だいぶ前のことですが
娘の小学校には
夏用と冬用の帽子があり

4月の終わり
急に熱かった日の翌日から
家の判断でどちらを着用してもよいと
学校から連絡がありました。
 
 
どちらの帽子をかぶってもいいという初日
 
前日とは打って変わって
肌寒い日になるようでした。
 
私はいつものように
娘に天気予報を伝えてみました。
 
娘は年長くらいから
毎日その日の天気を私に聞いて
(家にはテレビがないので毎朝、
天気予報をスマホでチェックします。)
着る洋服を決めていたので
いつもの朝の流れで伝えました。

すると、
今日はね、少し寒いみたいだから
○○ちゃんはね、こっちの帽子にするの。
 
と、冬用の帽子を選びました。
 
 
私は、一瞬

今日から夏用の帽子に変えてもいいと言っていたから
みんな夏用の帽子かぶってくるかもな~
一人だけ冬用で、いやな気持ちにならないかな~
 
と、いらぬ心配がふと
頭をよぎったのですが
 
 
すぐに
ま、いっか
娘の決めたことだし♪
どういう反応するか見てみよう!
 
という感じで
特に娘には何も言わず
マンションの玄関前の待ち合わせ場所に行きました。
 
 

いつも一緒に行っている
お友達二人は夏用の帽子でした。
 
 
 
子供たちの話に耳を傾けていると
 
今日から夏用でいいって
先生、言ってたよ~、ね~
 
 
一人だけ夏用の帽子でいったら
どうしよう~って思ってたけど
△△ちゃん、一緒でよかった~
 
と、お友達二人が話していると
 
娘は
 
○○ちゃんはね
少し寒いから冬用の帽子を選んだんだよ
自分で選んだからこれでいいんだよ。
 
ってお話ししてました^^
 
この会話を聞いて、私は
自分で考えて、自分で選んで決めたことだから
人の意見に惑わされないんだな~
どうしてそれを選んだか
伝えることもできて素晴らしい!
と感心してしまいました。

正直、娘は何かの拍子に泣くことが多いので
もしかしたら泣いちゃうかもと思っていたのですが
まあ、成り行きを見てみようと
何も声をかけずに見ていました。

ここで
娘が自分から
その帽子を選んだ理由を言う前に
私が
娘が泣かないように
不安にならないように
声掛けをした場合を想定してみます。
 
大丈夫だよ、
今日は少し寒いから冬用の帽子でいいんじゃない?
 
ほかの子も冬用の帽子かぶってるかもしれないじゃん?
○○ちゃんだけじゃないよ、きっと。
 
夏用の帽子にする??
 
 
などなど

これって、全然娘の気持ちを思ってのことではなく
実は、不安な親の気持ちを伝えているだけ!
そして、何とか泣かないように、ことが荒立たないように
取り繕おうとしているだけに感じました。

娘が不安にならないように、ではなく
自分の不安な気持ちを
どうにかしたいための発言だということに
気づきますか?

そして、私の勝手な
娘の気持ちの想像が前提にあるのです。
あ、泣いちゃうかも、
一人だけ夏用でかわいそう、
いやな気持ちにならないかな??など
 
 
でも、娘の本当の気持ちは
本人に聞かなければ分からないのです。
 

こういう視点で見ると
親が発言している言葉の大部分は
実は、親自身が自分の気持ちを
どうにかしたいための発言であって
子供のために言っているのではない
ことに気づくと思います。

私はこれに気づいてから
子供への声掛け
話しかける内容がだいぶ変わりました。
 
 
子供は別に不安に思っていないのに
親から、大丈夫??と聞かれると
不安になる、みたいな感覚に気づいたからです。

子供のやること、考えることを
心から尊重し、信頼し、任せる感覚ができると
その結果がどうであれ
親自身も自然と
どんな結果も受け止めることができると思うのです。
 
受け止めなければいけないわけではなく
理解できることが多くなるように感じます。

この感覚を感じるには
子供との分離意識がとても重要になってきます。
子供と自分は別々の人間

そんなこと当たり前だと思っていても
頭ではわかっていても
心がついてきてない
または無意識に同化していることが
多々あると思います。

何回かブログでも書いているのですが
これは、決して
無責任にただ切り離しているのではなく
お互いを個として尊重しあう関係であると
自覚することなのです。
 
自分自身の発言に
一度耳を傾けてみましょう^^
今日一日
自分が子供に発した言葉のうち
本当に子供の成長にとって必要な発言はどのくらいあるでしょう?

