見えないものに目を留める | シオンのブログ

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シオンの徒然記

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わたしたちは,見えるものではなく,見えないものに目を留めます。見えるものは一時的ですが,見えないものは永遠だからです。わたしたちは信仰によって歩んでいるのであり,見えるところによって[歩んでいるの]ではありません。-コリント二 4:18;5:7

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本投稿は、[万物の起源(11月13日投稿)]に寄せられたコメントへの回答です。

[Wikipedia より]
「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」(Why is there something rather than nothing?)は哲学の一分野である形而上学の領域で議論される有名な問題の一つ。

神学や宗教哲学、また宇宙論の領域などでも議論される。なぜ「無」ではなく、「何かが存在する」のか、その理由、根拠を問う問題。

別の形、
「なぜ宇宙があるのか?」
(Why is there a universe?)
「なぜ世界があるのか?」
(Why is there a world?)
「なぜ無ではないのか?」
(Why not nothing?)
などの形でも問われる。

物事の根拠を「なぜ」と繰り返し問い続けることでやがて現れる問いであることから
「究極のなぜの問い」
(The Ultimate Why Question)
またはより簡潔に「究極の問い」とも呼ばれる。

解答することが著しく困難であることから「存在の謎」(The riddle of existence)とも言われる。

存在に関する問いであることから
「存在への問い」
(The question of being)とも言う。

哲学者たちはこの問いを、あらゆる問いの中でもっとも根源的な問い・第一の問いであるとしばしば言う。

同時に混乱を呼ぶ悪名高き問い、解答不可能な奇問、愚かな問い、また問うことが危険な問いである、などとも言われる。

存在論のテーマは突き詰めると
「何が在るのか」と「なぜ在るのか」の
二つに問いに収束していくとも言われるが、この問いはこうした場合における「なぜ在るのか」にあたる問いである。


概要

この問いの前提である「何かがある」ことを否定することで問いから逃れることはおよそ困難である。

たとえば実在するものはすべて意識的なものだけであるとする観念論的な立場や、または世界は私の見ている夢のようなものであるとする独我論的な立場などを取ってみても、その意識や夢にあたる「何か」があることは依然として認めざるを得ない。

映画「マトリックス」のように自分は水槽の中の脳である、とか、またこの世界の全ては未来のスーパーコンピュータの中で行われているシミュレーション結果に過ぎないというシミュレーション仮説のような極端な考え方をしてみても、そこには水槽や脳や何らかの計算機が在る。

仮にそうしたものの存在をすべてを否定してみたとしても、ある種のシミュレーション結果だけはどうしても残る。シミュレーション結果の存在さえ否定してみたとしても、そこには「何もない」「まったく何もないんだ」というその考え、思考と呼ぶべきようなものが、最後までどうしても残ることとなる。

こうして「何が在るのか」という点については色々な答え方が可能とはいえ、「まったく何もない」と主張してこの問いを却下することがまず困難となっている。

次に、物理学の領域ではビッグバンにより宇宙が始まったという説明がなされることがあるが、こうした説明もまた答えとはならない。

なぜなら問いの形が「なぜ何もなかったのでなく、ビッグバンがあったのか」に置き換わるだけだからである。

ビッグバンが真空の量子揺らぎから発生したといった説明もまた同様である。
「なぜ何もなかったのではなく、量子力学の法則にしたがって揺らぐような真空があったのか」、もしくは
「なぜ量子力学の法則などという自然法則があったのか」こうした形に問いが置き換わるだけである。

同じように何か超越的な存在、たとえば神様を持ち出し、それが世界を作った、と説明しても話は同じである。
「なぜ何もなかったのではなく、神様がいたのか」、こう問いが置き換わる。
こうした例を見てわかるように、この問いは存在の根拠についてより基盤的なレベルの原理でそれを説明してみても、または因果連鎖を過去に遡ることによって答えようとしてみても、もっと基盤的な何かへ、もっと基盤的な何かへ、またはもっと過去へ、もっと過去へ、無限後退が生じるだけで、そこから答えは得られることはないだろうと考えられている。

時間の始まりの問題を避けるために永続する宇宙、永遠の時間を想定してみても、解決は得られない。
「なぜ何もないのではなく、永遠に続く宇宙があるのか」、こうした形に問いが置き換わるだけで終わる。

この問いは歴史学や考古学のように過去の歴史を問う問題ではなく、あくまで
「なぜ何かがあるのか」
を問う問題である。またしばしば同時に扱われる関連した問い「なぜ世界はこのようになっているのか」というこの世界のあり方の根拠を問う問題とも区別される。





[万物の起原]についたコメント
リッチ さん
11月27日 02:56

Re:Re:万物の起源は何かは、だれにもわかり…
>シオンさん

>高度な設計を見る時、そこには人間が到底及ばない知恵を認めないわけにはいきません。

この世界が精緻だから作った者がいる、という理論はよく創造論者でなされる説明ですが、
その精緻な宇宙の設計図がつまった知能も精緻であるという事になるため、この理論を採用して考えると、精緻である神もまただれかに作られなければならず、矛盾が発生します。

数学的に言えば、宇宙が自然発生するよ確率よりも、神が自然発生する確率の方が更に低いといえるでしょう。

しかし、これは確率であるため、神がいない証拠にはなりません。

私は、宇宙を作った何者かがいても変ではないが、いなくても変ではない、と考えます。

ただ、聖書に描かれている神は論理的矛盾を多く抱えている為、聖書に書かれている神の人物像は、妄想か物語的創作か嘘かのどれらかだと考えています。

IP:59.134.98.248

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天は神の栄光を告げ知らせ, 大空はみ手の業を語り告げている。日は日に継いで言語をほとばしらせ,夜は夜に継いで知識を表わし示す。-詩編19:1,2


[神]の見えない[特質],すなわち,そのとこしえの力と神性とは,造られた物を通して認められるので,世界の創造以来明らかに見えるからであり,それゆえに彼らは言い訳ができません。-ローマ 1:20


終わりのことを初めから,また,まだ行なわれていなかったことを昔から告げる者。『わたしの計り事は立ち,わたしは自分の喜びとすることをみな行なう』と言う者。
-イザヤ 46:10