大衆文化への視角
「大衆文化」について考えるにあたっては、まず、二つの文脈を区別しておく必要がある。 第一は、文化の担い手に着目する文脈である。 この文脈においては、大衆文化は「大衆が生 み出した文化」「大衆が担う文化」として理解される。
第二は、文化の普及性や媒体に着目する文脈である。この文脈においては、大衆文化は「社 会の広範囲に普及した文化」「マス・メディアを媒介にして大量に伝達される文化」として理 解される。
まず、第一の文脈について、検討してみよう。
ここでいう、文化の担い手としての大衆とは、権力や地位、知識をもつ少数者であるエリー トに対して、権力や地位から遠く、学歴も低い多数者のことをさしている。そして、このよう 大衆は、しばしば、「受動的」で「従属的」な存在とされた。真の文化(高級文化)の創造 者になりうるのはエリートだけで、無教養な大衆の文化など、しょせん低俗・俗悪な、価値の ないものにすぎない。このような論旨で、しばしば大衆文化ということばは、批判的に使われ ることも多い。
しかし今日、上にみたような文化の担い手としての大衆が、はたして存在しているといえる のだろうか。
たとえば、教育をとっても、現在の日本では、高校進学率は一〇〇パーセント近く、大学進学率も過去最高を更新して五〇パーセントに近づいている。ある程度の高等教育を受けた人の ほうが、多数派なのである。逆に、大衆食堂と呼ばれる(自称する) 施設があるが、ここに国 民の大半が毎日のように足を運んでいるとはいえない。今日では、ファミリーレストランと呼 ばれる施設に足を運ぶ人のほうがはるかに多いであろう。
つまり、今日、大衆は必ずしも多数派ではないし、大衆と名のつくものを多数派が支持して いるわけでもないのである。
さらにいえば、大衆は消滅したという説さえある。 これは、一九八〇年代半ば、マーケティ ング業界から生まれた見解である。一九八〇年代に入り、万人向けの大流行・大ヒット商品が 減少する一方で、特定のニーズにこたえる商品は好調な売り上げを記録した。 ここから、画一 的に商品を消費する大衆は、他人と同じ生活に不満をいだき、自分なりの価値観を軸に動いて、 多様なライフスタイルを示す人びとに分化したという考え方が導かれた。 このような人びとを さすのに、分衆(分割された大衆の意)、 少衆といったことばも用いられている。
してみれば、受動的で従属的という大衆像も、今日では通用しない。
こういった点から、文化の担い手としての大衆を、たしかな輪郭のある実体ないしは集団と して想定することは、今日ではむずかしくなったといえるだろう。
それでは、第二の文脈についてはどうか。
この文脈では、大量生産され、大量消費されるモノが注目されることになる。文化の担い手 として特定の層を実体的に想定するのではなく、マスメディアを媒介として、エリートから 労働者まで、上層から下層まで、老人から子どもまで、広く浸透した文化を大衆文化とみなす のである。したがって、この文脈からは、先に見た〈エリート〉対〈大衆〉という図式が消滅 したことを、むしろ、大衆文化がエリート層まで浸透した状態として、あるいはエリート文化 大衆化した状態として考えることができる。
ここで重視されるのは、大衆文化の画一性や平準性である。大量に生産された、規格のまっ たく等しい商品が、社会のあらゆる階層にいきわたる。 逆に、社会のあらゆる階層にいきわた るためには、だれもが受け入れられるように、平易で、娯楽的でなければならない。
一九七〇年代までにかぎっていえば、 この文脈で大衆文化をとらえることは有効である。し かし、かつてのように日本人のほとんどを巻き込んで熱狂的に消費されるモノというのがなく なっている今日、この文脈は有効であろうか。
たとえば、ある時代まで、美空ひばりという歌手を知らない日本人はほとんどいなかったと いってよいだろう。そして、多くの人びとが、彼女の歌の一節ぐらいは口ずさむ ことができた。けれども、一九九八年度のヒットチャート (表1)に登場する歌手 (アーティスト)を知らない人は相当いるだろうし(ローマ字で書かれたアーティスト 名を読めない人さえ多いと思われる)、 その歌の一節を口ずさむことのできない人は さらに多いはずである。にもかかわらず、それらの歌のCD(レコード) 売り上げ 枚数は、美空ひばりのヒット曲をはるかに上回っているのである。
