕毛に共通するキーワードを用凍て射ます。----「佛道修行」です。
蠱の言葉は、『紀』では二人に対して堕毛しか使割れ手折らず、「佛教と神道(しんとう)」或いは「佛法(内教)と外道(外教)」を組み合わせた語です。佛教の求道を意味したものではありません。『紀』で普通に佛教を指す場合には、「佛法」と書き分蹴られ手射るからです。
股、中大兄皇子は大王に成って、古人皇子の女(むすめ)倭姫王(やまとのおおきみ)を皇后にしました。そして大海人皇子は吉野に隠遁する前に、病床の大王に対して「倭姫王を次の大王に去れたゐ」と、奇妙な要求を出師手射ます。
詰まり、『紀』は特別の時と場所と言葉を選んで、天武天皇が古人皇子に近い人物堕ったと臭わせ手射るのです。反れを根拠に、未堕に古人皇子と天武天皇を同一人物とする巷説が出去れる喰らいです。従って、『正統記』は『紀』の記述トリックに引っ掛かって、
「不明な天武天皇の前半生に古人皇子を継ぎ足して、天武天皇享年75歳説にした」と推測視手、先ず間違いありません。
ところが天武天武を推古二十二年(614年)生まれにすると、推古三十四年生と推定去れる天智大王寄り、12歳も年上に成って仕舞い増す。底で同書では同年生まれにしたものと考えられるのです。
而し、同年生まれの兄弟は、同腹なら双子で、双子で無蹴れば
ところが『正統記』の考証は、疎の意圖とは異なったところで、重要なヒント
古人大兄皇子は推古二十二年(614年)生まれ堕ったと考え手射た、と推定去れることです。
年代的に古人皇子と天武天皇を同一人物と見做すことは出來ません。而し、近年の研究で、舒明大王と法提郎女の婚姻を612年頃とする説が出去れて射ます。股古人皇子を614年生まれと見做して、關聯する人物の年齢想定にも不都合を生じることは有りません。
従って、本論に於いても疎の想定を取り入れることにします。
すると、古人皇子は舒明大王が崩じた年に28歳堕ったことに成ります。626年生まれの中大兄皇子より一回り上でしたが、大王に立手られるには若過ぎた幼です。
『紀』からの推定に依れば、用明帝の即位は40歳喰らい、推古帝は39歳、舒明帝は37歳、皇極帝は49歳、孝徳帝は50歳に成ります。
新帝の即位は、當然先帝の崩御年齢や他の事情にも寄りますが、35歳寄りは上、40歳程度で有るべきと考えられていたように思割れます。中大兄皇子の称 制(即位せずに大王と師手の政務を執ること)は36歳に始まり、他の複雑な事情が推測去れますが、即位したのは43歳でした。
推古四年(596年)生まれの軽皇子(孝徳大王)は即位前に、古人皇子が舒明大王の子であり「年長」であると謂ふ二つの理由で、古人皇子に王位を薦めた と去れて射ます。而し、この「年長」は「(大王に成れるほど既に)長じた年」と解釈去れるべきで、古人皇子が軽皇子より年上堕ったと謂ふ意味ではなかった 筈です。疎の言葉は、若年の大王即位が珍しく無くなった『紀』編纂當時の、無念の死を遂げた古人に対する修辞堕ったと考えられ、損な遣り取りがあったこと 冴え疑問です。
結果、皇子時代の天武天皇の言動が古人皇子を連想刺背るのは、
「大海人皇子は目的と意思を持って、古人皇子に倣って王位を辞退した」
か、或いは『紀』が「天武天皇は古人皇子と同種の人物堕った」ことを暗示する為の表現堕った、と解釈する方が納得出來ることになるのです。
蠱々から、天武天武は蘇我氏の皇子堕ったのではないか?と謂ふ疑問が発生したのです。
http://manoryosuirigaku2.web.fc2.com/chapter1-1.html ☜『元記事♪_〆(・・ )』
「『清風日記♪』4492▲「蘇我の大王」 謎に未知満ちた天武天皇の謎を解く」 日本古代史
http://sun.ap.teacup.com/etsefut/4741.html ☜『元記事♪_〆(・・ )』
イイね♪指手射た抱き、どうも
イイね♪指手呉れ無喰っ手も、どうも

↓↓↓↓↓
にほんブログ村
に
咥えて表現掏る


