今日、『あの日』から1年を迎えた。午後から震災前に住んでいた家のあった場所へ家族と共に行って来た。
ずっと生まれてから暮らし、3年前に新築したばかりの家だった。午後2時46分、防災無線のサイレンと同時に、亡くなられた親戚、友人、多くの方々のご冥福とこれからも絶対負けないという思いを込め、黙祷を捧げてきた。
記憶を風化させたくないので、書き残していたメモと当時の記憶をもとに当時のことを思い出してみる。
2011.03.11 いつもと同じく出勤し、仕事をしていた。突然、携帯から着信音ではない音が鳴った。緊急地震速報を知らせる音だったが、画面を確認しる間もなく、今まで体感したこともない大きな揺れに襲われた。勤務先は砂浜の上に建ち、防波堤の外(海側)にあった。一度も体験はしたことがなかったが、直感で『津波が来る』と思った。
津波注意報や津波警報は今まで何度となく経験しているが、正直避難したのは数える程度しかなかった。現に2日前、去年の3月9日にも津波注意報が発令されている(覚えている人は少ないが・・・)。その時も職場の同僚と『波引いてんじゃね?』といいつつも避難はしなかった。でも今回のは違う、絶対来ると思った。
水門の外へ出ると知り合いと出会った。これがオレを助けてくれた『偶然』だった。彼の家は高台にあり、歩いてきたので家まで乗せて行って欲しいとの事。彼を家まで送ったことで、あの大津波から助かったのだと思う。彼はオレのことを命の恩人だというが、オレにとっては彼が命の恩人である(笑)。
高台で町が津波にのまれていくのをただ茫然と見ているしかなかった・・・我に返ったとき、家族の安否が急に心配になった。先に勤務先の近くにある子供たちを預けている保育園に向かった。が、保育園には誰もいない。近所の人に上の高台に避難していると聞きそこへ向かった。子供たち(双子の姉妹)はそこにいた。子供たちを保護した後、次に長男の通う小学校へ向かおうとしたが、消防団の人に止められる。ガレキで道路が寸断しているとのこと。あせりと苛立ちの中、1時間程が経過。小学校がある場所までは行けるという情報で、小学校へむかう。オレを見つけた長男は安心したのか、大声を出して泣いた。
長男を保護して間もなく陽が落ち、停電と道路寸断のため、身動きが取れなくなった。妻と母の安否確認が取れないまま、小学校の校庭での長い夜を迎えることとなった・・・・・