昨今では、『障碍者施設襲撃事件』により障碍者との共生について話題になっています。
障碍者排除の考えかたについて倫理に反するという意見も多い中、共感した人も少なくはないようです。いくつかの議題を提起し、なるべく論理的に考えていきたいと思います。お付き合いいただければ幸いです。

 

障碍は欠損か?

 

「障碍者」の言葉は一般的には体の一部に正常に機能しないところがある人、と定義づけされている。
この一文だけみれば障害=欠損という認識が出来る。しかし、意見として、「では健常者には異常なところはないのか?」とも言われている。
障碍者の対義語は健常者になるが、正反対という認識ではなく、世の中の人間はどちらに近しいかで判断されているといえば定義に含まれる差別感も薄れるのではないか。
障碍者手帳にも級が存在するように、体の中で欠損があったとしてもそれが少しであるか、それとも圧倒的であるかを判断したときに圧倒的だったばあい、便宜上障碍者と
ひとくくりにしているのだとわたしは考える。
欠損か?という今回の議題に対してわたしはそうだと答えたい。世の中で福祉が存在し、障碍者が身体の不自由に伴い、またはそれを埋め合わせるようなかたちで
金銭やその他の待遇を受けている限りこの認識が崩れることはないといえよう。

しかしながら、今でいう障碍者が障碍者と認識されなくなる時代が来ると私は考えている。
たとえば狩猟を主とする大昔の人間にとって、遠視は日常生活のうえで致命的だったといえるし、これは今でいう障碍というくくりになるのではないか。
だが、現在にそれが障碍とみなされない理由はメガネやコンタクトレンズの普及により日常生活の困難が軽減されたうえ、見た目では大差なく、しかも遠視患者の頻出に
より、それがマイノリティではないと認識されているからだとおもう。
遠視患者の頻出のように障碍者が頻出するとは考え難いが、現実的に考えれば医療技術やその他の科学発展により障碍が薬で軽減され支障をきたさなくなったり、障碍が
表面化しなくなれば、健常者と障碍者の隔たりは全くなくなる。
(ハゲやブスが表面化しているにもかかわらず障碍者というくくりにされない理由はマイノリティではないという部分に起因している)

 

障碍者と判明したばあいの中絶は優生学思想として非難されるべきか?

 

妊娠中の羊水検査により、こどもに障碍が発覚したばあいの中絶の申し出は10割だそうだ。これを「ヒトラーのような優生学思想であり、非難されるべきだ。」と
いうひとが存在する。
優生学思想とは「障碍の有無や人種等を基準に人の優劣を定め、優秀な者にのみ存在価値を認める思想」と定義されている。
なによりもまず記しておきたいのは「障碍」と「障碍者」は別のものであるという点だ。障碍者についての考えは多種多様であろうが、障碍を好むひとはまずいないと
おもう。それを踏まえて考えれば、「わが子が健康で生まれてきてほしい。(障碍をもたずに生まれてほしい)」という母親の気持ちは至極当たり前なことだとは
思わないであろうか。
世の中には殺人という罪が存在する。「なぜ人を殺してはいけないのか」。この答えも多種多様で様々な意見があるが、わたしは「共同社会の成員が相互に共存を
図るため」こそ真理だと考える。情緒的な問題を介入させずに答えられている一例だ。この真理を中絶という行為によって揺るがしていないがゆえに、中絶は殺人と
(少なくとも日本では)称されない。
優生学的な思想はだれしも無意識的な部分で持ち合わせていることが先ほどの文章で理解していただけたとおもう。
そしてヒトラーは公的にではあっても「共同社会の成員が相互に共存を図るために必要なもの」を揺るがしたために非難の対象にはなりうる。以上のことをふまえて、この中絶という行為は優生学的な思想だといえるが、非難されるべきではない。

 

障碍者を排除するという意見

 

日本国憲法において生まれてきた人間の権利は保障されている。平たく言えば、だれも他人のいのちを奪う権利をもっていないということだ。
そのため、障碍者を排除するという意見が公的に認められる瞬間というのは憲法がさまざまな議論を通り抜け、国民投票により改正されたばあいだ。
この意見は現時点ではマイノリティであるから、あり得ないが一応書いておこう。
意見の持ち主には「自分もいつ排除の対象になるかわからない」という想像力が欠如している。一概には言えないが、交通事故によって障碍者という位置づけになったとき
フランツ・カフカの「変身」のように他人に伝わらないにしろ、以前と同じように自分の意志を持ち合わせているのにもかかわらず強制的に排除の対象となったら、
それでも「仕方ない、社会のためだ」と諦められるのであろうか?それならアッパレだが、そう考えられる人間は多くはない。

