佐竹氏はもともと源氏である。

源義家の弟・新羅三郎義光を祖としている。

その義光の孫・昌義から「佐竹」を名乗った。

1106年には常陸合戦において源義国(新田・足利両氏の祖)の進出を防ぐ。ちなみに義国は義家の4男。

昌義を祖とする源氏佐竹氏は11代義盛(1407年没)までだ。

その後は関東管領・上杉憲定の次男を婿養子に迎えている(12代義人)。ちなみに上杉家は先祖を辿っていけば、藤原北家になる。

12代佐竹義人の6代後に「鬼義重」こと18代佐竹義重が出る。

関ケ原の戦いの後、1602年に徳川幕府より、転封(国替え)を命ぜられる。慣れ親しんだ常陸国(茨城県)から出羽久保田(秋田県)にだ。

その原因は義重の息子が石田三成率いる西軍に加わったからだ。よくお取り潰しにならなかったものだ。

そこは義重の機転で何とか切り抜けられた。

その後は義重3男・岩城貞隆の子・義隆が佐竹氏20代(久保田2代)当主になる。

ただ義重、義隆の血筋は24代(久保田6代)義真(よしまさ)で一旦途絶える(26歳没・1753年)。

義真の後を継いだのが、義重の娘婿である権大納言・高倉氏。

25代佐竹義治(よしはる)~29代佐竹義睦(よしちか)までの5代だ。

この間佐竹氏の中心や久保田(秋田)の政治は男系の血筋としては高倉氏に移りはしたが、義重の血筋は佐竹北家や東家等多くの家を作り、一族は増えていた。

1857年に29代義睦が19歳で子無く没し、久保田新田藩主の義尭(よしたか)が30代佐竹氏を継ぐ。父は相馬益胤。しかしその6代前は21代義処(よしずみ)で21代義隆の息子だ。

約100年(1753~1857年)の時を経て18代義重、20代義隆の血筋に一族、久保田藩の政治の中心が戻ることになった。

現代になって秋田県知事の佐竹敬久氏が出る。

敬久氏の母は佐竹北家の出身だが、父は和井内氏だ。父が婿養子の形で佐竹氏に入ったのかもしれない。

佐竹氏の始めは源氏だったが、途中上杉氏に男系の血筋が変わり、高倉氏を経由して、今も政治家として名を現代に留めている。

平安期から現代というこれだけの長い期間を絶やすことなく継続して、政界に居続けられる氏族は珍しくないだろうか?