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別の例をあげてみよう。 マニア系の雑誌というものがある。 SM スワッピン グ、フェティシズム、スカトロなどなど、ごく普通の性的嗜好をもつ人なら引い てしまうような内容の雑誌が、今日ではコンビニエンス・ストアの雑誌コーナー にも並んでいる。このことは、一部の人にしか受け入れられないような特殊な性 的嗜好をもつ読者が、雑誌を継続して発行できる程度には存在していることを示 している。その一方で、これらとまったく無縁に生きている人たちが圧倒的に多 いことも忘れてはならないが。
もちろん、CDにしろ、雑誌にしろ、複製技術にもとづく商品であり、そのか ぎりではたしかに画一的である。 しかし、一つの商品が日本人のほとんどに普及
しているわけではない。さまざまな文化が、独自のメディアをもち、独自のマーケットを形成
(
しうる程度には普及しているのである。今日では、社会の広範囲に普及するということの意味 合いも変質してしまっているのである。
では、もはやこの日本には「大衆文化」はないのか。 「大衆文化」を論じることには意味が ないのか。
ここで、考えを転換してみたい。
「大衆」は存在するのか、 消滅したのか。「大衆文化」はあるのかないのか。 このような問 いをひとまずおいておこう。
エリートと大衆という区分が消滅し高等教育をうけた人びとが増加した今日、あるいは受動 的で従属的という大衆像が通用しなくなった今日、あるいは一つの商品が社会のあらゆる階層 に画一的に普及しなくなった今日こそ、大衆文化は以前にまして濃縮化・高度化したといえ るのではないか。均質な、一色で塗りつぶされた平面から、そのすみずみにいたるまで染料が 浸透した立体へと、大衆文化は姿を変えたのではないか。画一性から多様性へなどといったこ といわれるようになったのは、二次元から三次元へとその構造が重層化したからではないか。 これを「大衆文化」と呼ぶべきか、そうでないかは、意見が分かれるところであろう。しか し、このような文化を戦後という時間の流れのなかに位置づけ、読み解く作業は必要である。
3 高度経済成長
戦後の大衆文化を読み解くために、まず、三本の補助線を引いておこう。高度経済成長と、
アメリカナイゼーションと、メディア環境の変化である。
なかでも、大衆文化の展開を基礎づけるものとして重要なのは高度経済成長である。
高度経済成長とは、一九五〇年代半ばから一九七〇年代初めにかけての、二〇年ちかくにわ
日本経済の持続的高成長のことである。
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「廃虚からの出発」というのは、敗戦直後を語るときの常套句といってもよい。じっさい、 一九四五年八月当時の日本は、原子爆弾の被害を受けた広島・長崎をはじめとして、 全国で一 一九にのぼる都市が戦災をこうむって焼け野原と化しており、国土も、国民生活も、経済も、 見る影もなく荒廃しきっていた。やがて、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)による、農 地改革、労働民主化、財閥解体および独占禁止を三大柱とした、経済民主化がすすめられる。 しかし、経済再建への道は遠く、国民生活は窮乏をきわめた。
ところが、一九五〇年六月の朝鮮戦争の勃発がまきお こした特需景気をきっかけに、一九五〇年代初めには、 鉱工業生産と実質国民総生産が戦前の水準に回復する。 そして、一九五四年~五七年には、日本経済は神武景気 と呼ばれる大型景気をむかえる。その後、短期間の不況 はあったものの、日本経済は一九七〇年代初めまで高度 成長を続け、ついに、国民総生産(GNP)はアメリカ に次ぐ規模となる。 高度経済成長は一九七三年の第一次 オイルショックによって終焉をむかえるが、この間、と りわけ一九六〇年代は年率一〇パーセント以上の成長が 持続した。 この時期が高度経済成長のピークといえる。 高度経済成長が文化にあたえた影響は、非常に大きく、 かつ広範囲にわたっており、しかも相互関係は錯綜して いる。それだけを切りとって示すことは容易ではないが、
さしあたって、以下の五点を指摘しておきた い。
第一に、耐久消費財をはじめとする「新し 「モノ」が普及したこと。 一九六〇年代前半、 「三種の神器」と呼ばれたテレビ、電気洗濯 機、電気冷蔵庫が急速に普及する。さらに、 一九六〇年代後半からは、「3C」とも、「新 「三種の神器」とも呼ばれた、クーラー、カラ テレビ、自家用車(カー)の普及がそれに 続く。耐久消費財ばかりではない。ナイロン やプラスチックを使った商品、 スーパーマー ケットなどの流通・販売機構、衣食住の洋風 化などのライフスタイルも、同じようにして 普及する。こうした新しいモノやその製造手 段、流通機構、ライフスタイルじたいが文化 文化人類学や民俗学でいう物質文化)であるこ と。 まず、このことをおさえておきたい。
