我が家のコロナ感染経路(?)

 

恐らくまずは父母の軽い風邪症状。

最初は鼻かぜのようなもの。そのうち微熱。

 

その2~3日後に私の感染。

予兆症状は急激な喉の痛み。その翌日寒気からの発熱。

両親はまだ軽い鼻かぜと微熱。

父は一人改善傾向。

 

その後母の症状もちょっと悪化して寝込むようになり熱があがり、病院に駆け込み私と母の陽性判明。

父は病院いきたがらず(陽性判定を怖がり)、仕方なく抗原検査キットを買って測定させたら、うすーく陽性。ウィルス量が少ないけれど陽性ということ。症状は鼻かぜ程度。

 

その後、症状前に父と接触していた義兄が発熱からの陽性判定。

その数日後に姉も発熱。当然だが陽性判定。

 

うちの家族ここまで広がりました。

感染経路は父とかしか思えないけどこれもなんとも…。

 

そして全員軟禁期間を終えての考察。

 

まず父。

糖尿病を患って毎日大量の薬を飲んでいるにも関わらず、一番症状が軽かった人。鼻かぜ程度。微熱もすぐ下がったし。この時点でワクチンは三回目まで。症状収まった頃に四回目受けにいきました。

 

そして母。

一番父と接触が多いのでおそらくもらったのではないかと…。

はじめは鼻かぜ程度で微熱。しかし熱が上がり数日後寝込むことに。

重症化はしませんでした。ただ寝込んでました。

この時点で母ワクチン四回目済み。

 

私。

家族三人の中で一番重症。

喉の痛み、咳はなし、高熱。最高で39.4度。

ワクチンは三回目済み。

 

一緒に住んでないけど家の近い義兄。

姉と結構年の差あるので割と高齢の部類。

症状は重症。

接触してないので状況わからないですが、症状長かったようです。寝込み期間が長かったというか。そして一か月程経った今も後遺症に苦しんでいて、結果8キロ痩せたそうで、私と姉から羨望の眼差しを受けている(笑)。

ワクチンは二回目までしか打ってないそうです。

 

姉。

私と同じくらいの症状かなー?

熱と、とにかく酷かったのは咳だそうです。

ワクチンは三回目済み。

 

現在義兄以外は元気戻ってます。

症状も消えました。

 

SNSではワクチン五回目打つと死ぬとかとんでもないホラが飛び交っているようですが、こうして我が家の少ない例を見てみると、ワクチンちゃんと打ってるからこの程度ですんだのかな?と、打った回数と症状を比べてみると思えたりします。

まぁ、五人程度なのでなんともいえません。

仮にワクチン打たなければもっと軽症とか無症状だったかな?と思わないでもないですが、完全にワクチン打ってない人間がいないので比較は難しいですが、二回目までしか打ってない義兄が重症化っぽかったので(入院してないので重症化とはいわないかもだけど、八キロ痩せたなら重症やろう、と・笑)、やっぱりワクチンは必要なのかなーとか。

仮に義兄がワクチン打ってなかったら死んでたかも……ということもありえなくはない…。

 

とはいえ、うちの家族はみなインフルエンザ罹ったことないし、インフルエンザのワクチンも打った事ないので、ワクチン信者ではありません。

ただやっぱりコロナは未知のウィルスだから、今はやっぱりワクチン必要なのかなぁ…とか思ったり思わなかったり。

SNSでは人類みんな実験体だよ!とか言われてますが、未知のウィルス相手にそれはしょーがないだろと。ゆっくりじっくり臨床実験なんてしてる場合ではないし。

別に毒を注入されてるわけではないし、遺伝子に影響が出るわけでもないでしょう(と思いたい)。

 

なにはともあれ、早くインフル程度に落ち着いてくれないかなぁ…と、祈ります。

 

胆石疝痛発作」の初めての救急車から数年間。

2~4年かなぁ…。

一年に1~2度の割合で同じような激しい疝痛発作で救急車呼びました。

最初の救急搬送の時から救急車んでいた期間は、まだコロナのコの字もなかったので、病院はまぁ、普通の対応だったのが救いだったかな?

 

救急搬送されるびに先生が、胆のう取っちゃえば?というのです。

取ればとりあえず発作はなくなるし、別に取っても大きな支障がある訳ではないということで、つまり盲腸みたいな???

子宮筋腫の時もそうでしたが、お医者さんってホント気軽に「取っちゃえば?」って言いますよね~うーんDASH!

