http://www.tagawa-kenzo.server-shared.com/sub30.apocalypse.htm#vol.7, (6)
(1) 黙示録という文書。思い切った新説を展開
思い切った新説と言っても、別に、奇をてらった想像だの、ちょっと見た眼には面白いかな、などという思いつきだの、 といった類のものではございません。 すでに19世紀後半から20世紀はじめの、つまり聖書学が徹底的に批判的学問たろうとしていた時代に、個々の個所について非常に数多く指摘されていた問題点を、総合的に洗いなおし、それらの問題点のすべてに誠実に取り組めば、この結論以外にはありえない、というところにおのずと到達した、というだけの話です。
(2) 二人の、正反対の書き手の文章の混成
現在我々が手にしている黙示録、つまり古代から (2世紀の半ば頃から) 諸写本によってこの形でずっと伝えられてきた文書ですが、これは二人の、すべての点でまるで正反対の書き手の文章が、交互に次々と並べられている、その点では、まことに奇妙な文書です。
混成というよりも、元々の著者 (原著者) の文は全体としてほぼみごとに整った文章なのですが、その間のあちこちに、やや後の編集者が、まったく無秩序に、自分の勝手な思い込みを雑然と、かつ大量に書き入れしまった。
この編集者の文は、ところどころ、非常に長く続いていますが (1-3章、8-9章、14章後半-16章。 また19-22章の大部分)、それだけでなく、しばしば原著者の文章の間、間に、短い文や語句を思いつきで次々と挿入している。それも、原著者の文とは正反対の趣旨の文や語句を、何の断りもなく、勝手に挿入する。 あるいは逆に、原著者の短い文の前後に、それとは正反対の趣旨の非常に長い文を書き入れる。
(3) 両者あまりに正反対! この二人は、あらゆる点にわたって、あまりに正反対である。
1. ギリシャ語の語学力
原著者のギリシャ語もかなりたどたどしいが (かなりヘブライ語、アラム語の発想に依存している)、しかし初歩的な文法についてはしっかりしており、たどたどしくても、文意はほぼ鮮明であり、内容的には非常にしっかりしていて、意のあるところが読者によく通じる。 ほぼ、マルコ福音書の著者のギリシャ語の水準に匹敵すると言える。
それに対し、編集者のギリシャ語は、そもそもギリシャ語とは言えない程度にお粗末極まりない。 知っているギリシャ語の単語や表現をまるで無秩序に並べ立てただけ。 しかも、知っている単語と言っても、本人が知っていると思い込んでいるだけで、しばしば語義も滅茶苦茶。 ひたすら恥ずかしい、としか言いようのない代物である。
文法的にも、ごく初歩の間違いがうなるほど大量に出て来る。 名詞等の格の間違い、動詞の時制の間違い、前置詞や接続詞の嘘みたいな貧困、その他いろいろ。 そして文体的にも、これでギリシャ語かよ、と溜息をつきたるなるようなすさまじい構文、構文とは言えないような単語の羅列……。
ここまでギリシャ語の能力が違う文章が同一の書き手によるということは、絶対に不可能である。
2. 基本的な質、向いている方向の違い
編集者は極めて低水準に、しかし極めてごりごりのユダヤ民族主義者で、ユダヤ民族以外はすべて殺しつくさるべし、と、口を開く度に、そればかりを騒ぎ立てている! それがこの人の 「終末待望」 であるが、それがこの人の唯一の関心事である。 終りの時に、世界中の異邦人が滅ぼしつくされ、殺しつくされる! 自分たちユダヤ人 (ないしユダヤ主義キリスト信者) のみ救われて、天的至福の世界に迎え入れられる!
