第3回収支報告書
反省会も終了し、やっとみなさんに報告できるようになりました
こちらでは簡単なものを文章にて掲載しますが、オフィシャルHPにて詳しい内容のものを昨年同様高度な技術でUPしますので、ご覧いただければと思います

[札幌チャリティーロックフェスティバル収支報告]
日程:2013.3.17
料金:¥1500-(内訳:¥1000支援金/¥40ノベルティー原価/¥460イベント製作費)
●収支内訳
入金:(チケット経費分協賛金・グッツ原価売り上げ分)¥250,139-
支出:(宣伝広告費・グッツ製作費・イベント製作費)¥188,084-
残金:¥62,055-(次回繰越金)
●支援金内訳
募金箱¥111,187-
グッツ売り上げ¥10,652-
チケット売り上げ¥223,000-
特産物売り上げ¥6,160-
コロナ協賛分売上¥60,000-
ドリンク売り上げ¥53,074-
合計:¥464073-
以上、収支報告でした。
さらに早速、赤十字に義援金として¥100,000-寄付してきました
今年の募金は各方面への寄付を中心に行っていきます。
近々こちらのみちのく会にも行く予定です!
http://michinokukai.info/
毎回こちらとHPの支援についてで報告していきますので、よろしくお願いします

簑島和憲さんのスライド&トーク2
陸前高田市に、僕が初めて行ったのは、震災が起きてから約1年後の冬です。
まだまだこの様な状況なので、言葉を失うばかりでした。
見渡す限りの瓦礫の山と、地盤が沈下し海に半分まで沈んだ球場や、塩水で錆びつき原型がわからない程潰れた車が数えきれない程多くありました。
残った鉄筋の建物と粉々になった大量のガラス片が土に埋まった平地に 瓦礫を選別する重機の音だけが響き、本当に寂しく重苦しい景色で胸が詰まりました。
自分が札幌を経つ時と決めた時、被災地で少しでも役に立てる事があればと思い、高田市へ行き来ましたが、想像を絶する状況を前に、正直な気持ち自分にいったい何が出来るのだろうと思い悩みました。
あの当時、自分がまずやらなければと思ったのは、被災者の方の声を聞き、自分に出来る事、役に立てる事を探すという事でした。
地元の方々にお話しを伺い、現地で知り得た事は、瓦礫の処理が、まだまだ追いついていない事、多くの職場が無くなり、働きたくても働けず収入が得られない事、現在被災された方々が暮らしている仮設の住宅の事などです。
その中で、僕にとって一番印象深かったのは、高台のグラウンドや学校の校庭に建てられた仮設住宅のお話しで、急を要して建てられた為、子供が外で運動する場所は全て無くなってしまったというお話しでした。
僕が行ったばかりの頃は、子供達が楽しく遊ぶ事もためらい、笑顔も少なく、波の音を聞けば怖がって泣いてしまう子供もいました。
その様な状況でしたが、子供達に元気に運動して貰いたいと、地元企業の社長が、自ら土地を確保し、真っ黒に日焼けしながら畑をグラウンドに作り変えました。
子供達は久しぶりに見る広いグラウンドで、大喜びでスポーツを楽しんだそうです。
このお話しを伺い、僕も子供達の笑顔や地元に元気を取り戻してあげたいと強く感じていた時に、地元のお祭りの準備に誘われ、参加させて頂きました。
陸前高田市で一番賑わうお祭りは『動く七夕』です。
この『動く七夕』は毎年8月7日に開催されます。その日は、初めてお盆を迎える方の新盆にあたる為、鎮魂の意味も込められた歴史のあるお祭りです。
地域ごとに飾りつけられた山車を作り、日中は大人と子供が一緒に山車を引き
夜は高田町の中心部に全ての山車が集まり、太鼓の音と共に皆で賑わうお祭りです。
しかし昨年のお祭りで、この山車が集まる場所になったのは、津波の被害が一番大きく、沢山の方がお亡くなりになられた所でもありましたので、地元の方々は好んで行きたくない場所でした。しかしそのような所にも関わらず、沢山の方々が集まってくれました。
僕の陸前高田市に住む友人や、知り合いの方々もお祭りの復活を喜び、「ミノさーん!来たよー!」と、嬉しそうに声をかけてくれました。
それぞれの思いや祈りが込められた力強い太鼓の音を聞き、初めて参加したお祭りでしたが、僕の方が胸が熱くなりました。
それから、8月11日ライトアップニッポンというイベントにも参加しました。
震災後、東北沿岸部で一斉に花火を上げ、追悼と鎮魂、多くの被災者に上を向いて歩いて欲しいという願いを込めて、東京で企画されたイベントです。
被災地では、花火を打ち上げる事が難しく、場所の確保、避難経路の確保など、様々な問題がありました。
実際、陸前高田市では、2011年は行方不明になっている方々の数や、瓦礫の量が多く、花火を打ち上げる事が出来ませんでした。
2012年も、震災当初よりは瓦礫は少なくなったとはいえ、まだまだ危険な可能性のある物が瓦礫の中に含まれており、安全面の確保が難しく、開催に至るまで本当に大変でした。
高田市の会場では花火を見るだけではなく、皆さんが心から楽しんでもらえる夏祭りの様なイベントにしたいと話し合い、ビアガーデンと子供縁日の2会場を作りました。当日、多くの人々が集まり、縁日で はしゃぐ子供達、ビアガーデンを楽しむ大人達がおりました。
そして花火が打ち上がった瞬間、空を見ながら 亡くなった方々の魂が天に届きます様にと祈りながら多くの人々が涙を流しました。そこには涙だけではなく、沢山の笑顔も溢れていました。花火が終わった後も 空を見つめ、中々帰ろうとしない人々を見て、