 

とはいえ忘れた頃にやってくる発作のために、手術には踏み切れなかったのですが、決断しました。

その理由が。

とうとう仕事中に発作が起きてしまったのです…。

BRに飛び込んで搬入口のところで蹲って痛みに耐えながら、「治れ治れ治れ!収まれ収まれ収まれ!」と念じていました。

吹き出す脂汗と叫びだしたい程の痛み。

気づいたスタッフにはすごい心配される程の状態だったそうです…。まぁ、職場だからまだ転がらないでいられたんですが…。

 

そんなこんなでとうとう仕事中に来てしまった発作。幸いその時は10分内で収まりましたが、長いときは一時間~一晩中なので…アセアセあせる

自分の中で、発作が増えたら手術しようとは思っていたんですが、職場で来ちゃったのが決定打でした。

 

ちなみにその前の発作はまた救急車を呼んだのですが、同居している両親が泊りで旅行行ってたために、一人きり。

一人でのたうち回って一人で救急車呼んで、そのころには常備していた救急車セット(中身は保険証、診察券、上着、靴←ストレッチャーで運ばれることもあったので帰りに靴がなかったりしたのです。上着は帰りに寒いから。室内着で搬送されますからね)を持って、一人で救急車に乗り込みました…笑い泣きあせる

これも決断した大きな要因ですかね。一人でっていうのはホントいろいろキツイです…。

 

で、病院いって先生に相談して、相談したらすぐ手術の日程組まれました。

ほんとお医者さんって切るの好きなのかな…はてなマークはてなマークはてなマーク

 

しかも!しかもしかも!なんかすごいスピード手術ですヨ!!!!!!

朝の九時に病院入り、11時過ぎに手術室へ移動。

→→→全身麻酔で手術。

午後にはベッドで目が覚めたのですが、相変わらず全身麻酔はダメな体質のようで、先にそれ言って吐き気止めも点滴お願いしたんですが、やっぱり目覚めてから朝まで一時間置きぐらいに吐きました。

毎回手術のたびにこれがホント辛い…ニヤ汗

で、一泊して驚く事に午前中に退院。

腹腔鏡手術だったので確かにダメージは軽かったですが、体の中の器官取った訳ですよ!そりゃ痛いよ!でも筋腫とか子宮の摘出のための腹腔鏡手術よりは割とダメージ少なかったです。朝方には点滴ぶら下げながら病院歩けたし。

 

で、マッハで退院して二週間は安静というので仕事も休んで療養しつつ、ウォーキングとかちょいちょいしながら職場に復帰。

 

これで発作ともおさらばゲラゲラ音譜

と、思ったのですが…。

 

実は体が元気になった頃にわりと早く再び疝痛発作が…。

なんでーガーンガーン と思いつつ再び救急搬送。

いつもの流れでいろいろ検査の後に発作収まって診察した時の先生の説明によれば。

うろ覚えですが…。

胆のう外に出ていた残りの石が胃に落ちたらしいです。

なのでいうなれば最後っ屁滝汗はてなマーク

胃に落ちたのは胃酸で溶けるから心配ないそうで、レントゲン?でも石はもう見えなかったのでやっぱり最後っ屁ですね(とは言ってませんが)、という感じでした。

 

結果的に、先生の言う通りでした。

手術して最後っ屁の発作が起きてから数年経ちましたが、疝痛発作は起きてないです。

胆のうを失いましたが、地獄の疝痛発作や救急搬送、ERやら待ち時間、そして付き添いの母の負担。そういうのをひっくるめて、サヨナラ胆のうでよかったと思ってます。

 

わりと健康だと思っていたんですが、病弱ではないけど健康でもなく、手術が多い人生です。

恐らく、幼いころからの運動不足、偏食、肥満、喫煙、出不精、歩くの嫌い病、などなどなど、要因はいろいろあったのでしょう。

最初の手術から、生まれ変わったかのように毎日筋トレストレッチをし、ウォーキングし、食生活も気を使い、維持できるダイエットを心掛けています。

 

人間、ターニングポイントを実感しないと生まれ変わることはできません。

 

と、本当に痛感しました。

私が誇れるのは下戸って事ぐらいでしょうか。誇る程ではないですが、逆に海外旅行とかで楽しめなかったので多少は飲めたかったですが、飲酒のデメリットを考えるとまぁ良かったなと思ってます。最初の手術でヘビースモーカーだった私も完全禁煙できましたし、悪い事ばっかりではなかったと思いますが、思いますが……。

できたら物心つく頃から人生やり直したい大泣き!!!!!!

