⑧ 霊的治療能力の本源

 

 

つづき

 

 

霊的治療は昆虫の世界にまで及ぶ

 

 

 

 

しかしそれは治療の限界というものではなく、神想観や聖典読誦の効果は、霊魂が霊界に移行してからも、その霊魂に影響して、霊界に於けるかれの霊魂の生活状態が幸福になるのである。

 

 

霊的治療に限界がある如く見える場合は、治療家が、自分の肉體的エネルギー又は幽體的エネルギーの能力を強化して、自分自身が霊的放射器、又は霊的治療活動の振動装置になって、自分のエネルギーによって患者の病気を癒そうとするからである。

 

 

 

無論そのような場合には、治療家のエネルギーは有限であるからその「治し得る力」に限界があるのは当然である。

 

 

イエスはその神癒能力に限りがなかったように、色々の病気を治し或は死者を蘇生せしめためりしているのであるが、彼はその奇蹟的治癒又は蘇生を「自分がした」とはいわないで「われみずからにては何事をも為得ず、天の父われにいまして御業(みわざ)を為さしめ給うのである」といっているのである。

 

 

 

だから、イエス自身は、自分の治癒能力を強化する霊的ヴアイブレーター(霊的振動器)になるような修行をしてはいないのである。彼は弟子から離れてひとり山にのぼって祈るようなことをしているが、これは天の父と交通するためだったのである。

 

 

彼の治癒能力は彼の肉體力又は幽體又は霊體の力でなく、天の父から出ずるものであったから限りがないのであったイエスによる治癒は、信仰治療(Faith,healing)であったといえるのである。それ故にイエスは治病の目的で遣(つか)わされた弟子が、その治癒に失敗して帰って来たときに「汝ら信仰うすき者よ」といっているのである。そしてイエスは霊的治療能力を増強するためのメソツドについては、弟子に対して何事をも教えていないのである。

 

 

實相無病の立場からは「癌は治らない難症だというような」ことはないのである。神のつくらないところの病いは、癌であろうとも、それは本来ないのだから、完全円満な實相のみを想念すれば、そんな迷妄の産物は自然に消えるのである。それが消えないのは、

 

 

神のつくり給うた世界にはどんな病気もないのだ」という信仰の欠乏又は薄弱によるのである。

 

 

 

 

 

つづく

 

 

 

 

谷口雅春著「人間無病の原理」

 

 

 

 

 

☆ 徒(いたずら)に祈りを反覆するな


イエスは「祈るとき、徒らに言(ことば)を反覆すな。彼らは言多きによりて聴かれんと思うなり」と教えている。これは言を反覆していけないと云う意味ではない。「徒らに反覆」しては役に立たぬのである。言葉多く執濃くからみつくように懇請するから神がききたまうと思うのは間違いである。念佛三萬遍でも好いし、臨終の一念佛でも好い。ただ言葉多きがゆえにきかれると思うのは、言葉少なければきかれぬと云う恐怖心が内在する現れとも言える。思念の言葉を反覆するのは、自分の心の波長を調整する為である。