軍票の話1・ルピーと円の公式レートと実勢レート | 誰かの妄想

軍票の話1・ルピーと円の公式レートと実勢レート

何だか・・・。


http://ianhu.g.hatena.ne.jp/kmiura/20070518#c
ni0615さんに対するlunakkoさんのコメント。


「>軍票(ルピー)が、「円と等価である建前」と、300倍(45年)も違う「大きな較差の実勢」という「2つの交換基準」をダブルスタンダードだといってるのです。
ですから、この考えにいたった資料をくださいといっているのですよ。あなたの考えや、ネットに落ちている証拠の
ないブログはいりません。」


まず、重要な点として、太平洋戦争当時、日本国内に流通している円を南方占領地に持っていくこと・南方から日本に現地通貨を持ち帰ることは厳しく制限されていました。
このことは、1942年2月18日の読売新聞「大東亜経済建設の指標」という記事の

「本邦業者にせよ在来企業家にせよ差当り資金を必要とする時にはすべて南方開発金庫より軍票を借受けるのであって、たとえ三井財閥であっても内地より円資金を現地に持込むことは許されないこの反面現地で或程度の資金が集積してもこれを内地に送金出来ないのであって、現地で得た利潤は現地開発に当てねばならない、」
と言う記載から、少なくと占領当初において制限されていたことは間違いないでしょう。


次の記事
「新聞記事文庫 産業(8-163)

東京新聞 1943.8.4-1943.8.6(昭和18)共栄圏建設の方向と現状 (上・中・下)
通貨問題
南方各占領地の各使用通貨は軍票であるが在来通貨も之が使用を許し今は二本建の通貨制度が行われている、しかし
両者の価値関係等価の政策を採り、この関係は南方において円滑に行っている、勿論現地における軍票は所により在来通貨以上に現地住民の信頼を見、円滑な流通を見ているのであるが、在来通貨も軍票に対する価値低下を防止しているので両者の順調な流用は今後とも持続するであろうしこの現象は通貨工作上注目すべきものである 現在の通貨流通量は戦前通貨流通量と大差なき状態にあるものてして推定せられ悪性なインフレーションなどの傾向は起っていない、ここに注目すべきことは現地通貨と本邦通貨又外国通貨の価値関係の成立又現地各通過間の為替は立たないようにしているので、南方とわが国との交易等には臨時軍自□資金を利用して之を通しこの南方開発国庫よりの融資制度によって実施せられている、これが南方通貨、交易等の実況で将来の対策としては具体的に研究を進めている 」


1943年8月時点でも、日本国内の円と占領地通貨の取引が制限されていること、また、現地表示軍票と現地通貨が等価

であること、がわかります。(また、従来の通貨使用を認めていることから、旧通貨の回収を目的とした軍票と旧通貨の交換を行っていないこともわかります)


次の記事。

「新聞記事文庫 東南アジア諸国(16-066)
東京朝日新聞 1942.12.16(昭和17)南方軍政の展開ビルマ篇
全鉄道の九割開通 軍票への信頼絶対的
一般金融
わが帝国軍票ルピーおよびダラーならびにセント紙幣の信用度は実に皇軍が泰緬国境シャン山脈を越え、ビルマ国内
に一歩を踏み入れた瞬間から全く圧倒的なのに驚いた程である、山の中の樵夫、狩人たちは日本軍を待ちかねていたように旧イギリス紙幣の束をつかんで駈出し、兵隊さんたちに軍票との交換をせがんだ、軍票への信頼は絶対的だ、去る四月末横浜正金ラングーン支店が再開されると、ビルマ人、印度人の預金者殺到、毎朝黒山を築き整理員が声を嗄らす騒ぎ、現在までにモールメン、マンダレー、バセイン、ペグーに各支店を開設しているが、現地人の預金額は実に○○万円を突破するという盛況である、行政府ではバ・モ長官の命令第一号として貨幣調整令を公布、十月十五日から施行し従来の『アンナ』『バイ』を廃止し十セントを一ルピー(あるいは一ダラー、日本の円と等価)としたが、最初は少し混乱したものの今ではすっかり慣れ市場の売子も『ハイ、お釣りを三十銭とお客の兵隊さんに日本式にやってのけているのは微笑ましい風景である」(2007/6/12「三十」を「三十銭」に訂正(脱字のため))


少なくとも1942年12月の時点で1円=1ルピーであることがわかります。



「新聞記事文庫 通貨問題(1-031)
読売新聞 1942.2.18(昭和17)
大東亜経済建設の指標 (1・2)
南方開発金庫
 本金庫は前記の如く南方資源開発、物資蒐集、破壊施設復旧等に要する資金の融資を第一の使命としているが、こ
の融資資金はすべて臨時軍事費特別会計より軍票で借受けることになっており、円通貨を現地において使用しないことになっている。本金庫の資本金一億円、第一回払込二千万円の資金は内地における経費その他内地で必要なる資金に充てられるのである、しかして現在南方に使用されている軍票は満洲、支那で使用された軍票と異ってペソならペソ、海峡植民地ドルなら海峡植民地ドルにマークを付した現地通貨が円と等価の関係で使用されているのであって、これは従来見られなかった初めて□□□□□□、本金庫がこの軍票のみを使用することも本金庫の一大特色である、すなわち本金庫がかかる軍票のみを使用して直接円系通貨を使用しないこととしたことは満洲、支那における幾多の経験より出たものであるが、これによって円貨と南方諸通貨とは一応直接的連繋を断ち切られると同時に本金庫を媒介として間接的に連繋もするという頗る巧妙なる行き方をしているのである、戦争行為継続中現地の或る程度のインフレーションは不可避的であるが、円貨と南方諸通貨とが切離されていることによってこの現地のインフレは何等円貨に影響をおよぼさないのである
 またこのように両者が切離されていることは円貨への悪影響を避ける許りでなく日本と南方諸国との関係が日本と
満洲、支那の関係と違うことをも意味し、南方経営の将来の動向を示唆しているともいえよう 」


