前回の記事はこちら。
こちらの本を元に話します。
この本に挙げられている、藤原氏が行った悪行のほんの一部を挙げてみましょう。
年代は順不同です。
1. 760年に編纂された藤原系の書『大織冠伝』には、668年に中臣鎌足が近江令を完成させたとなっているが、720年位編纂された『日本書紀』にその件は記載されていない。
2. 『古語拾遺』によれば、中臣と同じ祭祀を司る一族だった斎部氏が中臣に対して憤慨。中臣氏は神道を私物化し、斎部氏を祭祀の立場から追い出した。
(藤原姓を賜ったのち、祭祀に関わる藤原系は中臣の旧姓を名乗るようになる。)
中臣の前は、物部氏が神道祭祀を取り仕切っていたのですが、斎部氏を含め失墜させて、神道祭祀を独占したのです。
4. 藤原の血が入っていない宇多天皇。彼に重用された菅原道真を失脚させ、左遷し、憤死させて祟り神にしてしまう。
左遷後、道真が独自にまとめあげていた改革手法を横取り。藤原時平はそれを自分の手柄と偽る。
藤原氏が滅亡させた一族、暗殺した人たちとなると、キリがない。
長屋王、蘇我入鹿、蘇我蝦夷、古人大兄皇子、蘇我倉山田石川麻呂(遺体を切り刻まれている。その娘は発狂してなくなる。)、など。
藤原氏といえば、鎌足の出自も謎なのですが、不比等も謎なのです。
持統天皇とセットで歴史に登場。鎌足の時と同じです。
そして持統天皇が作った都が「藤原」京。
不比等と持統の蜜月ぶりを読むと、二人は男女の関係だったのではと思います。
この記事を書いた方も、中臣(藤原)氏の出自は日本人(弥生、縄文系)ではないと結論づけていますね。
私も同感です。
藤原氏の歴史を学んで感じるのは、「嘘、捏造、裏切り、謀略、誅殺、暗殺、一族滅亡」等々。
藤原氏は日本人を憎んでいたのでは、とすら思えるのです。
と述べてます。
TOLAND VLOGさん的藤原不比等。
では中臣鎌足と組んで蘇我入鹿をころし、鎌足に藤原姓を与えた中大兄皇子、後の天智天皇とは何者だったのか?
この本を読むと、天智はとんでもない悪党だったようで。
入鹿暗殺後、すぐに即位するのかと思いきや、人格が酷いために人気がなさすぎて、即位したくても出来なかったようですwww
恨みをかっていたからか、何度も自宅に火をつけられている。
無理筋すぎる百済救済、白村江の戦いを決行したのも彼。
実際、日本を滅ぼしかけています(なぜ古代の皇統は、そこまでして百済にこだわるのでしょうか???)。
実はこの天智天皇、天武天皇、持統天皇に関しては、あまり深掘りされたくない勢力が国内にいるそうで。
大昔からこの時代の歴史の真実が葬り去られていることをみると、よほど後ろめたく、自分たちの権威の失墜の原因となってしまうからなのでしょう。
関氏の書は、この三名に関しても深掘りしてます。
端的に言うと、二人は異父兄弟だったと。母は、乙巳の変の時の皇極天皇(重祚してのちに斉明天皇)。
天武には蘇我氏皇族(縄文)の血が流れていた。
持統は天智天皇の娘。
持統の即位の経緯も、本来継ぐべき皇子がころされてしまって、という怪しい流れ。
この時期は天皇が変わるたびに都を移しています。
ちなみに皇族の霊を祀る寺は、京都の泉涌寺ですが、天智天皇からを祀っていますが、天武天皇は祀られていないのです。
これが何を意味するのかは、分かったのですが、ここでは書けないですね。。。
TOLAND VLOGさん的大化の改新考察。
さらに言うならば、雄略天皇から継体天皇までの間。
こちらも怪しい。
雄略天皇は問題が多すぎる天皇だったようで、当時の評価は「はなはだ悪しくまします天皇なり」。
性格にかなりの異常性があった雄略。
そして渡来系とだけ仲良しだった雄略天皇。日本の豪族には血の粛清、百済からの渡来系を優遇。
もしかして大陸から渡ってきた人が天皇となった?
雄略天皇は強い王を目指していたようで、当時ヤマト最大の豪族の葛城氏を武力で打ち倒している。
これに関する物語は、葛城一言主神社の由来にもなっている。
ってうか、雄略が出会った大神=葛城氏じゃね???っていう。
葛城の地には「土蜘蛛」に関する塚が多いのですが、平定されてしまった出雲族=葛城氏なのでしょうか?
葛城の地は同時に賀茂氏発祥の地でもあり。
不思議な賀茂氏。やはり縄文が強い出雲系に感じられます。
藤原氏が権力を握っていた平安時代の庶民の苦しみが、令和の私たち庶民に被るので、そのまま引用します。
「「藤原」がいったん権力を握れば、逆らう者は陰謀にはめて抹殺し、言うことを聞かなければ、皇族といえども容赦なく葬り去った。
(中略)日本中の土地をわがものにし、「もはや錐(きり)を差し込む土地もなくなった」と批判されるほどであった。
この間、民衆は、高い税と度重なる労役や兵役にあえぎ、漂白(浮浪・逃亡)するものはあとをたたず、困窮と飢餓に苦しんでいたのである。
それが、優雅なイメージで語られる「藤原の世=平安時代」の実態である。」
現在の、世も末感漂う重税を連想させてくれます。。。
最後に中臣鎌足が「藤原」の姓を天智天皇に賜った時に、紀氏が詠んだ和歌を紹介します。
「藤かかりぬる木は、かれぬるものなり。いまぞ紀氏はうせなんずる」
藤の蔓がとりついた木は、枯れてしまうものだ。ならば、紀氏は衰亡するだろう。
未だ影で君臨しているであろう藤原氏。
日本全体を、日本人を、滅ぼし尽くさぬよう切に願います。
藤はツル性の植物。
巻きつく本体がなかったら、藤自体も存続できませんから。
『Q』に続く。