「アメリカ戦時情報局心理作戦班 日本人捕虜尋問報告 第49号 1944年10月1日」に関連して | 誰かの妄想

「アメリカ戦時情報局心理作戦班 日本人捕虜尋問報告 第49号 1944年10月1日」に関連して


ネトウヨサイト(http://www010.upp.so-net.ne.jp/japancia/index.htm )で参照している捕虜尋問報告49号の訳文だが、そこかしこで見かけるけど、かなり雑な訳なので信用できない・・・。


例えば、以前も書いたけど
”They lived in near-luxury in Burma in comparison to other places.”「彼女らはビルマの他の所と比べて高級地近くに住んでいた。」と訳すのはね・・・。

なお、吉見教授の「従軍慰安婦資料集」では、「ビルマでの彼女たちの暮らしぶりは、ほかの場所と比べれば贅沢ともいえるほどであった。」と訳されている。


”They lived well because their food and material was not heavily rationed and they had plenty of money with which to purchase desired articles.”
「彼らは贅沢に暮らした、それは彼女らの食事や物質は大量には配給されず、彼女らが望む品物を買えるだけの十分なお金を持っていたからである。」これも、文章が変になってますね。


「従軍慰安婦資料集」訳「食料・物資の配給量は多くなかったが、欲しい物品を購入するお金はたっぷりもらっていたので、彼女たちの暮らし向きはよかった。」
"not heavily rationed"は、”ひどく配給制限されることはない”と訳すべきで、つまり「食料・物資の配給量は多くなかった」が正しいでしょう。
ついでに”They lived well”を、「彼らは贅沢に暮らした」とは誇張しすぎな気がします。


あと酷いのは、誤訳ではないけど
”A "comfort girl" is nothing more than a prostitute or "professional camp follower" attached to the Japanese Army for the benefit of the soldiers.”
「「慰安婦」とは、売春婦にすぎない。もしくは「野営追随プロ」、軍人の利益の為日本陸軍に付属する。」と訳している点。ネトウヨサイトでは、これをして、得意げに「慰安婦はただの職業的売春婦だ」というわけだが、これは全く時代背景を無視した論調(今の価値観で過去を裁くな、とか言うくせに)。
つまり、この報告書が作成された1944年時点の米軍にとって"comfort girl"という言葉が、売春婦を連想させるものではなかった、連想できたとしても、字義上の意味と異なる隠語なので、報告書では説明が必要だったわけですね。


最後に「1943年後半、陸軍は債務を返済した女性へ帰省を命令し、何人かの女性は寄って、韓国へと帰国した。」と得意げに書いているが、これは完全に誤訳か改竄。

原文は、これ。
In the latter part of 1943 the Army issued orders that certain girls who had paid their debt could return home. Some of the girls were thus allowed to return to Korea.


”Some of the girls were thus allowed to return to Korea.”
直訳すれば、”何人かの女性は朝鮮に帰ることを許された”であって、「韓国へと帰国した。」ではない。吉見教授の「従軍慰安婦資料集」でも「1943年の後期に、軍は、借金を返済し終わった特定の慰安婦には帰国を認める旨の指示を出した。その結果、一部の慰安婦は朝鮮に帰ることを許された。」とのみ訳されており、「帰国した」とは書いていない。


ちなみに、「従軍慰安婦関連資料集成5」26.調査報告書 No.120「AMENITIES IN THE JAPANESE ARMED FORCES」(1945年11月15日)「II AMUSEMENTS、9.Brothels、b.BURMA」節の中の(pdfファイルのP178、「従軍慰安婦関連資料集成5」のP152、米軍報告書のP18)には、第49号にある朝鮮人慰安婦ら22人(楼主含む)について、
"When a girl is able to repay the sum of money paid to her family, plus interest, she should be provided with a free return passage to KOREA, and then considered free. But owing to war conditions, no one of prisoner of war's group had so far been allowed to leave; although in June 1943, 15 Army Headquaters had arranged to return home those girls who were free from debt, and one girl who fulfilled these conditions and wished to return was easily persuaded to remain."

とあって、1943年6月に第15軍司令部は返済の終わった慰安婦を帰国させる手配をしたが、条件を満たした女性(一人)は留まるよう説得され、戦況の悪化により、結局この捕虜グループからは誰も帰国していない旨が述べられている。


実際に帰国できなかったとしても、帰国を許可したんだから”いい関与”だ、と主張する人がいそうなので追記しておく。


明治33年1900年2月大審院判決
「貸座敷営業者ト娼妓トノ間ニ於ケル金銭貸借上ノ契約ト、身体ヲ拘束スルヲ目的トスル契約トハ各自独立ニシテ、身体ノ拘束ヲ目的トスル契約ハ無効ナリ」


「娼妓取締規則」明治33年1900年10月内務省令第44号
第6条 娼妓名簿削除申請に関しては何人と雖妨害を為すことを得ず


この判決と内務省令の意味するところは、娼妓は楼主からの借金返済に際し娼妓であることを強制されることはない、ということ。つまり、借金の有無に関わらず自由に廃業して構わない、ということ。
もう少し言い方を変えると、借金を返すための手段は自由に選べる、と。

「娼妓取締規則」は、現実的な返済手段が娼妓しかない女性にとっては不完全なものではあったが、自由廃業の権利を勝ち取った人権問題上の大きな転機ではあった。


さてもし、ビルマにいた慰安婦が公娼(娼妓)であったなら、自由廃業の権利があったはずで、日本軍には返済の有無によって帰国の是非を決める権利はないわけです


”orders that certain girls (中略)could return home”を軍が発行すること自体、軍が自由廃業を阻害していたこと(そもそも自由廃業の権利を知らしめてないであろうこと)を示しており、娼妓取締規則そのもの、あるいはその精神に反するわけです。


「帰国の許可」の存在は”いい関与”を示すものではなく、”悪い関与”を浮き彫りにするものです。