ここでいう必要とは、子供の成長をサポートするのに必要、という意味です。
それ以外の発言をしてはいけないということではありませんよ(笑)
いっぱいお話しして下さい^^

子供とのコミュニケーションの中で
主体が「親である自分自身」になっていることはありませんか?
 
今回の帽子の件でいうと
私が娘にかけた言葉は
 
自分で選んだんだよね~^^
 
だけでした。
 
とてもシンプル。
 
あとは娘の反応を見守るだけ。

この件で娘が
どのように事実を受け止め
どのように感じ、
どのように今後につなげるのか
 
 
それは、娘の成長にとって
 
大切な経験
 
その経験や体験を
気づかないうちに無意識に
奪ってしまっていないか
 
日々の親子のやり取りを
分析してみると面白いかもしれませんね

何事も
~べき、~しなきゃ
という姿勢でいると苦しいもの

好奇心を感じ

こういう時はどうなんだろう
とか
 
こうだったらどうなるか
とか
 
興味をもって、
自分と子供との関係をみてみると
いいかもしれませんね。

いい、悪いはなく
ただ事実があるのみ

その事実に気づいたら
 
そのまま、そのまま
 
見つめる
 
ただ
 
見つめる
 
すると、自分のことがよくわかってきます。
 
 
 
すると
 
 
自然と自分が心地いい方向に
心がむかってきます。
 

この繰り返し
 
 
人生はこの繰り返し
 
 
「いま」という瞬間・瞬間が積み重なって
 
 
「私」という器を持った人間の人生が出来上がっていく

世の中に完璧なものは何一つないのです。
 

不完全なまま
流動的に変化し続けて
生命はつながってきているのです。

私が伝えようとしていることは

これをしたら完璧!
これだけすればお悩み解決!
すぐに効果が出る子育て法!
のようなものではありません。

混沌とした状態の中から
必要なものを選ぶ力をつけていく
その力をつけるには
 
自分を知ること
 
自分と深くつながること
 
自分を大事にすること
 
自分を愛すること
 

結局はこれに行きつきます。
 
 

この先に、他者とのかかわりを
愛のあるものにすることができるようになるのですね。
 
 
自分の状態を整えることは時間はかかるし、
これで完成ということもないし
ずっと、やり続けていくもの
 
そして、子供とともに築き上げていく
自分なりの「子育て」という概念
 
 
親も人間として成長していく
子供も人間として成長していく
 
この関係を
良い相乗効果に用いない手はないなと思います。
 

その過程を一緒に歩んでいく仲間がいたら
とても心強いですよね。
 
 
そして私はその方たちの先導者としてお役に立てたらと思ってます。
 

このような一見、高尚な理念を持った私ですが
日々の生活はとても人間臭いものです(笑)

別に聖人のような生活ではありません。
 
ただ起こったことに対する解釈や反応を
自分で選べると知っているだけ
 
 
たまに忘れますが
思い出せばいいのです。
 
 

それで、いいのですよ^^
 

日々是実践の繰り返し
 

成長は螺旋状になっている
同じところをぐるぐる回っているように感じるけど
人間として、
着実に成長していると信じています。

人間のDNAは2重らせん構造になっている。
生命は螺旋状に成長するようになっているのですね。
この事実を信じるか信じないか。それも自由です^^

今月、子育ての悩みを持ったママさんとお茶会予定です。
どんなふうに繋がっていくのか楽しみです♪