きーやまの経過報告

きーやまの経過報告

数学のド素人が知ったか振りで書いてます。

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chatgpt に小説を書いてもらいました。






ある日、私は目を覚ました。目の前に広がるのは、見たことのない不思議な世界だった。私は自分が誰で、どこにいるのか全くわからなかった。ただ、自分が「愛」という漢字であることだけは確かだった。


しかし、私には自己を知覚することができず、自我もなかった。私は「愛」という字を知ってはいたが、その深い意味や価値については全く理解できていなかった。


ある日、私は図書館で偶然にも「愛」という字を書いている女性と出会った。彼女は、自分が心に宿す「愛」を熱心に書き留めていた。その情熱的な筆運びに私は感嘆し、彼女の書く「愛」に何か特別な意味があると感じた。


私は毎日、女性が書く「愛」を見に図書館に通うようになった。そして、その「愛」に触れることで、私の中に何かが目覚めていくのを感じた。自己を取り戻すため、私は自分自身が「愛」という漢字である理由を探し始めた。


ある日、私は自らの存在や過去について理解することができた。そして、私は自分自身が「愛」という漢字であることを思い出した。人々が愛を忘れ、冷たくなってしまった世界で、誰かが「愛」という字を書いた。それは、人々に愛を思い出させるためのメッセージだったのだ。


私は自己を取り戻し、自分自身が「愛」という漢字であることを受け入れた。そして、自分自身が愛することができる存在であることを知り、人々に愛を伝えることを決意した。私は自分自身が「愛」という漢字であることを誇りに思い、世界中に愛を広める旅に出た。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

本『ヒルベルト空間と量子力学』(新井朝雄,共立出版)で80頁にわたって解説されていることを,話の流れを掴みやすくするために無理やり3頁に詰めたあれ。定義も証明もほとんどすべて省略している。なお例はすべて消し飛んだ。

以下ではすべての文に [ ] の形で印を付ける。

自分の復習用のノートなので多分他の人が読んでもよくわからないと思う。

スペクトルにはまだ入っていない。

 

[Def]は定義。

[Axiom],[Method],[Remark]はの三つ定理(ときどき定義や公理)で

[Axiom]は理論の基礎になっているもの(単によく使うという意味で,論理的な意味での公理ではない)

[Method]は証明も含めて大切と思うもの

[Remark]は気を付けておいたほうがいいもの(しかし定義とか定理というほどの大それたものではない)

[Question]は(下で使っているかわからないが)私が思う疑問点

というように主観的に使い分けている。私の理解が至らない関係で[Axiom]とすべきところが[Method]になっていたり[Method]であるべきところが[Remark]になっていたりする。

 

1.ヒルベルト空間H内の一次結合の一般論

[Def] 集合は複素係数の一次結合に関して閉じているとき,(ここでは)線型集合という。

[Axiom] 無限次元公理:線型集合Hは一次独立な生成族が存在するとき有限次元(または有限生成)といい,任意有限個数の一次独立族が存在するとき,無限次元という。線型集合Hは有限次元でないとき,Hは無限次元である(点列の存在原理)。

[Def] Hの線型部分集合Dに対して,Dの元の有限和全体(線型包)をL(D):={有限和∑a_n f_n ;a_n∈C, f_n∈D.}で表す。

[Def] 内積を<・|・>で表す。<f|g>=0のとき直交するといいf⊥gで表す。内積から定まるノルムを|・|で表す。
[Axiom] 非退化性の公理:f=0⇔∀g∈H, <f|g>=0. これは一意性原理の基礎である。

[Axiom] 完備性の公理:ヒルベルト空間Hはノルムを距離と思ったとき完備(基本列が適当なHの元に収束する)である。これはあらゆる存在原理の基礎になる。

 

2.閉部分空間と正射影原理

[Def] Dを部分集合とする。任意のf∈Hに対して,Pf∈Dが存在して,(f-Pf)⊥Dであるとき,PfをfのDへの正射影といい,PをDへの射影子という。

[Method] 正射影原理(有限生成の場合):任意の有限次元の線型部分集合Dに対して,Dへの射影子が存在する。

[Method] グラム・シュミットの直交化:任意の一次独立族{f_n}に対して,ある(正規)直交族{g_n}が存在して,L({f_n})=L({g_n})である。(∵f_nから{g_1,…,g_(n-1)}への正射影成分を逐次引いていくことにより直交化される)

[Remark] Hの閉部分空間は部分ヒルベルト空間である。以下,部分集合Dの閉包を[D]で表す。なお,任意の有限次元線型部分集合は閉部分空間であることに注意する。

[Def] 部分集合Dに対して,直交補空間をD^⊥:={f∈H | ∀g∈D, f⊥g.}で定義する。これは閉部分空間である。

[Remark] 部分集合Dに対して,D^⊥=L(D)^⊥=[D]^⊥である。

[Axiom] 正射影原理(極限で閉じてる場合):閉部分空間Dに対して,Dへの射影子Pが存在する。(∵f∈Hに対して,Hの距離で測ってfに一番近いDの元が正射影Pfである。この存在には完備性が利いている)

特にDが全域Hに等しくないとき,D^⊥\Dは空でない。

[Method] 直交和分解:Dが閉部分空間のとき,H=D+D^⊥(直交和)である。また,D^⊥⊥=[D](二重直交補空間は閉包)である。

 

