⑤ 霊的治療能力の本源
つづき
○神の子の實相を顕す
第七問の「患者を診断する必要があるか」の問題は、霊的治療を行うには医学的症状を診断する必要はないのである。症状は結果であり、患者の心の状態が病気の原因であるから、むしろ“心の状態”を精神分析的に観察する必要がある。
彼の心の状態が肉體に目象化して症状となってあらわれているのであるから、肉體の症状を知り、溯(さかのぼ)ってその症状の原因である彼の“心の状態”を察知することも出来る。
靈的能力ある治療家は医師の診断書を見ないでも、或は直感によって患者の症状を知り、あるいは患者の痛みや腫れものの訴えをきいて、それを基礎として彼の心の状態を指摘して、その誤れる「心の持ち方」「人生に対する考え方」等を正しき方向に導き、
憎しみや怨みや怒りを“感謝”の念に置きかえるように誘導するとき霊的治療を施さずとも、本来“神の子”なる完全なる實相が顕れて病気が癒えてしまうものである。生長の家では概(おおむ)ねこの方法を用いている。
またキリスト信者のうちには“罪の子”と教会で教えられた結果“罪の意識”より生ずる自己処罰によって病気をあらわしている者も多いので、“神の子”本来“罪”なしの真理の自覚に患者を誘導して、自己処罰を止めるように誘導する必要がある。
第八問の「異常な熱が施療者の掌から放射されるか」などは、そんな事はノンセンスな質問であって、熱放射などで霊的治療が行われるものではないのである。
第九問の「施療者は肉眼に見えない療能力線の如きものを放射する」の質問に対しては、手掌(てのひら)療法とか、触手療法とか、按手(あんしゅ)によって相手を癒そうとする術者は、ソ連の心理学者がみとめたミトゲン線という、きわめて透徹力の強い霊的放射を出すものである。
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第十問の「施療の後、施療者は疲れるか、活力を得るか」は、自分の力によってリキんで相手を癒そうとすると疲れるものである。(イエスは「力われより出でて汝に入れり」といっている)併し生長の家の如く實相円満の姿を心に描いて、患者と共に円満なる實相に融会(ゆうえ)する場合には疲れることなく患者と共に活力を増大することが出来るのである。
この事は第十二問の「施療者は、宇宙の智慧のプールのようなものと結ばれるのか。そしてそれは祈りによってー體化するというようなふうに」という質問に対する回答にもなっているのである。施療者は「宇宙の智慧のプール」に結びっいて“悪”の存在を否定するだけではなく、宇宙の無量寿の生命エネルギーに祈りによって結びついてー體化するのである。
つづく
谷口雅春著「人間無病の原理」
☆ 愛は繁昌の基である
愛はすべての繁昌の基である。愛は人をひきつける磁力である。愛のある店には人がひきつけられる。愛のある食卓は美味に満たされる。愛のために調理される食物は同じ成分であっても、それが人生健康に保持する力は強いのである。愛によって育てられる子供は健康に育っ、けれども愛とは執着することではない。愛は相手の神性を拝むのである。愛は相手を弱き者としていたわることではないのである。相手を完全なものとして、其のまま放つのである。信と赦と解放とである。