これは南方で使用された軍票(厳密には南発券と異なる)についてですね。ペソ、海峡ドル(この時点ではビルマのルピー軍票は発行されていない)が円と等価であることがわかります。また、円通貨を現地で使用しない方針であることがわかります。
しかも「現地のインフレは何等円貨に影響をおよぼさない」ことを狙っていることもわかります。


つまり、

・建前として、1ルピー=1円(1944年以降、戦争中にこの公式レートが改訂された事実があればご指摘ください)である。
・しかし、一般にルピー・円の換金はできない。
・現地通貨と現地軍票は等価の建前である。


ことは明白です。
最後に、林教授から提供頂いたデータですが、
「太田常蔵『ビルマにおける日本軍政史の研究』(吉川弘文館、1967年)によると、ビルマでの1945年初頭時点での物の値段は次のようです。
コーヒー 5ルピー    
背広1着 1万ルピー 
シャツ1枚 300-400ルピー  
絹ロンジー1着  7000-8000ルピー 」
ですので、1945年時点のビルマでルピーがインフレを起こしていることは明白です。
また、同時期(終戦以前)の日本国内では、ここまでのインフレは起こってません。
http://oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/rn/senji1/table/120-63.html を参照すると、1939年から1945年7月まで大きな変動はない。ちなみに昭和10年(1935年)のカレーライスの値段は1皿30銭、これにはコーヒーがついていた。5ルピー(公式レートで5円相当)のコーヒーが如何に高額か想像できる。)

以上から、ルピー軍票が円と等価である建前でありながら、実勢価値は等価から大きく離れていたことがわかります。


lunakkoさんのコメントより。

1.金庫券発行の実施日について

●私の資料

南方開発金庫券発行要領
    昭和十八年三月 大東亜大臣達

    第一条 南方開発金庫券ハ左ノ通貨単位名称ノ南方開発金庫券(以下金庫券ト称ス)ヲ夫々ノ地区毎ニ発行スベシ
     「ドル」(弗)   馬来及北「ボルネオ」地区
     「ペソ」     比島地区
     「グルデン」(盾) 東印度地区
     「ルピー」(留比) 緬甸地区
     「ポンド」(磅)  濠州地区(委任統治区ヲ含ム)
    第二条 金庫券ノ発行ニ付テハ大東亜大臣ノ定ムル金庫券発行計画ニ拠ルベシ
    第三条 金庫券ノ種類及様式ハ外貨軍票ト同一トス
      附 則
    第十条 金庫券ノ発行ハ昭和十八年四月一日ヨリ之ヲ実施スベシ
    第十一条 既発行ノ外貨軍票ニ付テハ国庫ニ対スル整理ノ関係ヲ除キ凡テ金庫券トシテ取扱フベシ

    [図録 日本の貨幣 10 外地通貨の発行(1)より]
    主要条文抜粋

以前のエントリで林教授のサイト「大東亜共栄圏の実態」 よりの引用として南発券の発行数を1942年12月に4億6326万円、1944年末に106億2296万円、1945年8月に194億6822万円、」と記載した。

これに対して、南方開発金庫が発券機能を持ったのは、1943年3月であることから、記載は信用できない、という趣旨が上記のコメントで述べられている(そう明言しているわけではないが、そう解釈できる書き方)。

「日本軍政下のアジア」を確認してみたところ、p159に同じ記載があり、p160のグラフからも、同等の額であることが確認できた。そして、その引用元は、「日本金融史資料昭和編」第30巻、となっている。

lunakkoさんのように、ブログは信用できない、資料・証拠を出せと思うなら、上記の日本金融史資料をあたることをお薦めします。


ちなみに、1942年12月の額について、私の解釈を示すなら、「4億6326万円」とは、南方開発金庫券発行前の南方向け軍票の発行高を指すものと考えます(1943年4月の発券後の6月に南方開発金庫は臨時軍事費特別会計に対して南発券の貸し出しを行っており、その額が5億2551万円である。1943年1月から3月までの発行高が6000万円程度であるとすると、1942年12月の南発券発行量と合致する)。


南方開発金庫そのものは、1942年4月1日に開業しています。では、1943年の4月まで何をしていたかというと、上記「読売新聞 1942.2.18(昭和17)」の記事にあるとおり、日本政府の臨時軍事費特別会計から軍票で借り受け、南方で貸し出す、という業務を行っていたわけです。

1943年4月以降に発行する南発券は、本来なら南方占領地経済に裏づけされた通貨であるため、厳密には軍票ではありません(ほとんど軍票同様に使われたため、一般には軍票と呼ばれるが)。


軍票と一口で言っても、形態は色々あって、同じ日本軍が使用したものでも中国と南方では異なります。

この辺は、今後の勉強課題です。