3.完全系

[Remark{ f_n}を正規直交族とする。任意のf∈Hに対して,無限級数F(f):=∑<f_n|f>f_n (=fのf_nによる展開)は(Hの完備性により)収束する。しかし一般にはF(f)≠fである。

[Def] 正規直交族{f_n}は,任意のf∈Hに対してF(f)=fのとき,完全正規直交族(C.O.N.S),または単に完全系という。

[Remark] 次の三つ(i)(ii)(iii)は同値:(i) {f_n}は完全系 (ii) 任意のf∈Hに対して,|f|^2=∑|<f_n|f>|^2である (iii) L({f_n})^⊥={0},つまり任意のnに対してf⊥f_nならばf=0

[Remark] 部分集合Dに対して,DがHで稠密なための必充条件はD^⊥={0}であること。

[Def] Hは稠密な可算部分集合を持つとき可分という。

[Remark] 完全系が存在するための必充条件は可分であること。

 

4.線型作用素の共役

[Remark] ヒルベルト空間HからKへの線型作用素は定義域D(T)がH全域であるとは必ずしも仮定されない。Tの定義域D(T)がヒルベルト空間でない(しかしあるヒルベルト空間に含まれていはいる)ようなものも考えるためである。

[Def] TはHからKへの線型作用素とする。<Tf|g>=<f|T^* g> (∀f∈D(T))を満たすKからHへの線型作用素T^*をTの共役という。(ここではT^*が存在するかどうかはまだわからない)

[Method] Tが稠密な定義域D(T)を持つ( [D(T)]=H )とき,T^*は存在する。(存在域D(T^*)および各g∈D(T^*)に対する一意な像T^* g を決定できる)

[Remark] Tが有界のとき,T^* も有界で,T^**=T

この物語はフィクションである。登場する人物、組織、団体、ガロア、げんがくさばいばなどの名称はすべて架空のものである。本人の許可はとったようなとってないような、ともかく名誉毀損で訴えられるかもしれん。アホやから歴史も間違ってるかもしれん。それでも書くんや、書かなあかんのや…。

 

 19世紀初頭、数学が急激に発展しつつあった時代。物体の運動法則は力学の建設によってかなり詳しく解明され、それに並行して無限小の数学としての微分積分学も高度に発達しきっていた頃、生まれてから長い歴史を持つはずの幾何学と代数学の方は未だ過去の有名問題を解けずに成長できず留まっていた…。

 幾何学は言った。

「私は数学の中でも最も歴史が古く、故にもっとも厳格な性格である。自分に厳しすぎたせいなのか、『数学は論理的でなければならぬ』ということを徹底しすぎたようだ。ユークリッドに力を与えすぎた…そろそろ直観的な幾何学にも入ってもらわなければユークリッド原論から引き継がれる平行線公理を乗り越えることはできん…。」

 幾何学では未だ解かれていない難問題が存在した。いや、問題として認識されたことさえ最近のことだったのだ、ついこの間まではそれは当たり前のこと、疑う必要もないことだったのだからな。その問題とは平行線の公理である!

 幾何学にはユークリッドの原論という、古代ギリシャで書かれた本があり、長い間これが標準とされていた。この時代でさえ、幾何学の内容はユークリッドの原論から大きく出てはいなかったと言えよう。この原論には公理と呼ばれる、無条件で正しいとされる五つの事実が表されていた。そのうちの一つが平行線の公理である。幾何学では「論理的に筋道立てて確かめたことだけが正しい」という文化があった(この「証明」という概念は現代数学では常識となっており、まるで数学が生まれたときから、最初からそこに証明も同時に存在していたかのようにさえ錯覚させられる―しかし証明はあくまで獲得される概念であり、それが常識であるのは一つの文化に過ぎない―)。

 平行線の公理は他の四つの公理に比べて複雑だった。それに疑念を抱いた何人かの数学者が、「平行線の公理は実は証明できるのでは…?本当に正しいのならば証明して確かめてみよう」と考え、証明に挑戦した。いまや平行線公理は、彼らの認識によって初めて幾何学の『問題』として生まれ直し、彼らの前に立ちはだかった。しかし数学者が何度挑戦しても結果はいつも惨敗に終わる。数学者は平行線公理を証明または反証することによって倒そうと考えていたが、それでは平行線公理は倒せないのだ。平行線公理は証明も反証もできない問題だったのだ!数学者側は当時、すべての問題は証明か反証のどちらかによって真偽を確かめられると思っていた。勝ち目などあるはずがないではないか!それでも数学者は果敢に立ち向かっていくのである。数学者には、たとえ負けるとわかっていても戦わなければならないときがある。昔からそう言うではないか。

 幾何学は言った。

「平行線問題はそろそろ解かれてもいいだろう。次がおそらく最後の戦いになる。長い間ご苦労様だった。リーマンを出してやろう」

続く。

次のいずれか(同値なので従ってすべて)を擬位相構造という。

・収束の公理

・近傍系Nx

・閉集合族

・接触集合A-

・開集合族

・内部集合Ai

 

擬位相は次のいずれか(同値なので従ってすべて)の条件を満たすとき,かつそのときに限って位相である。

・A--=A-

・Aii=Ai

・∀U∈Nx,∃V∈Nx,[V⊂Uかつ∀y∈V, V∈Ny]

 

擬位相について何も説明していないが,普通の位相の公理に入っているもので,「擬位相が位相であるための条件」というところに書いてないものが擬位相の公理と考えてもらえれば問題ない。