原著者はこれと正反対に、何度も何度もくり返し、世界中の諸民族、諸言語の者たちが、みんなそろって、いずれ神のもとに迎え入れられる。 そこでは、もはやいかなる差別、弾圧もなく、飢え、渇く者もいなくなる。 彼らの、これまでのこの世の苦労の中で流した涙を、神がぬぐってくださる、と、平和な、穏やかな、願いを記し続ける。
3. 現実と取り組む姿勢の決定的違い
原著者は、しかし、甘く平和な未来を願望しているだけではない。 その叙述の主眼点は、現在の世界の支配状況、現在の世界を支配している勢力、その基本構造の批判である。 つまり、ローマ帝国の世界支配が、そこで生きているすべての住民をいかに抑圧しているか、という批判。 そして、その批判の眼は的確である。 ローマ帝国支配の本質を、個々の皇帝だの、支配層の貴族だのの個別の現象に見るのではなく、その支配の基本構造、つまりローマ帝国支配の基本構造たる古代資本主義の支配に、しっかりと批判の眼を据えている。
後にカール・マルクスが有名な 「貨幣物神」(Geldfetisch) の理念を導きだしたのも、黙示録原著者のこの文からである。 確かに、黙示録原著者の文はまだまだ素朴、直感的にごく短く自分の思いを指摘しただけであるが、叙述は素朴であっても、質的には深く、鋭く、説得力を持つ。
そして彼は、世界を支配するこの支配経済機構、つまりローマ帝国支配は、いずれ神によって徹底的に壊滅させられるだろう、と予言した。 予言というか、願望というか。 人間が作り出した人間を支配する機構がこれ以上人間を抑圧しつづけるのは許されない、と。
編集者は、しかし、原著者のこの特色をまったく理解しなかった。 彼はひたすら異邦人に対する憎悪を、極度な民族的排他主義を、言い立て続ける。 文章の脈絡なぞなく、ただただ、異邦人はみんな殺しつくされるぞ、と叫び続ける。 せっかく原著者の文書を借用して、そこに自分の文章を書き加えて発行しながら、原著者の文章が何を言おうとしているかを、まるで、まったく理解しなかったのだ。 彼はただ、原著者の文章がローマ帝国支配の崩壊を予言しているのに手掛りを得て、それは世の中全体の終末の話だと勘違いし、それなら、世界中の異邦人が殺しつくされる話を大量に書き込もう、と試みたのである。
4. 品性の違い
本質的には以上のとおりだが、その文章ににじみ出る人間としての基本の質もまた、両者はまるで異なる。
編集者は、異邦人 (非ユダヤ人) はすべて穢れた存在、間違った存在、従って徹底的に排除され、殺しつくされねばならぬ、と思い込んでいる。 この種の異邦人排除、他民族排除、他民族皆殺し主義は、もちろんそれ自体としてすでに、ひどくおぞましい、人間的品性として許し難い質のものであるが、そのことを書き記す彼の文章には、全篇にわたって、人間的にひどく低級な品性が多く露出している。
たとえば、世界中の異邦人が殺しつくされたその死骸に、さまざまな鳥、猛禽類がむらがって食いつくす、などという情景を嬉しがって描く。 あるいは、彼らは殺しつくされると言い立てるだけでは満足せず、殺される前に、殺される苦しみをできる限り長引かせるために、当分の間死ぬことも許されず、死の苦しみを死なずに長々と苦しみ続けるという情景を嬉しがって描く。 あるいはまた、彼らは一度死ぬだけでなく、二度目の死を死ぬのだ、残酷な死を二度味わうのだ、そして二度目はもっと恐ろしい死だぞ、と嬉しそうに言いつのる。 その他、いろいろ多数。
私がこの編集者に 「編集者S」(Sはサディストの略)というあだ名をたてまつった気持は十分にご理解いただけよう。
それに対し原著者は、この世の中で苦労して生きている、生きてきた、すべての人々に対して、何度も呼びかける、「彼らはもはや飢えることなく、また太陽や灼熱が彼らの上に落ちかかることもない。 ……そして神が彼らの眼から涙をすべて拭い去って下さるであろう」 (7,17)、 「見よ、人間たち (世界中のすべての人間、すべての民族、言語の者たち) と共にある神の住まい。……神は人間たちの顔からすべての涙を拭い去って下さる。そしてもはや死は存在せず、嘆きも叫びも苦痛もない」 (21,4)、ほか、多くの同様の文。
穏やかな平和が、このように世界のすべての人々に訪れることを願っている人物が、同時に、自分たちユダヤ民族 (ないしユダヤ人キリスト信者) 以外のすべての人間が恐ろしい仕方で殺され、殺しつくされ、またまた更に残虐に殺しつくされ、更にまた殺しつくされ……、などと言いつのるわけがないではないか。
