7月11日(金)。今日はやけに社員達の気分が盛り上がっている。ここで中くらいのザンギエフの語録を思い出して欲しい。
中くらいのザンギエフ:「お前たち、今日は金曜日だ!金曜日はいい日だ!何故かわかるか?」
洗脳されし従業員たち:「ハッピーフライデー!」
そう、今日は金曜日。金曜日のみんなの喜び具合はいつもと違う。ターフへ向かう車の中でも「1週間の中でも金曜日は特別!契約○○件取れ次第仕事切り上げて飲みに行くよ~!」とトニーが張り切っている。実際には早めに仕事を切り上げるほど契約は取れなかったのだが、今日は全体的に「はい、仕事終わった!さぁ仕事の事は忘れた忘れた!」という感じだ。そしてセイントキルダビーチの近くにあるバーに向かい、みんなで飲む。費用は全部トニーのおごりだ。すげぇなぁ、まだ20歳なのに。さすがF**kin’ moneyを稼いでいるだけのことはあるな~。
説明するまでもないかもしれないが、ここでの飲み会は日本の飲み会のように形式ばったものではない。部下が上司にお酒を注ぎに行ったりする事はなく、飲み会というよりは同世代の友達同士のパーティに近いかもしれない。よって当然ここでは上司と部下の上下関係はほぼ完全に消滅し、対等な立場でのざっくばらんな会話をする事になる。会の始まりと終わりの挨拶もないため、誰がどのタイミングで抜けようともそれはその人の勝手だ。実際バーには基本お酒しかなくて食べる物がなく腹が減ってきたので、先日仲良くなったビクトリアと一緒に途中で抜け出し、近くのトルコ料理の小さな店でケバブを買って食べた。そしてそのまま流れで解散し、シェア先に戻った。
そして翌日。この日も夕方から飲みに行くのだが、今回の相手は特別だ。なぜなら今回一緒に飲むのは、何年間も会っていなかった従兄弟だからだ。実は彼は僕より1年ぐらい前にメルボルンにワーキングホリデーで来ており、この月の下旬には日本に帰ることになっていた。僕の方は最近仕事を手に入れて生活リズムが安定してきた所だし、会うならこのタイミングしかない。彼とは何日か前からFacebookと、そこで交換した現地の携帯番号でやりとりをし、会う約束をしていた。そしてそれがこの日7月12日(土)だったのだ。
久しぶりに会ったいとこは、だいぶ落ち着いた感じで逞しくなっていた。既に2年も自力で海外で生計を立てていたのだから不思議な事ではない。ここで「2年オーストラリア」ではなく「2年海外」と書いたのは、彼は2年オーストラリアにいたわけではないからだ。最初の1年目は彼はニュージーランドでワーキングホリデーをしており、それが終わって日本に戻って少しすると今度はオーストラリアに飛んできた。オーストラリアでは既に余裕がある程度あったようだが、1年目のニュージーランド時代は大変だったらしい。そこまでたくさんの貯金を用意せずに現地入りしたため、入国して少しすると経済的に苦しくなった。また、着いたばかりの頃は英語も不自由な状態で言葉の壁の問題もあったらしい。
それでも彼がすごいのは、よくありがちな、日本語で情報検索をし、日本語環境で仕事をし、日本人同士でかたまるという、「日本人村に落ち着く」パターンに陥らなかった所だ。彼はわざわざ日本を離れて英語圏の国に来たからには、日本人に頼ってばかりの生活はしないと決めていたようで、仕事もノンジャパニーズのものをメインにゲットして生計を立てていた。ニュージーランドに来たばかりの頃は、時には週60時間ほど働くこともあったらしい。オーストラリアでもジャパニーズマーケットにはあまり近寄らず、メキシカンの店やレバノン人の経営する店などインターナショナルな職場で働いていた。メキシカンの店は時給18ドルだったらしく、恵まれた職場環境を自らの手で勝ち取っていた。そして飲食店で働く傍ら英語力も順調に伸ばし、TOEFL-iBTではアメリカの中堅クラスの4年制大学で学べるレベルの点数を取るまでになっていた。
久しぶりに会った従兄弟との話は楽しかったし、既に自分より多くの海外経験を積んでいる彼にはいろいろ教えてもらえた。僕が今はCBDのシェア先にいるがもう出て行こうと思っているという話をすると、「あぁやっぱりシティの中心はチャイニーズ系がホント多いよね。俺は今シティから自転車で40分ぐらい離れた所に住んでるんだけど、そこはCBDのその部屋と同じぐらいの値段でも1人部屋だよ。」という情報をくれた。やっぱりシティに近づけば近づくほど家賃は上がって尚且つ狭いところに大人数で住む事になるけど、シティから離れればその逆になるんだよな~。ちょうど2日前に日曜日のルームインスペクションがシティからけっこう離れた所で決まった事だし、彼の話を聞いてなんだか楽しみになってきたぞ。
