いつも死にたいと思っている。ふとしたときに「死にたい」と口をついて出る。言ってしまったあとに後悔する。私には守るべき家族があり、私が死んだら妻はどうなるのか?
けれども死にたい気持ちはときにそのような気持ちを打ち消す。
死んで楽になりたいという気持ちは身勝手なものだと思う。
考える余裕がないのか?それを打ち消すだけの強力な魅力が死にあるのか?それは別にして、自分が死んだ後のことなどどうでもよくなる。自分が死んだらなにかが変わるという想いがあれば、死にたい気持ちが消えるのか?
共感性のない人間はいる。
人間が種の保存のために集団であることを見いだし、その道具として社会を産み出した。
社会は大多数の人間の意思反映の結果産み落とされる。
多くの社会は、共感性を必要とする。
つまり共感とは能力である。
思いやり、他人を慈しむのは人格という言葉で規定される気質ではなく、大多数の人間の意思が反映された結果産み落とされた社会に適応するための能力である。
すなわち大多数の人間が、共感する能力を持っている。
それは人間という種を保存するために必要な個の能力である。

しかし共感性のない人間もいる。
程度の差こそあれ、それが乏しい人間がいる。
能力はあってもそれを発揮できずにいるのか?
もともと能力がないのかは議論の余地がある。

共感性のない人間は異質に見える。
異質に見える人間は差別の対象となる。
結果、適応できずに苦しむこととなる。

大多数の意思が反映された社会が正義であるか悪であるかは問わない。
しかしあくまで大多数のものであり、そこから漏れる人間はどうしても出現する。
古来から犯罪が絶えないのはそのためだ。
大多数の意思が反映された社会に適応できない人間が、場合によっては犯罪という反社会的行動に走らざるをな得なくなるのは必然である。
つまり不適応である。

不適応が精神障害の根幹である。
全部ぶっ壊れて粉々になってしまえば、楽になれるのだろうか?
それとも苦しいことはまだまだ続くのか?
その向こう側へ行ってみたいと願う。
死にたいと願う人に死んで欲しくないと思うのは他人の勝手なエゴでしかないのだろうが、死んで欲しくないと願う人間ばかりが責められる。死にたいというのも所詮は本人のエゴでしかなく、エゴとエゴのぶつかり合いで、正しい正解などない。強いて言えば、他人の自殺を笑顔で見送って「よかったね。楽になれて」と心の底から言えるような人間でなければ、自分の死にたいという想いを押し通すのは単なるワガママでしかない。自分は死んでよくて、他人は死んじゃダメってのは身勝手極まりない。「自分も死んで良いから、あなたもどうぞ」でなければおかしい。本当に自分が大切に思っている人間に対して心の底からそう思えるなら、その人はいつ死んでも良いと思う。でもほんの少しでも死んで欲しくないという想いがあるのならば、その人は自殺する資格がない。「私には他人のことを思う余裕なんてない」なんて言って逃げるんじゃない。余裕がないのはみんな同じ。あなたの苦しみと私の苦しみを比べないで欲しい。自分の方が苦しんでいるなんて思い込んでいるのなら、さっさと死んでしまえば良い。くだらない人生、くだらない生命、さっさとゴミ箱に投げ捨ててしまえば良い。
人の命が地球より重いとは思わない。
人の命はお金で買える。でなければ医療は成り立たない。
命をつなげるために病院に行き、医師による診察、看護師による看護、薬剤投与、場合によっては手術といった医療サービスの対価として金銭を支払う行為はお金で命をつないでいる行為に他ならない。
人に値段はつけられないとは思わない。
皆、その人の能力、産み出すであろう利益、資格やそれに伴う権限を総合的に顧みて、賃金を貰ってそれを日々の糧としている。
能力や資格に応じて賃金に差が出るのは当たり前のことである。そしてそれはその人の値段に他ならない。

