サイクリング―サイクリング―ヤッホーヤッホー!
って事で僕です。こんばんわ。
知り合いの方に春頃に新しい自転車を頂きました。
もう十年ぶりぐらいの自転車です。
なので運動不足としては自転車に乗ってなるべくあちらこちらへ。
先日いつもの様に古本屋に行くために平成町方面へ。
折角来たので車ではよく行ってたのですがサイクリングついでに走水のトンネルを見に。
走水隧道とは。
「走水隧道(はしりみずずいどう)」
このトンネルの前身は導水隧道で、明治九年横須賀造船所(後の横須賀海軍工廠(こうしょう))に、走水の湧き水(わきみず)を送る土管を敷設するために掘られた。当時は、およそ幅が一米、高さ一・五米、長さ三二〇米の素掘で、途中海側に明りとりの丸窓がついた一本のものであった。
その後、東京湾要塞(ようさい)として走水・観音崎地区の重要性が高まり、車馬による交通路を確保するため、軍によって明治十六年、およそ現在の規模に拡張された。こちら側を「走水第二隧道」、馬堀側が「走水第一隧道」呼ばれ、入り口アーチの煉瓦積みの古色に、当時の面影を残している。
平成三年十二月 横須賀市 大津地域文化振興懇話会
このトンネルの前身は導水隧道で、明治九年横須賀造船所(後の横須賀海軍工廠(こうしょう))に、走水の湧き水(わきみず)を送る土管を敷設するために掘られた。当時は、およそ幅が一米、高さ一・五米、長さ三二〇米の素掘で、途中海側に明りとりの丸窓がついた一本のものであった。
その後、東京湾要塞(ようさい)として走水・観音崎地区の重要性が高まり、車馬による交通路を確保するため、軍によって明治十六年、およそ現在の規模に拡張された。こちら側を「走水第二隧道」、馬堀側が「走水第一隧道」呼ばれ、入り口アーチの煉瓦積みの古色に、当時の面影を残している。
平成三年十二月 横須賀市 大津地域文化振興懇話会
走水水源地
走水第二隧道(走水方面)

走水第二隧道(馬堀方面)

という事で。
行ってみるとやっぱりなんか横須賀に生まれ育てっていると日本一トンネルが多い町って言われるほど多い。
自分には当たり前で実感はないけどでもなんとなく歴史を感じる場所でした。
上に書いてある通り明治時代からってロマンありますよね。
以前誰かに聞いたのか日本最古のトンネルって言われて調べると違うところばかり見つかるんですが走水の方が早いっぽいので脳内がゲシュタルト崩壊しています。
ってことで満足して後は家に帰るだけ。
自転車ですいすい。
大津の裏道の方が早く帰れるんじゃない?ってことで裏道を通り京急大津駅に近づくと。

何かかわいい感じののぼりが。
そっか。そういえばいまだに行ってなかったけれどおりょうさんのお墓がある町だっけ。
と思い出して進んでいると案内の看板とお寺があったので寄り道。
江戸末期の風雲児、坂本龍馬の妻龍子は、「寺田屋騒動」の折、坂本の危急を救った女性として広く知られています。
龍子は、京都の町医師楢崎将作の長女として生まれました。生年月日については、天保十一年説もありますが、本市に残る除籍簿によれば、嘉永三年(1850)六月六日となっています。名は「りょう」とか「とも」と呼ばれ、伏見の寺田屋にいた頃は「お春」と呼ばれていたようですが確かなことは不明です。
坂本龍馬は、慶応三年(1867)十一月十五日、京都のしょうゆ商近江屋で京都守護職の輩下見廻組与力の乱入を受け、斬りつけられて、三十三歳の若さで絶命しました。
未亡人となった龍子は、夫龍馬の実家土佐の坂本家に移り住みましたが、長続きはしませんでした。その後、京都、大阪、東京と明治初年まで流浪の生活が続きました。その原因や生活状況については、いろいろの説があり、現在のところでは定説がありません。ただ、はっきりしていることは、明治八年七月二日、三浦郡豊島村深田二百二十二番地(現在の米が浜通り)の西村松兵衛方に「西村ツル」として入籍し、明治三十九年一月十五日の午後十一時に死亡した事実だけです。いろいろな資料によりますと、龍馬の死後、龍子の生活は波乱の連続であったようです。龍子の葬儀は、知人や隣人の助力で、明治三十九年十月二十日にささやかに営まれました。また、遺骨は当時の信楽寺住職新原了雄師の御好意により、この地に葬られたとのことです。
龍子は、京都の町医師楢崎将作の長女として生まれました。生年月日については、天保十一年説もありますが、本市に残る除籍簿によれば、嘉永三年(1850)六月六日となっています。名は「りょう」とか「とも」と呼ばれ、伏見の寺田屋にいた頃は「お春」と呼ばれていたようですが確かなことは不明です。
坂本龍馬は、慶応三年(1867)十一月十五日、京都のしょうゆ商近江屋で京都守護職の輩下見廻組与力の乱入を受け、斬りつけられて、三十三歳の若さで絶命しました。
未亡人となった龍子は、夫龍馬の実家土佐の坂本家に移り住みましたが、長続きはしませんでした。その後、京都、大阪、東京と明治初年まで流浪の生活が続きました。その原因や生活状況については、いろいろの説があり、現在のところでは定説がありません。ただ、はっきりしていることは、明治八年七月二日、三浦郡豊島村深田二百二十二番地(現在の米が浜通り)の西村松兵衛方に「西村ツル」として入籍し、明治三十九年一月十五日の午後十一時に死亡した事実だけです。いろいろな資料によりますと、龍馬の死後、龍子の生活は波乱の連続であったようです。龍子の葬儀は、知人や隣人の助力で、明治三十九年十月二十日にささやかに営まれました。また、遺骨は当時の信楽寺住職新原了雄師の御好意により、この地に葬られたとのことです。
おりょうさんのお墓
ってことで有名で観光スポットって言い方は変ですがなってるそうです。
ってことでお寺へ。

とても趣のあるお寺で日本人としては気持ちがよくなります。
お寺に入る前とご本堂前と二回『お邪魔します』などとお祈りをして案内図で場所を確認。


ってことでお参りしながら行ってきました。
なんか有名なおりょうさんのお墓がここにあると思うと変な話感動としんみりな気分になりますよね。
ってことで満足して帰ってきました。
もし興味ある方は観音崎や浦賀方面へ行く前にでも立ち寄ってみてはいかがでしょうか?
さて今度のネタは今週ののりものフェスか。行くかどうかまだ分からないけど。