皆さんこんにちは、Maryです

長尾弘先生の浄心庵ホームページに掲載されていたコンテンツ
文章については、掲載されていた文章をそのままコピペさせて頂きます。
長尾先生と有志の方に感謝いたします。
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~ 道 ~
平成一五年五月号
心を開く
☆「万生万物は広大無辺な大慈悲なり」(先月より続き)
「心行」の中に書かれていることが、実は聖書の中の言葉と一致するのだそうです。 「イスラエルのダビデの子、ソロモンの箴言」として書かれてあります
「知恵有る女は家庭を築きます。無知なる女はそれを自分の手でこわします」
せっかく結構な環境を頂きながら、自分が無知なる故にその家庭を破壊します。
「神を恐れる人は真っ直ぐに歩くことが出来ません。神を侮る者は道を曲げます」
正しく生きる基準が分からなくなるのですね。
「無知なる者の口には放漫の杖、知恵ある人の唇は自分を守ります」
無知なる人、考えの浅い人は己を誇ったり、己を自慢したり、増長慢になったりします 同じ五官を与えられても、その人に知恵があるかないかによって同じ口が放漫の杖になったり、身を守る武器になってくれたりします。
「牛がいなければ」飼葉桶は清潔だが、耕作をもたらすのは牛の力である」
世の中には、自分の気に入らないことや、社会悪だ、間違いだと言うことはいっぱいあります。しかしそういう間違いがあり、汚いものがあってこそ、自分が過ちを犯さず、正しく生きた時に、汚れに染まることのない蓮の花になることが出来ます。あの蓮の葉はいかに泥水をかけようが載せようが絶対に汚れません。
幼い頃、蓮池の蓮の葉っぱでよく遊びましたが、どろどろの水をかけても全部玉になって、傾けるとコロコロと転んで、蓮の葉は少しも汚れません。しかしあの泥に汚れることのない蓮の花は、あの泥が有ってこそ咲くことが出来ます。汚い泥がなかったらあの花は咲かせることは出来ません。それと同じ事で、この世の中に罪を作り、過ちを犯し、悪を積む方が有りますが、そういう方が有ってこそ、私たちはそれに汚れない花を咲かせることが出来ます。
誤った方達を私たちの栄養として、悪に染まらない魂を築くことが大切ですね。
全ての事象は私たちの学びの先生です。そのようにして学んでいきますと、全ては尊い師に変わっていきます。
「忠実な商人は欺かない。欺きの発言をする者は嘘つきの商人である」
人を、友達を欺いてはならない。嘘をつけば必ずばれてきます。ばれるのを繕う為に次の嘘を付かなくてはいけません。またその嘘がばれそうになりますと、それをごまかす次の嘘を考えなくてはなりません。
これはものすごく苦しいことです。私は幼い頃嘘つきでした。この苦しみは体験した者でないと分からないものです。
幼い頃にいやと言うほど体験しまして、「ああ、嘘はつくものではない、とても苦しい」とその恐ろしさをいやというほど知りました。ウソは出来るだけつかないようにしなくてはいけないと悟らせてもらいました。
「不遜で有れば知恵を求めても得られない。」
不遜とは増長慢です。「己が偉い」と思ってしまいますと、もう知恵の実を得ることは出来ません。常に謙虚で、常に人の下であると言うことを知ったら、全ての方は学びのお師匠様です。しかし自分が偉いと思ってしまうと、「お前らのような駄目な者の言うことが聞けるか」と言うことになります。増長慢になったとき、いくら知恵を求めても、もう得ることは出来ません。
「謙虚であれば知恵は容易に得ることが出来る」
謙虚を売り物にしては行けないと注意されますが、私は一円もお金を頂いておりませんから、謙虚は売っておりません。もし報酬を頂戴して「私は未熟者です。至りません」と言いましたら、これは売ったことになります。しかし私は売り物にはしておりません。ですが、謙虚に生きさせて貰うように努力はしております。
世の中に「自分が、自分が」と言える人は一人もなく、大いなる神の目から見ましたら、偉ぶることの出来る人は一人もいないはずです。増長慢は神を冒涜する行為です。全知全能全ての知恵を持たれた神から見ましたら、人間の存在などはいかに未熟なものか、いかに至らないものかが分かります。
「愚か者の前から立ち去るがよい。彼に知識有る唇を認めることは出来ない」
愚か者とは、己が偉いという人です。
