第5章は、監督1年目の菅平合宿から大学選手権までについて書かれています。
合宿も対抗戦も大学選手権も観に行っているので、あのとき相良監督はこんな考えだったのかとか、裏ではこんなことがあったのかと、実際に観ていた記憶と照らし合わせながら読みました
9月対抗戦初戦後のインタビューでNO8丸尾選手が「こぼれ球はすべて早稲田が支配する」と言ったそうで、監督が根づかせたかった早稲田スタンダートが選手たちに浸透しているました。言葉だけでなく、実際にプレーで体現していたと思います
帝京大戦は、当時10連覇を狙うチームと9年間優勝できていないチームの「勝利への執念の差」が前半の得点(0-28)になったと相良監督は振り返っています。
帝京大戦でやられたディフェンスを20日間で立て直して、早慶戦は21-14で勝利早慶戦の2日後に「創部100周年記念式典」があって、かなりプレッシャーのかかった試合だったそうです。
「早稲田と慶應は永遠のライバル」。
そして、早明戦はまたひと味違うそうです。
2008年度、明治大学の主将を務めたLO/NO8杉本晃一選手の言葉「大学選手権に出られなくても、早明戦では勝ちたい」。この言葉が早明の人間の気持ちをよく表していると相良監督はおっしゃっています。
2008年度・・・確かに。明治大学はこの年大学選手権出場を逃して、4年生最後の試合となる早明戦、それまで対抗戦全勝の早稲田に勝利今でも覚えています。
大学選手権では、準々決勝で早慶戦、年を越して準決勝で早明戦というタフが対戦となりました。しかも5年ぶりの4強で、4年生以下誰もが年越しを経験していませんでした。
明治には負けてしまいましたが、この経験が翌年の優勝に繋がっているんですね
第6章では、相良監督の原点というか、ラグビーとの出会いについて書かれています。
「南海夫」さんという名前は、伯父さんがつけてださったそうで、相良監督の母方のおじいさまが太平洋戦争に出征し南の島で散華されたと。そのおじいさまの生まれ変わりという思いが込められているそうです
お名前にどんな意味があるのかなぁとずっと思っていたので、由緒を知ることができて、しかもとっても素敵な深い意味があったとわかって感動しました。
慶應中学受験に落ちた相良少年は、公立中学から慶應高校を受験して合格しますが、補欠合格した早稲田大学高等学院に入学を決めます。
私は、相良少年が慶應ではなく早大学院を選んでくださって本当に良かった、と思いました「早稲田と慶應は永遠のライバル」ですから。
このときの選択が今に繋がっています
名付け親の伯父さんが桐蔭学園ラグビー部の立ち上げに加わった方だったそうで、高校からラグビーを始めました
中学でバレー部だった身体能力を買われてFL・NO8、さらに小学生の頃サッカーをやっていたので3年生のときはキッカーも務めていたそうです。
高校3年間、腕立て、腹筋、背筋、スクワットを200回ずつなど自重系トレーニングを毎日行っていたそうで、なんてコツコツ努力する方なんでしょう
最上級生になったとき監督にキャプテンになるように言われて、すぐに断ったというエピソードは笑ってしまいました結局副将としてうるさい嫌われ役にまわったそうです。
相良監督は、高校時代に大西鐵之祐先生に出会います。
日本代表も務められ、長く早稲田大学ラグビー部を指導し早稲田ラグビーの礎を築いた方です。
大西先生の教えや信念を今でも参考にされているそうです
「成し遂げられると信じて『本気で』目標に向かい努力を重ねる」
「勝負どころに挑む気構え」
「信は力なり」
「小さければ2人で止めに行け。相手の倍走れ」
「ラグビーを通じて人間的に成長し、ナショナルリーダーにならなければならない」
「フェアプレー精神」
「勝つために何をすべきかを考えこうどうする」
私は実際に大西先生とはお会いしたことはありませんが、いろんな本や記事で大西先生について読むたびに、その魅力に魅かれ、ぜひお会いしたかった、大西先生がお元気なころからラグビーを観ていたら、と後悔しています
相良監督もかつての恩師と同じように進むべき道を信じ切るから、学生たちも、迷うことなく階段を上り続けてほしい。そういった空気を4年生がチーム内に発信していくようになったら、不可能も可能になる。カッコイイです