あけましておめでとうございます。今年は千葉県松戸市の自宅にて、客こそ呼んでますが
いつもの場所とは違い一人で家事を、男性なりにこなし過ごしてます
さてま、去年ブログの更新など放置してましたし、今年も状況(いくぶん気分的)しだいでそのまま放置ですが、今年はいつもと違い、昔学んだキリスト教に忠実に、と初詣も行きませんでしたから、矛盾からくる割切れない気持ちを持たずに済んで、自分の中に一本道が通った感じで突入できました。
今年も宜しくお願いします。
----------線以下は書直しが必要なのでお読み飛ばしてくださいね。
皆さんにひとまず金運など今年はよくなくとも、
それなりにご自身の気のもち方で、自然な展開よりも
運気が引き寄せられるよう変化が起こりますように。
あまり運気など気にする必要はないのです。
悪いなりの稼ぎ方も恋愛の仕方もあるのですから。
占いの上のいい年と、現実が一致しない理由は
そこにあります。
福がありますように
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新しく知り合った方も含め、周囲にはぼくがかつて「エホバの証人」という、ユダヤ教にすら近い考えの宗教に、物心つかぬうちから洗脳されたロボットのように参加して刻み込まれた「格闘技の禁止」、「個人崇拝につながる誕生日祝福も禁止」の信条を、トラウマのように洗脳項目のように抱いているので、これが解けるまでは新年の特別視も、国家(国歌国旗への一礼もなし)崇拝的行為も『ひとまず』避ける私を見逃してくれるよう依頼しています。
どころか、10年ひと昔といえるなかで20年離れていたこの宗教に再び入信とまでは行かない独学を開始しました。教会にも通っております。毎週必ず2回ですので少し大変です。無意識に巣食う反射的な洗脳(反応)を行為の指針としての自覚の俎上に載せるため、つまり最終的には「この宗教にも特有」な、上層部の意向を知らずに真摯にそこで教行一致させている方々のように、自分のいようとしてることが間違いではないと信じるためです。この方々以上にぼくは、体こそ離れていてもまして前頭葉では否定していても、細胞レベルでその教えに沿った思考をしてしまっているのだから、一度それを冷静に知識化して、世の中を渡る際の
武器(?)になる「他人一般に対する自分の中に存在するシンパシー」を、例外的に重荷になる場合に入りつつあるので、「是々非々で一部」捨て去るためなのです。
のちにこの、狭い認識なりの僕の中で世界一独特と断言していい宗教の基本教義を書いて更新しますが、僕はこの宗教へ子羊のように盲従して教行一致させている人の親切さという囲いよりはなれたこそが、情緒不安定に陥った原始的原因と信じているのでした。再始動に踏み切れずにいたのは、占星学における宇宙的威力の方こそ科学的には実証性を啓示されやすい事実と信じたからです。
その宗教の教えは、特に山上の垂訓を筆頭に人の善性を現在しきりに発行されているストア哲学的な(古代ローマ末期に現在と同じ同じヨーロッパ哲学の終焉を意味したもの)「怒を避けることこそが生を豊かにする」趣旨の本の思考、これにまさる効果を与えると信じるので、行動の指針としてはこちらを採用したいのに、キリストが世界を救済するのか(死人の復活・天での支配で地を完全な,死も苦痛もない状態に再審判の末に改築できるのか、等)について懐疑的な認識に陥らざるを得ないので、キリストに指示を与える神の(この宗教ではエホバ神)設定という占星学の方に傾倒しております。
僕の中では両方が役割の場をたがえて真実なのです。エホバの証人の考え方は動機、「神が真実何を地にもたらしたかったのか」と「生という苦行を救済しに世界に神は介入してくれる希望」、そして子羊のような彼らにふさわしくはないが、「その救済の希望を世界に広める気概」を僕に幼少から叩き込んだとしたなら、占星学の方は神が各人間の個性を違えて設定した(生年月日の数×4(血液型)×2(男女)×∞(生地の違い)の数だけ性格は存在するので事実上人間の数と同じだけ性格があるいうことを皆さんもよくお考え下さい)ことを教えてくれた。
ただしエホバの証人は「一般に言う普遍的な」だれもに共通する徳を説く。それどころか実は「大いなる(神に従わず神の民-当時のユダヤ人を指す-を苛む)バビロン」、と「占星術に長けてるからこそ『唯一神には』従わない」彼ら東方のカルデア人(バビロンの事実上の異名)を敵視-最後の審判で滅亡させる対象に据えている。人間が神の意思を知ろうとするのを冒涜と認識しているのです。
しかしこの占星学の方も私は信じてしまっている。最大の敵ですが、当初からぼくには大いなるバビロンとして矛盾するよりも却って神の存在を、神の創造目的こそ違うまでも信じさせる端緒となった。創造目的に悩むことがぼくの悩みの1つでしたが、折衷の自信とはここに対するものなのだし、時間もあった。