中くらいのザンギエフ:「お前たち、今日は金曜日だ!金曜日はいい日だ!何故かわかるか?」
洗脳されし従業員たち:「ハッピーフライデー!」
そう、今日は金曜日。金曜日のみんなの喜び具合はいつもと違う。ターフへ向かう車の中でも「1週間の中でも金曜日は特別!契約○○件取れ次第仕事切り上げて飲みに行くよ~!」とトニーが張り切っている。実際には早めに仕事を切り上げるほど契約は取れなかったのだが、今日は全体的に「はい、仕事終わった!さぁ仕事の事は忘れた忘れた!」という感じだ。そしてセイントキルダビーチの近くにあるバーに向かい、みんなで飲む。費用は全部トニーのおごりだ。すげぇなぁ、まだ20歳なのに。さすがF**kin’ moneyを稼いでいるだけのことはあるな~。
説明するまでもないかもしれないが、ここでの飲み会は日本の飲み会のように形式ばったものではない。部下が上司にお酒を注ぎに行ったりする事はなく、飲み会というよりは同世代の友達同士のパーティに近いかもしれない。よって当然ここでは上司と部下の上下関係はほぼ完全に消滅し、対等な立場でのざっくばらんな会話をする事になる。会の始まりと終わりの挨拶もないため、誰がどのタイミングで抜けようともそれはその人の勝手だ。実際バーには基本お酒しかなくて食べる物がなく腹が減ってきたので、先日仲良くなったビクトリアと一緒に途中で抜け出し、近くのトルコ料理の小さな店でケバブを買って食べた。そしてそのまま流れで解散し、シェア先に戻った。
そして翌日。この日も夕方から飲みに行くのだが、今回の相手は特別だ。なぜなら今回一緒に飲むのは、何年間も会っていなかった従兄弟だからだ。実は彼は僕より1年ぐらい前にメルボルンにワーキングホリデーで来ており、この月の下旬には日本に帰ることになっていた。僕の方は最近仕事を手に入れて生活リズムが安定してきた所だし、会うならこのタイミングしかない。彼とは何日か前からFacebookと、そこで交換した現地の携帯番号でやりとりをし、会う約束をしていた。そしてそれがこの日7月12日(土)だったのだ。
久しぶりに会ったいとこは、だいぶ落ち着いた感じで逞しくなっていた。既に2年も自力で海外で生計を立てていたのだから不思議な事ではない。ここで「2年オーストラリア」ではなく「2年海外」と書いたのは、彼は2年オーストラリアにいたわけではないからだ。最初の1年目は彼はニュージーランドでワーキングホリデーをしており、それが終わって日本に戻って少しすると今度はオーストラリアに飛んできた。オーストラリアでは既に余裕がある程度あったようだが、1年目のニュージーランド時代は大変だったらしい。そこまでたくさんの貯金を用意せずに現地入りしたため、入国して少しすると経済的に苦しくなった。また、着いたばかりの頃は英語も不自由な状態で言葉の壁の問題もあったらしい。
それでも彼がすごいのは、よくありがちな、日本語で情報検索をし、日本語環境で仕事をし、日本人同士でかたまるという、「日本人村に落ち着く」パターンに陥らなかった所だ。彼はわざわざ日本を離れて英語圏の国に来たからには、日本人に頼ってばかりの生活はしないと決めていたようで、仕事もノンジャパニーズのものをメインにゲットして生計を立てていた。ニュージーランドに来たばかりの頃は、時には週60時間ほど働くこともあったらしい。オーストラリアでもジャパニーズマーケットにはあまり近寄らず、メキシカンの店やレバノン人の経営する店などインターナショナルな職場で働いていた。メキシカンの店は時給18ドルだったらしく、恵まれた職場環境を自らの手で勝ち取っていた。そして飲食店で働く傍ら英語力も順調に伸ばし、TOEFL-iBTではアメリカの中堅クラスの4年制大学で学べるレベルの点数を取るまでになっていた。
久しぶりに会った従兄弟との話は楽しかったし、既に自分より多くの海外経験を積んでいる彼にはいろいろ教えてもらえた。僕が今はCBDのシェア先にいるがもう出て行こうと思っているという話をすると、「あぁやっぱりシティの中心はチャイニーズ系がホント多いよね。俺は今シティから自転車で40分ぐらい離れた所に住んでるんだけど、そこはCBDのその部屋と同じぐらいの値段でも1人部屋だよ。」という情報をくれた。やっぱりシティに近づけば近づくほど家賃は上がって尚且つ狭いところに大人数で住む事になるけど、シティから離れればその逆になるんだよな~。ちょうど2日前に日曜日のルームインスペクションがシティからけっこう離れた所で決まった事だし、彼の話を聞いてなんだか楽しみになってきたぞ。