さて人身売買は悪だろうか?児童買春は悪であろうか?臓器売買は悪だろうか?
職業選択の自由があるだけで、現在も平然と人身売買は行われている。なにかしらのところから賃金を享受していない人間などいない。つまり人々はそれを意識せずとも、自分につけられた値段を貰って生活している。
売春は最も古い職業であると言われる。女性の身体はそれだけで値段がつけられ続けてきた。
現在の世の中にも身体を売らなければ生活できない人間はいる。単純に知能指数を比較してみても、IQが平均以下の人間のなんとも多いことか!とてもではないが、単純作業さえこなせない人間がこの世の中にはあふれている。自分の能力を基準として考えてはいけない。自分は普通だと思っていても、実は普通ではない人間はたくさんいる。
子供だから許されない?確かに幼少期の性的体験が成人してからの人格形成に悪影響を及ぼすことはいわれている。しかしそれはあくまで先進国、豊かな国での言い分である。豊かな国に生まれ、その国の水準でものを語るのであれば、確かにその国の水準として妥当な生育環境が整えられて然るべきである。しかし、豊かではない国の人間は?その親は?その子供らは?自分の子供に身体を売らせなければ生きていけない人間も確かに存在するのである。その人たちが自らの命を食いつなぐために自分の子供を商品として売ったとして誰が責められようか?
最も原始的な話をしよう。私たち人間はいわずと知れたこの地球という惑星で、自然界の食物連鎖の頂点に立つ存在である。このことはつまり我々は日々何かしらの命を奪って、自らの命を食いつないでいるのである。それを我々は忘れてはならない。
自分の命を食いつなぐためにみんな必死で生きている。それは貧富の差、国境、人種、肌の色、どれをとっても変わりはない。命とは利己的なものである。自分の命を食いつなぐので精一杯なのである。
ここにきて豊かさが生まれ余裕が生まれた。それゆえに他者をいたわる道徳心が生まれた。しかしそれはあくまで余裕の産物であり、生命本来の姿ではない。

自らの命を食いつなぐために自分の身体を売る、臓器を売る、子供を売る。そうしなければ生きていけないからそうしている。豊かで余裕のある人間の文脈でこれらの事象を語ってはならない。正しい、正しくないではないのだ。生きるために必要だからやっているのだ。それしか方法がないからそうしているのだ。

ではみんなが豊かで余裕のある環境になればいいのか?果たしてそれは可能なのか?おそらくこの点は数多くの識者をマルクスがいまだに引きつける所以であろう。
しかし私は思う。私よりも明らかに能力の低い人間が、私と同等の賃金をもらえる世の中を私は正しいとは思えない。もちろん私より明らかに能力が高い人間と私が同等の賃金をもらえる世の中であれば、私はこの世の中をありがたいと思うだろう。

私もただ一つの生命。食いつなぐために必死なのだ。
生きるということ。
「これでいいのか?」と何度も何度も自問自答する。
自分が通ってきた道を振り返って、少しでも良い出来事があったことに気づかされたとき、きっと自分の通ってきた道はそんなに悪くはなかったんだと思う。
自分の道を切り開いているときには必死で気づかなかったことが、振り返るとよくわかることがある。
少しでも他人を幸福にしたのならば、私の辿った道にも価値があるのだろう。
生きるのが辛い。
おそらくだれもがそう感じている。
生命はそれを維持するために大きなエネルギーを必要とする。
生きる辛さとは、そのエネルギーを必要とし、生きているという状態を維持することのたいへんさなのだろう。
この顔、この身体、この声が周囲の風景と同化するように溶け合い混ざり合って、私という存在が見えなくなって、拡散して、広がっていけば、生きる辛さはきっと水に薄まるように感じなくなるのだろう。
生命は生きる状態を維持するだけで、私という存在をある一定の場所に固定する。
私たちは少なくとも生きている間は、その場所に否応無しに止まらざるを得ない。
生きることが辛いというのは止まることが辛いということなのかもしれない。
自由を求めているのではない。私という生命を維持し、私という個体に固定され、どんなに苦しくともそこに止まらざるを得ないことが苦しくて耐えられないのだ。
死は自由への扉であるのか?ひょっとしたらそうなのかもしれない。少なくとも私という存在を限定させるものから解き放たれる瞬間であるかもしれない。
その扉を開けたいと願うのならば、私にそれを止める権利も権力もない。
この世界に溶け合って混ざり合って拡散して広がって、きっと楽になるのだろう。
いや、きっと楽になったことも気づかないのだろう。
あらゆる思考、感情、肉感から放たれた世界。
きっとそこにはなにもない。
その世界を怖いと思うのは、私たちがまだ限定されたこの世界に存在するから。
さて扉を開けようか?
コーランを燃やす、国旗を燃やすなどする人たちは、それが「インパクトの強い方法である」ということを「知っていて」やるのである。つまりそこに和解や話し合いの余地はなく、一方的な主張のみがそこにあるのだ。ならばその行為は平和と最も離れた対立・抗争という一極に位置するため、そんなことをしている人間が望む平和は他罰的で他責的でいつもお偉いさんの顔を伺うような世界になる。そこに人間相互の信頼や協調は存在しない。つまり平和を訴える人が最も平和的でない社会を平和な社会として押し売りしているだけなのだ。