と、本気で思っています。

 

好き嫌いダメよ、野菜も食べなさい。

子供のころよく言われましたが、いやほんとに幼少期の食生活と健康習慣は大事! でも、大人になってから影響が出るのでその頃受け入れられるわけもなく!

後悔先に立たずとはこういうことなのでしょうか…笑い泣き泣

歯磨きもお風呂も洗髪も、大嫌いな子供時代でした。

深く深く反省…。

 

とりあえずはもう人生折り返しの年齢となり、あとはもう本当に余生という感じです。

実はまだ不安な健康状態なところはあるのですが、私的にはこの人生は楽しく過ごせたので、明日死んでも後悔はなかったりします。

やりたいことはやれたので。

旅は若いうちに行け!

と言われた通りに二十代の頃に海外旅行も行き着くしました。今は気軽に行けないし、本当体力ある頃に海外行きまくれたのはいい経験でした。

 

今後なにか疾患が判明しても、治療と通院はしたくないなぁ…。という考えです。

私は別に長生きしたくないので。

子供も夫もいないし、長生きしてもいいことはない。

太く短くが、今の時代いい生き方かなーって思います。

今から9~10年程前の事。

人生初、救急車で搬送されました。

 

あれは忘れもしない、いろいろあった二月下旬の事。

お風呂から出た後にじわじわとした違和感からの痛烈な痛み。

すぐにとんでもない激痛が胃の当たりを襲いました。

ホント、とんでもない激痛です。

丸くなって胃の辺りを抑えて蹲って転がって這いまわって痛い痛い痛い!と叫び呻き喚き、全身から汗が噴き出してのたうち回りました。

じっとしてられない痛み。

動いても和らぎも気休めにもならないとてつもない痛み。

表現しようにもなんとも言えない壮絶な痛みです。

キリキリとかガンガンとかツキツキとか、そういうのではないです。

この世の終わりみたいな本当に壮絶で耐えられない痛みです。

 

ですが、実はこの痛み、この時が初めてではありませんでした。

それ以前にも年に一度あるかないかであったのです。時間にして3~5分で治まる程度でしたが、痛みは全く同じものです。外でこの発作が起こっていたら間違いなく通報されるだろうなという感じの、時間関係なくのたうち回る痛みです。

ただ本当に、年に一回あるかないかで、4~5年前ぐらいの記憶だったので、あえて病院にいったりもしてなかったです。加えて私は母似で胃が弱く、食べ物によってすぐ胃をしくしくさせて太田胃散を常備していましたので、その系列なのかなーと呑気に思っていたのです。普段の胃痛は普通の胃痛で、それでも酷い時は夜寝れずにずっと胃を撫でたり夜明けまで寝がえりを打ちまくったりと、それなりに辛いものではあったのですが、今回の痛みとは比べようもないものでした。

 

で、この時の痛みもしばらくすれば治まると思って転がりながら耐えていたのですが、一向に引く気配がありません。

二月というのにフローリングは私の汗と涎で濡れていました。

堪らずに母が救急車を呼び、初の搬送です。

 

ストレッチャーに乗せられて運ばれる間も、痛い痛いとうわ言のように叫んでいたのは覚えています。本当に痛かったんです。すぐに鎮痛薬欲しかったのです。救急隊の人が神様に見えてすぐに懇願したけど、もちろんこの人たちにそんなもの打つ権限はありません。ええ、ドラマや映画で見た事あったし知っていましたけども…けども……。

 

じゃぁなにもしないなら痛み感じないように殺してよ!と、本当に叫びそうになりましたが、僅かに残った理性でそれは飲み込みましたが、心の中ではお願いお願い楽にしてお願いってマジで祈っていたのです。

それぐらい本当に、激しく強く壮絶な痛みでした。なにより、いつもみたいに短時間で終わらない。まーさーに、地獄。

そのうち指が痺れて来て、これはいよいよ自分まずいんじゃないかと、痺れがあることを必死で訴えました。

救急隊の人は、痛みで呼吸が乱れて過呼吸になっているからですよ、ゆっくり呼吸してください。と、優しく言ってくれましたが、できなーい!!! だって本当に痛いんです…笑い泣き

 

そんなこんなで、母も同乗して救急車で病院へ到着。GTだったので夜間救急です。所謂ERというやつですね。ストレッチャーに乗ったまま救急車から降ろされて病院へ。

これできっと鎮痛剤もらえて痛みも治まる筈……。と、安堵していたのですが、実際はそんなことはございません。

ERは戦場です。

まず、順番待ち。

いっぱいいます。

その間も痛みは同じ強さで続いていて、待たされるカーテンの中でストレッチャーの上で見悶えていました。ほどなくして先生がきて見てくれますが、まず問診。なに食べたかと、救急車の中で聞かれたのと同じ事聞かれます。当時はダイエットしてて食べたもので胃にもたれるようなものはありません。茹でたオクラぐらいしか食べてなかった…DASH!