 


障碍者にたいする意識

 

24時間テレビで同情心を基礎とした障碍者にたいする異常なまでの称揚が存在する。これは両者の境界線を強くし、むしろ差別的思想を強化することにつながるのではないか?逆境を乗り越えるようとする意識は人間だれしも潜在的に持ち合わせている能力であって、24時間テレビの人々はたまたま障碍という公的に認められた表面的な苦悩だったために取り上げられているに過ぎない。
ただし、批判しているのではない。24時間テレビはある面ではとてもよく機能している。実体験を持ち出させていただきたい。
わたしは小学四年生から六年生までの間、とある知的障碍者の男の子と同じクラスだった。奇声はないが、授業中に席をたって逃げ出してしまったり、学校にくるのもまち
まちで、意思の疎通もほぼ出来ないという状態だった。共通性の了解を基盤とする人間の組織においては彼は異質であるし、たとえば全く知らない時代に彼が電車でとなり
にいたら、表面にはださないものの少しの不安を覚えるとおもう。しかし、はじめは困惑があったものの次第に慣れていき、障碍をほとんど気にすることなく過ごせるように
なった。わたしは小学六年生の時彼と組体操の班で同じになったことがあり、練習も困難を極めたが、そこにはある程度の時間を共にしたという意識が芽生え、不安もなく
、義務感なしに彼にためにできる行動が増えた。
要するに健常者と障碍者の心的な隔たりを少なくしていくためには、知的障碍者も精神障碍者も身体障碍者も、差異はあるにしろ、「障碍者基本法」などという規定を帯びた取り決めではなく、時間を共にする「ふれあい」や「慣れ」なのだ。

 

障碍者にたいする差別


この言葉をきいて、わたしはあまりピンと来なかった。安直に思い浮かぶことと言えば、直接的な罵倒や侮辱だが、それは障碍者相手でなくとも、倫理観に反しているし、そういうことをする人たちが社会性が備わっているとは思えないうえ、議論にも値しない。
https://www.pref.nagasaki.jp/shared/uploads/2013/07/1374636618.pdf このサイトには障碍者やその保護者が感じた差別を集約してある。
このサイトをみてみると、どうしても「差別」にたいする障碍者自身の過敏なまでの神経が
健常者との集団生活において困難を示しているのではないかという気がしてならない。いくつか抜粋していこう。

 

「通所の場で障碍のある人の声が大きいということで近所から苦情があった。そのとき「こういう人たちの作業場はこんな街中ではなくもっと遠い広いところにつくる
べきだ」といわれた」

 

障碍者においても、健常者においても、「他人に迷惑をかけない」という理念は必要最低限の条件である。「こういうひとたちの作業場は~」と発言したものはなかなか
安直な妥協を提案したな、とは感じるものの障碍者を殺せといっているのではない。ここで講じるべきなのは「これは差別だ!」と声高に叫ぶことではなく、どちらも快適にすすむような策だ。例をいうと、作業場ということだから音が漏れないような施設へと変えるべきだし、最大限の配慮は必要である。

 

「病院でおもい知的障碍児だから「待つ」という意味がわからないので順番を早めてください、と頼んだが医師から「どの子も平等に扱っています」と言われ、子どもが待ち時間の長さにパニックを起こし、何回か診察できずに帰った」

 

これについてはわたしは保護者の思考回路が愚かだと批判させていただきたい。病院には公的な障碍ではなくても困難を抱える人々がおなじように
救済をもとめてやってきているという条件はおなじである。それなのに「順番を早めろ」という願望はかなり傲慢だ。病院はかなり障碍に理解があるし(当たり前だが)、時間を厳密に決める予約も事前に事情を言えば可能だと考えられる。少なくとも県にひとつはそういった病院が存在すると考えるのは容易だ。

 

「地域の小学校へ入学することが決まった後、希望していた解除の先生が確保できるかわからないから覚悟しておいてくださいといわれ、不安でいっぱいになり嫌だった」

 

もうこれに関してはただの愚痴であって、差別が全く関係ない。

 

サイトを見れば、恣意的な行動によって不利益を被った事例も多く存在する。それは勿論改善していかなければいけないもんだいだが、ひとつとして障碍者やその保護者達の過剰な被害意識も考え物である。

 

 


ここまでいくつかの議題に沿って考えてきましたが、加筆・修正が加えられることもあるかと思います。
また、内容にたいする疑問点や反論などはメッセージまでお願いいたします。お返事は時間がかかっても必ず致します。(ツイッターのリプライでもかまいません)
ありがとうございました。

 

 

 

明菜