「賢き者はその全てを自らに求め、愚かなる者はその全てを他人に求める」
賢き者は何事が起きても、どこに原因があったか、私のどこにこの結果を呼んだ原因を作ったかと、常に自らに求めていきます。愚かな者は他人のせいにします。何が起きても「あの人が悪いから私がこうなった」と、他人のせいにします。しかし過ちがあって、fちょうわが起きて苦しむのは自分自身の筈です。人は苦しみません。自分が苦しんでいるのですから、自分に原因があるはずです。それを徹底して追及すべきですね。
無知なる者は不遜で互いを詰める。正しい人は互いに受け入れる」
魂の苦しみを知るのは自分の心であり、その喜びについても、自分の心の喜びは他人はあずかり知らないことで、喜びは我が心です。喜びを喜びとして「ああ、有難いなあ」と思えば、それは自分自身の心で、他人はあずからないことです。喜びは自分の心にありますから、全ての者は喜びを見つけるように努力すべきです。
「浅はかな者は、無知を修行とし、熟慮ある人は知識をその冠とする」
浅はかな者は知らないが故に自分が偉いと錯覚します。よく考える人は自分の知ってい ることを─── ここは「知識」よりも「知恵」に代えた方がより正しいですね────
つまり自分が知識として得たものを行ったとき、神理を掴む事が出来ると言うことです。その時、何者をも恐れることのない絶対の自信を持つことが出来ます。それは自分が知っているからです。いかなる大学者が理論を持って挑んできても、自分が行って結果が現れたものは、何者も曲げることは出来ません。
「法は実践の中に生命が宿ることを知れ」と「心行」にありますが、つまり良き行いをなすことです。
「大事な友を侮ることは罪である。貧しき人を哀れむことは幸いなり」
友を低く見たり軽蔑したりするのは大罪を犯したことになります。また貧しい人に優しい心を持ち、愛の実践をさせてもらった時、「ああ、よかった」という良い意味での自己満足があります。自分よりも環境の貧しい人、または肉体の貧しい人に、愛の手をさしのべることです。
「弱者を虐げるは造り主を嘲ることになる」
弱い者を虐げることは神を嘲ることになります。造り主とは神様ですね。
「神様を」尊ぶ人は貧しい人を哀れむ」
弱い者をいじめたりすることは神に背く行為です。神様を尊ぶことは自分達よりも恵まれていない人々に愛の手をさしのべることで、それが神を尊ぶことになります。
「神に従う心は思いめぐらして受け答え、神に逆らう口は災いを吐く」
神様と考えて頂いても良いし、神理に逆らう者と理解しても良いですね。神理に逆らうことは何者といえども出来ません。それは神の心だからです。
「神は言われる。盛り上げよ、土を盛り上げて道を整えよ。私の愛し子の民が、道からつまずきとなるものを取り除け」
この道の妨げとなるものを取り払ってあげなさい。そして土を盛り上げて良き道を造ってあげなさい。聖なる所に住み、打ち砕かれて嫌る霊の人と共にあり。嫌る霊の人に命を得させ、打ち砕かれし人に命を持たせる。私はとこしえに攻める者ではないとこしえに怒りを燃やす者でもない。霊が私の前で弱り果てることがないように私の作った命有る者が・・・・・」
神様はいつまでも攻められる者ではありません。ただその過ちに目覚めさえすれば許して下さいます。そして永遠に怒りを燃やされる者ではないのです。それは愛故に燃え上がって下さっています。
「神に逆らう者は、撒き上がる海の如き者で、静まることは出来ない。その水は泥や土を巻き上げる。神に逆らう者に平和はないと、私の神は言われる」
自然に逆らう者は巻き上がる海、つまり竜巻のようで鎮めることは出来ない。その水は泥や土を巻き上げる。自然に逆らう者に平和はないと私の神は言われるというのです。これは聖書の中の言葉らしいですね。少し横道にそれましたが、神理は皆同じ事が説かれています。
長尾 弘先生薯「心行の解説」講演集上より
引用元 http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Tachibana/1180/(閉鎖されています)

~神癒で笑顔咲く毎日を~



4/9(日)東別院会館にて「心と体の癒しの会」を開催させて頂きます。
長尾ヒーリングと心が元気になるお話しで、元気ハツラツになりましょう♬
たくさんのご来場を心よりお待ちしております(*^^*)
