AIに負けない子供を育てる 新井紀子
前作、「教科の読めない子ども達」はかなり衝撃的な内容で、現在の大学入学共通テストにも大きく影響していると思う。それに比べれば、今回の本は著者が発案したリーディングスキルテストの分析に基づく、読解力に対する考察であり、それほど大きなインパクトはなかった。しかし、ハッとさせられる部分もあったので、そこを抽出しておくことにする。「日本の教育は知識の詰め込みだ。」「大学入試は暗記が重視されている。」というのはデータに基づかない思い込みに過ぎない。入試は読解力を求めているのに、読解力が不足している人は暗記に走らざるを得ないということだ。加えて、少子化の中で暗記でも入学できてしまう大学が出現したからである。 教育改革についての話になると知識詰め込み対する恨みのようなものを感じる。新学習指導要領でも、詰め込み教育への反省から、知識・技能だけでなく、思考力/判断力/表現力をつけなければいけないとことさら強調されている。新テストでの記述式テストの導入も同じ文脈から発生してきた。しかし、現場の教師からすれば、知識はとても大切であり軽視してはいけないし、そうは言っても、テストでは暗記だけで解けるわけではないというのは常識である。センター試験を暗記だけで解けるなんて思ったら大間違いである。英語をとっても、ここ10年の試験は手を変え品を変えて、現場の教員がうなるような作品に仕上がっています。確かに、以前は英語力はないが、努力でたくさん暗記するとそこそこ取れましたが、今では読解力がなければ太刀打ちできません。逆に、英語力がなくても読解力があれば解けてしまうことが難点と言えば難点ですが。読解力のある生徒なら、「読めば分かるじゃん」というような問題でも、読めない生徒は解けないのです。 日本の学力が高いので、世界の国々が1980年代に日本に視察に来て、班活動に注目した。現在それが「アクティブラーニング」という名前で逆輸入されている。 これは知らなかった。しかし、日本人というのは舶来ものは素晴らしいと思ってしまう、悲しい性があります。少し前はフィンランド教育が素晴らしいとかで、たくさんの日本の教育関係者が視察に行きました。最近ではこのアクティブラーニングがはやりで、1時間ずっとダラダラ生徒がおしゃべりしているような授業がよく見られます。何のまとまりもないまま、おわっても「オープンエンド」という魔法の言葉でやり過ごしてしまいます。今まで、最近のアクティブラーニングに懐疑的でしたが、その理由が分かったような気がします。つまり、やり過ぎなんですね。今までやっていた班活動くらいがちょうど良かったのに、「アクティブラーニングがいい!」となってしまい、真面目な先生方が、今まで以上に活動を増やしてしまったのかも知れません。個人的には1時間で10,15分くらいがいいのではないかと思っています。 落ちこぼれをなくそうと、ノートをとるスピードが著しく劣る生徒に合わせて穴埋め式のプリントなどを作成した結果、キーワードだけみる。ノートが取れないといった悪影響が残った。学生の知的レベルが下がったと感じたのは、生協にコピー機が導入されたときだった。ノートに写すという退屈な作業を機械に頼ることで自分自身の質を低下させていたのかも。 能力差というのはいろいろなところに出てきますが、スピードには顕著に表れます。同じ事を書かせても、早い子と遅い子では倍以上の差が出てしまいます。黒板を見ながら一語ずつ書き写している生徒は厳しいですね。しかし、そういった生徒に同じように書かせる事は虐待に近いですのでしません。上位に合わせるか下位に合わせるかは難しい問題ですね。ほとんどの学校で、記述式の答え合わせの仕方を指導せずに生徒任せにしている。 これはいたく反省します。自己採点を課題にさせても、記述問題はほとんど×をつけてくる生徒が多い。どこが間違っているのかしっかり分析する方法を教えていけば、欠航勉強になるんだと思います。 Edtechに反対。AIには生徒の理解度に合わせて適切な課題を提案することは無理。AIは単に生徒の間違え方に応じて、ドリルの問題を最適化しているに過ぎない。間違える=理解していないと判断して、似たようなドリルを提示するか、間違いの箇所の解説を提示するだけ。 一般的な授業では、生徒が「なぜ上手く読めないのか」「上手く発表できないのか」の原因を取り除くことを考えずに、自分の読む、発表するを開陳して感心させているに過ぎない。生徒は「ああ、なるほど」と感心するだけで、自らのスキルアップにはつながらない。