そして更にいろいろ聞かれ、次にCTとMRI。これ、そこそこ時間かかります。その間も鎮痛剤とか一切なし。でも検査しないと迂闊に注射はできないそうで、懇願したけどやっぱり何もしてくれませんでした。

その間もずっと同じ強さで痛みは続いていて、いや本当に地獄でした。

恐ろしいのは、カーテンの中で待たされているとき、聞こえてきた女医さんの台詞。

「もう、ほんと今日の研修医は使えないわね!」

コレ。

ドラマでならまぁありそうな台詞でしたが、運ばれた病院のERで聞きたくない台詞でした…えーんあせる

 

そんなこんなで、結局一晩放置され、朝方ぐらいに痛みは治まりました。

点滴してもらって病室に放置されたんですが、点滴が聞いたというよりは自然に治まった感じがしないでもない。

少なくとも点滴貰ってすぐスーっと痛みが消えたということはなく、放置された病室で私は明け方痛みが引くまで痛い痛い助けて痛いとのたうち回っていました。

地獄の一夜でしたね。いやほんと…叫び汗

 

続く
(下書きのまま忘れていた手術シリーズの前置き編。すでに一年も経っていたのでついでだからUP。どーせ日記だし!)

七月末日に新型コロナウィルスを発症し、無事乗り切って社会復帰して日常を取り戻して明日で一週間経ちます。

 

息苦しさは大分楽になり、慣れたせいなのか治ったのか判断つかないぐらい普通です爆  笑

 

気になったのは昨夜。

零時前に寝たのですが、夜中の二時ごろ。

咳が…苦しい咳が突如続きました。

咳で目が覚めたのかなぁ…? という感じ。

コロナ発症時にも出なかった本格的(?)な咳でした。

暫くゴホゴホして、落ち着いてまた眠り、またすぐゲホゴホしてまた眠るって感じをしばらく続けて収まった模様で、次に目覚めたのは朝六時にかけた目覚ましでした。

 

めまいで目覚めるとかはメニエールが持病なので時折ありますが、咳で目覚めたのは初めてな上に、コロナの後遺症(?)が息苦しさだったのでちょっと気になりました。

ちょいちょい気管支炎など起こしていたので、気管支が丈夫とは言えないため、もしやコロナの後遺症が気管支に…? と考えたり。まぁ自己診断はほんと良くないので、そこまで深刻な症状でもなかったので気にしないことにします。

が、今後これが続くなら医者には……行きたいけど今行かないほうがいいのかなぁー!? コロナでお世話になった病院の先生の悲鳴を思い出します…。個人病院だったので余計に…。

 

こういうのはどうしたらいいのでしょうね…。

とは言いつつも今日は乳癌の定期健診で病院なのですがしょんぼりあせる

本日仕事場の方へいって手配されていた抗原検査してきましたー。

症状がなく熱もないので陰性なのは解っていましたが…。

私は無事に陰性でした(形式美な気がしないでもないけど…)。

 

 

Tに線が出ると陽性です。

39度↑を出した状態の時に病院で検査した抗原検査はくっきりTに線が出ておりました。写メ撮る余裕なんてなかったけどね…あせる

 

ちなみに症状は残ってます。

息苦しさです。

軽い気管支炎みたいな感じですね。

ぜぃぜぃ言うほどでもないし運動もできます。ただ、やっぱり気管支なのかその奥なのか息苦しいです。

ので、猛暑のマスクが堪える笑い泣きあせるあせるあせる

 

母が「コロナって一回なればもうならないんでしょ?」とか恐ろしいことをいってました。確かに抗体はつくかもしれませんが、毎年インフルエンザに罹る人がいるように、なるときゃなります。

以前細菌とかウィルスとかの研究所に勤めてた友人が言ってましたが「あいつらも生き残るために必死よ」と言う台詞に、なるほど、人類との生存競争な訳か…と思わず納得してしまったり。

生き残る為に自分の体を作り変えて新しいタイプを作って、旧タイプの抗体を持った生物へアタック。

なるほど、なるほど。

イタチごっごな訳なんでしょうが、早くインフルぐらいに一年に一度ワクチン打って乗り越えよー!みたいになるといいな…ニコラブラブ