「スピリチュアルを学んで仕事にしたい」という人がいたとする。

口ではたいそうなことを言っていたとしても、根っこのところは俗っぽい理由であることも多い。

テレビに出て人気者になりたい、人からすごいと称賛されたい、実生活で満たされないものの埋め合わせとして学びたがる。

きっかけは人それぞれなので否定はしないが、宇宙の理(ことわり)に向き合うことが直接に収入に結びつくことの方が本来は少ない。

今の生活がいかに虚像であり、全体性から見れば同じところをグルグルと回っている惑星のような愚かさに深い意味で気づけば大いに叩きのめされるだろう。

気づきを得ないための逃避が実生活での目標やささやかな幸せと言われるものである。

腹を満たし表面的に楽しみ、いくばくかの社会的地位を得て満足するのは、宇宙の理からすれば世俗的な自慰行為に過ぎない。

運命の輪からの脱出を模索するなら、今ある生活に別れを告げ、神聖な身体の器以外に何も持たない仙人か夢の中に住む廃人となる可能性も秘めている。

割り切ってスピリチュアルをショービジネス化し、テレビでわざわざ他人の人生に介入しつべこべ言っている輩はある意味俗世の権化なわけで、尊敬の対象どころか個人的にはああはなりたくないと感じる。

収入を得るためのサービス提供となれば、必ず世俗化が必要で、にわかの浅知恵すらさらに細分化し定型化したインパクトを求めるものに成り下がる。

大衆向けの物質製品ならともかく、精神性を細かく切り刻みパッケージ化するのは愚の骨頂。

コンプレックスから来る虚栄心や現世御利益、深淵な叡智を垣間見る機会よりもただ有名になりたいといったあさましい動機による上っ面の学びは純真な好奇心や知性とは程遠く、それを煽る商業主義には正直反吐が出る。