9月の2回目の三連休に行われていた、石上神宮の特別参拝に参加させていただいたので、そのご報告を。

訪れたのは、ちょうど秋分の日でした。

大雨で天気が悪かったので、前後の日よりも人が少なかった。

 

 

 

石上神宮といえば、私にとっては中臣氏の末裔のおっさんに「令和の紫式部」に任命された場所www

ご縁を感じます。

 

 

 

神武の東征の時、神武一行が熊野で邪神の毒気に侵されたが、高天原の天照大神から降ろされたとされる神剣で窮地が救われました。
神武はのちにこの神剣を、物部氏のウマシマジに宮中で祀らせました。
石上神宮の境内に埋められたのは、崇神天皇の時代。
物部氏のイカガシコオノミコトにより、石上神宮の今の禁足地の中に埋められて祀られました。
以来そこは禁足地で、限られた神職しか入ることが許されなかったのですが、禁が破られるのが明治時代。
明治6年に行われた発掘調査によって、伝説の剣が実在していたことが証明されました。
神剣が発掘された明治6年以来、150年ぶりの禁足地(の周り)の入場の解禁と相成りました。
 
実際、禁足地の中に入ったわけではないです。
普段は解放されていない石垣の外から、禁足地の中を拝観する、といった形式でした。
当然写真はNG。
ですが「150年ぶりに神職以外の人が入っている」という機会に恵まれたのは、やはり貴重です!
石上神宮の境内は、石垣で覆われていて、周りは森に囲まれています。
こちらの記事に写真が載ってました。
雰囲気は感じていただけるのではと。
今は立派な本殿ですが、
 
 
大正時代はもっと小さかった。
 
 
西洋の歴史に対抗するために、神武の東征は紀元前660年とされています。
神武東征の時の剣が埋まってた話をガイドの人から聞いて、神武はやはり紀元後の人なのではないかと思いました。
「神武=崇神」なのではないかという説を唱える人もいますが、あながち間違ってはいない印象でした。
 
 
明治時代は廃仏毀釈を始め、西洋的な考えから日本古来の神仏が否定された時代。
西洋の科学思想が入ってきた影響と思われますが、神仏への畏怖が薄れ始めたので、秘仏や禁足地の調査ができた。
法隆寺の救世観音が、フェノロサによって明らかにされたのは明治17年。

 

 

上の記事にもありますが、神仏に対する畏怖を日本人自ら捨ててしまって、思ったよりも過激な廃仏毀釈になってしまった。

 

 

反面、過激すぎた廃仏毀釈は、キリスト教布教側には脅威に写っていた。

あれだけ長く信仰していた仏像、仏画は、日本人自らの手で過激に破壊されました。

それにびっくりした明治政府は、明治9年に仏教復興に舵を切ります。

それに肝を冷やしたのは、政府や仏教関係者だけでなく、日本を狙っていた覇道一神教勢力も同じであったのではないか、と落合先生は推察。

今だにキリスト教徒の割合が低い日本ですが、背景には過激な廃仏毀釈があったことが影響している。
 
 
最近はどこの神社に行っても、御朱印やお守りが大変凝っています。
今回の特別御朱印はシンプル。
 
 
右の二つは、今回の特別なお守りたち。
 
 
毎回お守りを授与してくるのが、本当に楽しみ。
 
 
石上神宮の次は、一緒に行った友人のリクエストで大神神社へ。
その前にまず、三輪そうめん。
冷やし三輪そうめんを食べるのは初めてだったのですが、冷えていた方がコシがあって、断然美味しい!
食べ始めた後に写真をとっていなかったことに気づき、写真を撮ったので、ちょっとアレな写真ですがw
 
 
 
特にいつもの大神神社だったので、神社での写真はなしです。
毎回楽しみなのが、三輪駅の前にある大西酒造のアンテナショップに立ち寄って、季節のお酒をいただくこと。
ここのために1時間弱時間を確保(笑)。
三輪山のヤマユリの酵母で作るこのお酒がいちばんのお気に入り!
 
 
 
この後は、JR奈良駅に移動したのですが、奈良駅の駅ビルのお店をゆっくりと見たのは初めて。
再開発でガラリと雰囲気の変わったJR奈良駅。
昔はなかった高層マンションが、駅の周りに立ち並んでいました。
その資金の出所は、やはり英国勢を中心とした国際金融資本なのかも。。。
 
奈良は御所市周辺の酒造さんが中心になって、菩提酛づくりを復活させてから、日本酒が活気付いた地域です。
駅のアンテナショップにも、びっくりするくらいの種類がありました。
 
法隆寺のアヤメの花の酵母から作られたお酒。
 
 
なんとヤタガラスの日本酒までw
 
 
 
天理駅の前にモンベルショップができていたりと、何かと新しい発見のあった奈良旅でした。
今回もいい旅でした!