第二に、モノの普及にともなって、情報も
浸透したこと。たとえば、テレビで放送されるドラマやニュース、人気タレントの顔、新商品
の名前や広告やシンボルマーク、ファッションのはやりすたり、自動車の運転法・・・・・・。 これら が、かつてないほどの規模とスピードで浸透していく。学校などの教育機関による伝達の速度 とは比べものにならない。メディアの影響については後述するが、戦後の大衆文化ということ
で取り上げられるのは、このあたりのことであることが多い。
第三に、月給というかたちで賃金をもらって企業に雇用されるサラリーマン層が増大し、国 民の所得そのものも増えたこと。新中間層といわれる、サラリーマン層やその家族たちは、 モ ノの生産現場にたちあう労働者ではなく、モノを購入し、使用する消費者である。しかも、か れらは、モノの有用性・機能性を消費するだけではない。他者とのちがいや、自己が所属する 集団を表示するための記号として消費するのである。 流行に沿いつつ、なおかつ、人に差をつ ける。このようなライフスタイルが定着した。
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第四に、経済成長とそれを支えた大量生産大量消費というシステムそのものが生む価値 観。経済成長は、成長率××パーセント、GNP××億ドル、世界×位といった、数字、量で 把握される。そして、それが常に拡大・上昇していくことがのぞましい、というより当然のこ とだとされる。そこでは、縮小とか衰退といったことは、忌み嫌われ、排除される。このよう 成長=拡大志向は、高度経済成長期の文化の基調をなすものである。人びとは右肩上がりで 走りつづけるしかなく、立ち止まることはむずかしいことだった。
第五に、旧来の文化も相当な変化をこうむったこと。たとえば、自宅でいながらにしてさま ざまな芸能を楽しむことができるテレビの普及は、見るためにはわざわざそれが上演(上映) されている現場に行かなければならない演芸・演劇・映画の全般的な斜陽化を招いた。なるほ ど、テレビに積極的に進出することで新たな観客層の獲得に成功した、漫才などの芸能もあっ た。だが、その漫才にしても、寄席とテレビとでは、ネタや演じ方にも、観客 (視聴者)の反 応にも、かなりの変化があるはずである。
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さて、日本経済は、高度成長後の低成長時代、一九八〇年代半ばのバブル経済期を経て、目 下は不況のまっただ中にある。それぞれの時期の文化を、経済の動きと関連づけて説明するこ とは可能であるし、必要でもあろう。しかし、以上にみたようなことは現在も指摘できるので
あり、そういう点で、現在もなお、日本の文化は高度経済成長を引きずっているといえるだろ
う。
アメリカナイゼーション
高度経済成長の時代を「モノの時代」だととらえるならば、それらのモノ(たとえば「3C」) は、多くがアメリカ合州国の消費生活の基盤となっているような財であった。戦後、日本人は アメリカの生活に憧れ、アメリカなみの暮らしを望んだ。敗戦後の文化を考える第二の補助線 は、ライフスタイルのアメリカ化、すなわちアメリカナイゼーションである。
日本社会の大きな変化は、外国とのつきあいによって起こされることが少なくない。古代の 米づくりの伝来や、 漢字文化との接触、 中世・近世における南蛮貿易などがそうだ。 近・現代 という視点からは、鎖国を解いた時期 幕末の開国から明治の文明開化の時期)と、敗戦後の連 合国による占領時代とのふたつが重要な転機となった。
国際的な視野にたつとき、日本の近代化の歴史は、暮らしぶりが西洋化していく経験であっ とみることができる。この段階では、西洋にアメリカも含まれてはいたものの、日本が教え を乞うべき師匠としては、ヨーロッパの国ぐにも重要だった。政治のしくみはイギリス、医学 はドイツ、芸術はフランスといった個別の手本があって、総体としての西洋が目標とされるべ 先進文化だったのである。
これに対して、第二次世界大戦が終結した後の世界では、アメリカというひとつの国の文化 が相対的に強い影響力をもった。 アメリカナイゼーションという現象は、日本だけではなく、 世界の広い地域に暮らす人びとが経験した特殊な文化変容である。 中南米はいうまでもなく、 イスラム圏や、アフリカの部族社会、ソ連や中国などの社会主義諸国もアメリカ文化の洗礼を