このイベントに関わる事が出来た事、あんなに楽しそうな笑顔を見れた事を本当に嬉しく思いました。
震災から2年、皆さんの心温かいご支援が今、被災地の笑顔と、前に進む力を生んでいます。
今被災地は、復旧から復興へ向かっています。
これからも、多くの問題と闘わなくてはなりません。
皆さんのご協力を頂きたいのが現実です。
どうぞ、これからも皆さんの温かいお気持ちを、宜しくお願い致します。
簑島和憲さんのスライド&トーク1
おかげさまで無事終了することができました。
ライブは生ものとはいえ、トラブル続きでカズさんのスライドをきちんとみなさんにお届けすることができませんでした。申し訳ありません。
現地の方々も原稿製作の為に尽力いただいたということで、私個人的にもどうしても心残りでしたので、素材を頂いて、こちらで紹介させて頂きます。
お久しぶりです。
現在EN project Japanの現地スタッフとして、岩手県陸前高田市で活動させて頂いている蓑島和憲です。
被災地で僕が感じた事、実際に伺ったお話しを写真と共にお伝えできればと思います。
2011年3月11日、関東・東北でマグニチュード9、震度6強という巨大な地震が起きました。
強い揺れと共に道路が波打ち、立つ事すらままならない状況でした。
陸前高田市の殆んどの人は、日頃より地震=津波が来るという認識があり、避難への動きは迅速でした。
しかし、避難しなければならないという思いとは
裏腹に、まだ学校に居る子供が心配な母親、一人で自宅にいる祖父母や、海で仕事している父親を心配する家族、そんな個々の思いが一斉に動き出し、町は一気にパニックになりました。
駅前通りでは、交通渋滞が起き、車で逃げるのを諦め走って逃げた人、走っている車にはねられてしまった人を見た人もいたほどでした。
地震発生から約30分後の事です。焦りと恐怖で町全体が覆われていたその時、海の近くに居た人は、今までに見た事が無いほど、海が静かに引きはじめ、遠くの海底まで見えるほどの水の引き方に更に恐怖を感じました。
3時10分・・・津波が来ました。
岩手の沿岸部では53年前にチリ地震津波を経験していたので、多くの年配の方は大きな津波が来ても、高さ3メートルくらいかな?と、思っていました。
しかし、その津波は誰もが想像した事もないくらい遥かに巨大で、海底のヘドロを巻き上げ黒い壁となりながら、一気に町へ押し寄せました。
僕は、津波は海からだけ来るものだと思っていましたが、高田町では、海からの津波だけではなく、川から上った波も重なり、勢いを増し、内陸奥地にまで甚大な被害を与えました。
ビルの5階と同じ高さから写した写真です。
奥に波が来はじめているのが、おわかりになりますでしょうか?
その1・2分後の写真がこちらです。
13メートルを超える高さの波が、もの凄い勢いで押し寄せました。
解りやすい画像がこちらです。
このマンション窓は、海側に向いており、手前には7万本の松が防潮林になっていました。
波は、高さ約8メートルの幹を越えた瞬間、5階建てマンションを襲い、勢いが留まる事なくそのまま奥へ一気に流れて行きました。
ここで、改めて震災前の陸前高田市の画像をご覧ください。
陸前高田市の総面積は、232Km2で、そのうち7割の162Km2が被害を受けました。距離にすると30キロ以上になり、北海道で例えると札幌駅から小樽の港迄とほぼ同じ距離になります。
死者行方不明者1844人。
震災前の陸前高田市の人口からすると、3人に1人が亡くなった事になります。
岩手県の沿岸部は、チリ地震津波で被害を受けた場所です。
その経験を元に、陸前高田市には避難所が多くあり、市民会館・総合体育館などに多くの方々が避難しました。
しかし、その避難所は海から近く、平地にあった為、巨大な津波にまるまる飲み込まれてしまい、避難していた方約200人の内の、約9割の方が亡くなってしまったそうです。
震災時、僕は自分の店を営業していたのですが、テレビを付けた瞬間「何だよこれ?現実なのか?」と言葉を失いました。
絶望的な思いは被災地ではより強く、今見ている現実が夢であって欲しいと願ったそうです。しかし、その願いも虚しく夜明けと共に見た町は、住んでいた時がどうだったかわからないくらい悲惨な光景でした。
泥だらけに濡れた体が温まる間もなく、その日から過酷な避難生活が始まりました。
当初は水も食べ物もままならず、1つのおにぎりを数人で分けて食べなければならなかったそうです。
ブルーシートの上で災害用の薄い毛布にくるまり身を寄せ合い、幼い子供のいる母親は、泣き声に気をつかい、何日も安否がわからず家族、知人を探し、避難所から避難所を巡り、歩き続ける…皆、心に不安を抱えながらの辛い日々を過ごしました。
避難生活は長く続いておりましたが、それぞれ今出来る事を考え、役割を果たそうと一人一人が立ち上がり始めました。
男性は、行方不明者の捜索と、道路を整備する為に動き、女性は、当番でご飯を作ったり、避難所の掃除をしたり、子供達は、大人のストレスを和らげるため、肩揉みをしたり、
それぞれの出来る事を少しずつやっていこうと決めました。
しかし前向きな気持ちになっていた男性達でも、行方不明者の捜索は、気が狂いそうな日々だったと言うお話しを聞きました。
重機で瓦礫を少し動かすと、その下に亡くなった方が居る、ご遺体を動かし、また重機を少し動かすと亡くなった方がまたそこに居る、というような状態が永遠に続いたそうです。
