もう後戻りのきかないほどに。過去15年以上社会で「臨床体験」し過ぎてもはや実証性を疑い得ないところまで、「占い」とすら呼びたくない程度まできているのです。(最終的な科学とさえ感じています)。ですから反逆的なエホバの証人とすらいえるのです。そのことをまだ、聖書記載事実の再解釈完成まではと思い団体内で話してはいませんが。
ですから私の内は風変わり(絶望の見地から希望を見る)な希望で今は充ちています。一昨年あたりまでは団体に復帰する考えなく、他人に誕生日プレゼントを贈る行為も、団体と教義もはや離れているくせに無意識の(人体細胞的)背徳感で避けていましたが、その頃清水から飛ぶ心である方へ贈ってみて、自分が所詮は反逆的な「世捨て人」(このエホバの証人の特性の真髄-)であることをまざまざ知ったから、少しの期間熟考して復帰することにしたのです。神の考えは、これまで形を持った個体を墓からまんま復活させることでなく、人の形を持つ-意識の統覚をもつこと-は有限性の枠嵌めと同義だから、人のかたちを離れた次元で他の魂と混合わされて、地上にまたいつか降りてきてもし全盛の自覚の濃さが新しい個体の中で幅広ならば、過去の記憶も継続される-よほどの修練のないと前世の自覚は蘇生しませんでしょうが-こうした過程で神の意思の内では人間の復活が行われるのであろう、という認識に到った。エホバの証人への反逆性はここに極限化されている・・・そうお感じになるでしょう。
でも、小学2年ころから中学いっぱいまでこの世はいつか-予想では1990年代ともされた-滅び,過去の善人と滅亡の時(場所をハルマゲドンという-旧オウム真理教の言うそれはキリスト教からの借用)にこの証人組織に入って行為的にも準じた人だけが生きたまま通過できるという洗脳は、この組織の特徴「布教活動」への半切迫的な意欲を植えるのにぼくの場合でも十分であるから、無意識に育ててしまっていた僕にはこの義務感の消えることはまずありえない予感がする。
この団体の教義は世間とはいずれ滅びる、というキリスト教の思考の一部をまともに受け止めて、事物の体制、などと呼んでいる。なので他の宗教特に同類であるキリスト教を排撃する内容で満ちている。大いなるバビロンと、いうのは呪術に基づく宗教のはず
ないからだ。十字軍に代表される排他性をほかの使用法で表現している。一般の排他性は他を意識して対抗しなければと感じるからである。
して、僕の周りには、脱退して20年にもなるぼくに同じ意思を無意識に延長させる者がいる。当然この団体の
だが、そうでない一般キリスト教にも批判の矢を向ける。同じでしょう、tもいえない。彼らは正義の許の争いにほんとうに参加し成員の一人で、松戸の住所の近くに住む相手です。
善意、つまり生きるモチベーションを継続させる善意の意味合いで、ではない。信仰という行為が、持たない者とものの見方の相違を連れきて、悪表現だが一般に見え辛いものを見せる宗教の第一の効果、これを与えられる状況を引き続けさせてくれてるのではない。
いまだの世間忌避をひきづらせているに過ぎない。
そのため真摯な表面的には行動で一貫して見える
自分も世の中が狂っているものということは説明でわかった。荒すぎるふるいだが厳密には
世の中は偽善に満ちて見えた。少なくとも
しかしそれは偽善とわかった気がした。逃げなのだ。ましてそれで世の中をうまく渡ろうという欺瞞にも満ちている。生活態度のすばらしさということで、当たらず触らずの無責任な態度。
でもそれだけ社会的喜びを味わないということも出来るが、彼らはそうでない。覚せい剤と同じで、社会蔑視がそこにはあった。その余裕で遊泳するのである。象牙の塔、アカデミズムの一部を評価する癖の発言があるがそれとおなじなのだ。
僕はそれを折衷して、社会に伝道することを考えていた。自分は特殊なのでそれが可能と考えていたのだ。よってそのままでは他の方のすることと代わりがないことも知っていて、何か創造の根拠を探しつつうまくそれに突き当たらない。情報は隠されていたからだ。独学癖は知っている野で、せめて他と強調できぬようにぼくを操る。
「最高の社会改良」それがテーマでもかなわずにもだえる日々は続いた。
だから僕は世の中を渡る際の順調も失った。
いや、僕に限ってはそんな心の準備は反逆的エホバの証人としてとっくのものであった。抜けたときの開放感と、善性を引きずることで社会でもうまくやってゆく自信さえもあった。親切は他人に伝達する、その部分だけを引きずればいい。第一ハルマゲドンは来ていないでないか。高校入学時に排除したではないか。
然し、この近隣の同衆が足を引っ張るのである。
世間忌避だけをボディーブローのように私へ与え、じかくがないぼくはそれで逃げ切ったと信じていたが、それが母のおかげであったことは違いないし、その渦中でも疑問はつねにあった。。背を向けているはずの母らよりも苛立ちは高まる。勿論それを超えたような苛立ちを母らは
何か新思想を僕が胎蔵してるに違いない。