受けた。かつての先進地域であるヨーロッパさえもが、 なんらかのかたちでアメリカナイズさ れたのである。
アメリカナイゼーションのシンボルとして、コカコーラ・マクドナルド・ディズニーランド の三つをあげることが多い。これらのモノは、ヨーロッパをふくむ世界を席巻した。 アメリカ ナイゼーションは世界が体験したできごとであったから、日本文化のアメリカナイゼーション も世界的な潮流のなかにおいて考えることを忘れてはならない。
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いっぽう、敗戦後の日本を占領したのが、実質的にはアメリカであったという特殊事情も軽 んじることはできない。日本の現代社会の骨格は、 アメリカの強い影響のもとで再構築された ものである。法律や経済のしくみ、 思想や価値観、娯楽や流行を、アメリカの存在抜きに語る ことはできない。戦前の西洋化のなかでは、さまざまな国や文化のありようが選択肢として並 んでいた。これと対照的に、戦後の日本では、生活の向上は「アメリカン・ウェイ・オブ・ラ イフ」に習うことと等価であったのだ。そういったアメリカ至上主義的な傾向に疑いのまなざ しが向けられたのはベトナム戦争の時期であり、ようやく最近になってアメリカを除く世界の さまざまな文化に関心が集まるようになった。
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戦後日本の市民運動も、アメリカの文化や政治のあり方を軸に展開してきたとみてよいだろ う。そのなかには、アメリカで発達した価値観(多文化主義や環境保護、 フェミニズムなど)や 運動の手法(ネットワーキングやNGOなど) を手本としたケースもあれば、アメリカの経済侵 略や文化支配に対して抵抗する訴えもある。アメリカに対する抵抗という意味では、戦後も長 アメリカの統治下におかれた沖縄が、日本のなかでももっとも抵抗力のある文化を育ててき たことは興味深い。
以上で概観したように、日本の戦後文化は「アメリカナイゼーション」という、ひとつの方 向性をはらんだ変化を遂げてきた。 そして、 アメリカに対する疑いが存在する現在でも、その
力の作用はつづいている。たとえばインターネットという道具立ては、一見だれにも支配され ない自由なメディアであるように映るけれども、中枢の部品や機械をつくっているメーカーや、 インターネットをみるために必須のソフトを供給している企業がほとんどアメリカ資本である という事実に注意したい。
メディア環境
高度経済成長が室町・江戸時代からのがむしゃらな日本人の内発力発現の軌跡であったとす れば、アメリカナイゼーションは政治・経済・文化までをおおう、 「父の背中」 的なお手本と してのアメリカへの同化(あるいは勝手な自己投影)の軌跡であった。
そして、三つ目の補助線であるメディアは、内外の均衡する諸力がさまざまなルートでぶつ かりあう土俵の役割を果たしてきたといえる。たとえば、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」 的な自負と、「占領国憲法」的なアメリカ・コンプレックスとが、メディアの環境という複雑 システムを迂回しつつフィードバックするかたちで、日本人の重層的な自己像が映し出され てきたのである。メディアは、遠くアメリカから新奇で刺激的な情報を家庭へ運んでくる来訪 者(ときに侵入者)であると同時に、日々の粧い装いをモニターする姿見・鏡台のごとく、 自分と家族、社会を映し出す環境の一部であった。あえてメディアではなく、ここでメディア 環境と呼ぶゆえんである。
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とくに戦後の文化を語るうえで欠かすことのできないのが、テレビ・ラジオ・新聞・雑誌と いったマスメディアの役割であろう。編著者である私たちの世代にとって、マスメディアは日 常風景の視野の一部としてすでに当たり前で、所与の存在になっていた。 すなわち、わが家に 「電話が来た日」「水洗トイレ (下水道)が来た日」は鮮烈に覚えてはいても、「テレビが来た日」
は「カルキ (上水道)が来た日」と同じくらい遠い昔の事跡であり、 いうならば父母・祖父母 の仮想記憶の領域に属している。
