世界中の話題がアメリカのトランプ政権に集まる今日。

彼が就任前放った印象的な数々の言葉の中で特に印象的だったのが「私が就任したら1日で戦争を終わらす」という言葉。

これはトランプ1.0時代から友好的な関係にあり民間人となった時期にも電話会談をしていたほどだったというロシアのプーチンが仕掛けた戦争のことを指しているのだろう。

流石に1日での停戦あるいは終戦は実現しなかったが停戦に向けた交渉がかなり前向きに、少なくともバイデン政権時よりかは遥かに進んでいるだろう報道が目立つ。

停戦に向けた和平交渉によるリスクや難しさは人類の課題として21世紀の現代にも答えはない。停戦が必ずしも良い方向に進むとは限らず未来のより大きな戦争を引き起こす事があるのは第二次大戦で証明されてしまっている。

この戦争はウクライナ、ロシアがそれぞれ実効支配している地域がありお互いこの土地にかけれるだけのレバレッジをかけ交渉材料にするのだろうが、21世紀の現代においても戦争による領土の拡大が認められてしまうという事は国際政治の中で許されるのだろうか。

そもそも戦争による領土拡大は第二次大戦後の戦後処理を取り決める大西洋憲章にて1941年8月にしない事としている。


この大西洋憲章やロシアの軍事侵攻の問題で忘れてはいけないのが日本の北方領土問題である。

そもそもこれを北方領土問題と呼ぶべきか千島列島問題と呼ぶべきかの議論が起こるべきと個人的には思う。

この問題の原点はどこにあるか、日本は何を根拠にどの領土の返還を主張すべきなのかこの際考え直す必要があるだろう。


北方四島や千島列島について日露感で正式に取り決められたのは1855年、この当時まで島民らの中でなんとなく決まっていた領土を国際的な形で定めることになったとされている「日魯(ろ)通好条約」である。

択捉島から南が日本、ウルップ島から北がロシアで樺太全体はどちらの領土でもない混住の地とされた。

しかし樺太内でロシア人と日本人のいざこざが絶えず1875年、日本は樺太全体を放棄する代わりに千島列島(ウルップ島からシュムシュ島)を日本の領土とする「千島樺太交換条約」を平和な外交交渉によって締結した。

1905年に日本は日露戦争で勝利し樺太の南部を割譲するなどを取り決めたポーツマス条約を締結した。


その後第二次大戦が勃発し日本は敗戦を喫することとなるが戦時中の1941年8月、アメリカとイギリスの2国で発表した第二次大戦後の戦後処理構想を示した「大西洋憲章」において領土拡大をしない事を示し1942年1月ソ連はそれに署名をした。

1945年の2月アメリカのルーズベルト、イギリスのチャーチル、ソ連のスターリンの3人で行われた密談「ヤルタ会談」にてソ連が参戦し協力する代わり、日ソ中立条約を一方的に放棄し樺太南部や千島列島の領土を要求する内容で同意し、ソ連は第二次大戦終戦直前に日本に宣戦布告をした。

これを根拠に日本が降伏をした後の8月18日に千島列島の最北端であるシュムシュ島に上陸した。

しかしこれは大西洋憲章に国家として署名をした後だ。

ソ連が根拠にしているヤルタ会談は密談であり1956年のアメリカ共和党のアイゼンパワー政権時に国務省が「ヤルタ会談はルーズベルト個人による文書であり合衆国としての正式文書ではなく無効である」と正式発表をしている。

であるならばサンフランシスコ平和条約に書かれた千島列島放棄という文言は認められるものではなく、日本は戦争以前に決めた「樺太千島交換条約」までが有効な条約であり北方四島および千島列島は日本の領土であると主張するのが歴史的に正しいはずだ。

2010年12月1日の外務省の主張では「北方四島は千島列島に含まれず北海道の属島である」としている。

これに基づくと約5000㎢の面積を持つ北方四島は北海道の一部であり北海道最北端は宗谷岬ではなく国後島のカワイモッカ岬。

日本最北端の地は48個目の都道府県にあたる千島列島にある北緯50度44分にあるシュムシュ島であるのではないだろうか。

現実的に千島列島の人口を考えるとこれを独立した都道府県とするとは考えにくいが北東から東西にかけて約1200km、20以上の島からなる千島列島は日本の大きな資源でありこの島々を一島でも譲る事は戦争による領土拡大を認めることになり決してあってはならないことであるはずだ。