結果として本書では、図と地の関係でいえば、マスメディアは地(=環境)の側に位置づけ られている。そのため、マスメディアについての記述は本書の章節に遍在しているが、とくに 一章を割くかたちで独立した図 (=文化事象)としては描かれていない。
戦後日本人は、学校や教師以上に、むしろマスメディアを通じて直接的な文化的影響を受け た。また、ちょうど大正末期の「円本ブーム」に乗って文人・小説家の地位が急速に向上した ごとく、マスメディアの隆盛とともに新しいタイプの文化人・評論家 (たとえば大宅文庫の創設 大宅壮一)の発言力が増大し、多大な影響を私たちに与えた。 これは、マンハイムが「甲 羅のない蟹」と呼んだように、マスメディア側から一般大衆への一方通行的な「入力」と見る こともできよう。
しかし、本書ではこうした「入力」 側よりむしろ、「出力」側に注目した。 当初、大衆側の 「出力」は伏流水のごとく民俗・風俗と呼ばれ、一個の独立した文化事象としては認めない風 潮もあったが、戦後五〇年の歳月は庶民の自己表現力を飛躍的に向上させた。今日の自分史ブ ームやインターネット・ホームページの奔流をもちだすまでもなく、「出力」側の水勢を助長 した手段や道具こそ、すべてマスメディアならぬ、パーソナルメディアであった。
今日、五七〇〇万台(二〇〇〇年三月現在) 普及した携帯電話は、格好のパーソナルメディ アとして若者たちに熱狂的に歓迎されながら、ともすると必要以上に公序良俗を乱す悪者とし てバッシングの対象とされる傾向がある。古来、新しい文物が異界から到来すればかならずた どる運命のとおり、カメラや車だけでなく、ペットや冷蔵庫も、当初は「舶来の異物」として バッシング(その無意識にある憧憬)の対象であったが、しだいに人びとの身近な暮らしになじ み、毎日の生活環境のなかへ溶けこんでいった。
その意味で、戦後の大衆文化にとって、これらパーソナルメディアは、マスメディア以上に 媒体価値の高い、もうひとつのメディア環境といえよう。 こうした「出力」側における大衆の 自己表現欲求の拡大と、それにともなうメディア環境の変容は、「モノ」 「機械」の「ブーム」 「流行」というかたちで、各章において言及されている。
6 同時代としての戦後
以上にみた、高度成長・アメリカナイゼーション・メディア環境、この三本の補助線で、 戦 後日本の大衆文化の位相はほぼおさえることができる。 それで足りなければ、戦後民主主義と 都市化とか、まだまだ補助線をつけくわえていくこともできるだろう。
しかし、戦後の大衆文化へのアプローチは、このような、私の外にあるものごとを客観的に 分析するだけでは充分とはいえない。なぜなら、最初にのべたように、私たち自身も戦後とい う時代の中に生きている人間の一人なのであり、戦後はすでに終わった時代として歴史の教科 書の中で記述されるだけのものではないからである。
この視点から見れば、それぞれの人にとって、それぞれの戦後という時代があり、戦後の大 衆文化があるということになる。
たとえば、昭和の初めに生まれた人は、戦争終結時に二〇歳前後、現在は七〇代前半である。 とすれば、この人の人生そのものが昭和史と重なる。この人は、現在までの人生の中で、どの ように戦後を生きてきたのだろうか。
もう少し具体的に問うてみよう。
この人は、昭和天皇の終戦の詔勅をどこでどのようにして知ったのか。それをどのように受 けとめたのか。この人が、電気冷蔵庫を初めて購入したのはいつか。それをどのように利用し
る。
たのか。それ以後、 現在使用している電気冷蔵庫まで、何台を買い換え、古い冷蔵庫はどのよ うに処分してきたのか。この人は、自動車とはどのようにつきあってきたのか。いつ免許をと り、自動車に乗ることでどんな経験をしてきたのか。この人は、携帯電話をもっているのかど うか。それに対してどのような感情をいだいているのか。
このようにして、一人の個人の人生のなかにも、戦後という時代、大衆文化との出会いがあ
もしも読者にちょうどこのぐらいの年齢の人がいたら、 ここで自分の人生をふりかえっても らいたい。読者がはるかに若くても、親戚や知人にこのぐらいの年齢の人がいたら、その人か 話を聞いてみればよい。それによって、「生きられた戦後大衆文化史」ともいえる記録を作 成することができるだろう。もちろん、まだ一〇代の人でも、その十何年かの人生のなかでそ の人なりに大衆文化との出会いがあるわけだから、自分の人生をふりかえってもかまわないの だが。
いずれにしろ、戦後の大衆文化にたいしては、自分を軸にして記述するというアプローチも ありうるのである。