③ 霊的治療能力の本源
つづき
○誰でも施療者になれるか
そこで第四問の「誰でも施療者になれるものか、療能力は先天的なものか」という質問に対する答にうつるのであるが、イエスの如き超越的な療能力は先天的なものであるから、その真似は誰にでも出来るというものではないのである。しかし、誰でも多少は霊的治癒力を有するので、献身的な修行によって、その潜在せる各自に与えられた先天的霊能を多少とも顕在的にあらわすことはできるのである。
釋迦もイエスも、その霊能を発揮した以前に、深山に籠(こも)ったり、曠野(こうや)に露宿したりして、断食水行等の肉體を苦しめる修行をすると共に座禅瞑想又は“祈り”によって自然に精神統ーの修行が出来ていたのであって、それによって潜在的霊能力が発顕しているのである。
第五問の「霊的治癒能力を顕す通路にその人が成るためには、どんな素質がなければならないか」に対しては既に述べた通り、誰にも大小の相異はあるが、その素質はあるのである。しかし大なる霊的能力を発揮し得る者には、ヨガの行者がプラナと称したる如き霊的流動體(Spiriual,fluid)が先天的に多く賦与されている者でなければならないのである。
そのような素質を素晴しく多く天賦的に与えられているのは、生れ変りの過去のゼネレーションに宗教的修行を重ねて徳行を積んで来た者が、その因行の結果として与えられるのであって、現世一代に、「ひとつ霊的能カを発揮して、人を驚かしてやろう」とか「霊能によって金を儲けてやろう」などの個人的な欲得的な野心によって修行をして、自己の霊的能力が発揮されるというようなものではないのである。
第六問の「霊的治癒能力を発顕するチヤンネルとなるための修行には、どうすればよいか」は釋迦やイエスの行った通り、深山に籠り、又は曠野に露宿し、断食水行を重ね、更に瞑想と祈りによって精神を統一し、自己の肉體的意識を断滅して、宇宙普遍の神の太霊と瞑合する修行をするがよいのである。
但し深山幽谷に籠り断食して瀧に打たれる如き修行をしていると、時として透視能力や、自働書記能力や、天言通(てんげんつう)といって神示の如きものを自己の口より無意識に喋る能力や、時としては神足通(じんそくつう)と佛教でいう如き、飛行機も羽翼(うよく)もなくして空中飛行をなすごとき神秘的能力を得ることもあるけれども、
時には、“神の声”と称するものが耳に止め度もなく聴こえ来て、それがウルサクて日常生活を当り前に出来ない状態になって、精神分裂病患者として精神病院に収容されねばならぬことも起るのである。
このような症状を呈することが時として起るのには二つの原因があるのである。
人跡まれなる深山幽谷は神仙の棲家になっているのであって、そのような霊域に入って人間が修行するとき、神仙がその修行者を助けてくれて、その修行者の幽體が肉體から出遊して霊界に伴われて、霊界の色々の事象を見せられて、霊の修行の實際知識や進化についての知識を得たり、時には霊術を用いて治療を行う方法を教えられることもある。
幽體が肉體から出遊する修行を積むと、肉體は此処にいながら数千里又は地球の裏側にある地域にまでその霊魂は出遊して、縁ある人々を救うことも出来るし、その出遊によって遠隔にある事物や出来事を透視することも出来るようになるのである。
併し透視は人のプライバシーを犯したり、それを私利に利用したりするおそれがあるので、高級霊はその透視せる事實を肉體の記憶にまで持帰らせないようにすることが多いのである。
併し私などは自分の肉體の記憶にはないのに、私を見たことも、生長の家の話をきいたこともないブラジルの人に、私の姿があらわれ、その私から教を受けて救われた人人が、あとから私の肖像写真などを見て、あの夢の中にあらわれた人はこの谷口だったとわかったというような體験を今度私はブラジルに講習旅行に往ったときも、数人の講習生が、その体験発表のときに述べたりしたのである。
しかしこれは私の天賦の能力であって、別に深山幽谷で断食修行した結果ではない。もっとも私は青年時代、大本教にいた頃に、断食もしたし、和知川で毎日禊(みそぎ)のための水浴をしたこともあるが、これは深山幽谷ではなかったのである。
以上は深山幽谷で断食したり瀧に打たれたりして瞑想の修行をする場合の利点を述べたのであるが、しかし深山幽谷には必ずしも善意の神仙の霊ばかりが棲んでいないで、邪霊即ち聖書に書かれているevil,spiritc(“悪鬼”と日本語訳聖書にある)が住んでいて、自分の棲んでいる領域に人間が人って来たのを悦ばずに、人間をまどわしたり、霊的に危害を加えたりすることがある。
このevil,spiritの中には相当霊力があるものがあり、それらは、進化の程度の高い霊でありながら、脱線した方向に進化発達している者であって、イエスの修行をまどわすためにあらわれたサタンと称する霊や釈迦の修行を惑わすためにあらわれた悪魔波旬(はじゅん)という霊などは、邪道に進化した霊力ある霊である。
このような霊力ある邪霊又は善霊が住んでいる深山幽谷で断食修行をするならば、断食の効果として肉體の力が減ずるために、、邪道に進化」た霊カある霊であるために、霊波の影響に感応し易くなるので、善霊の影響を受けるならば霊覚者又は霊能者として、宗教の教祖的な力を得ることも可能なこともあるけれども、
邪霊の悪意ある霊波の影響を受けるならば、一種の憑依(ひょうい)状態になり、二重人格的な精神分裂症になったり、始終くだらない霊聴にわずらわされて健全な日常生活が送れなくなることもあるから、深山幽谷で、断食して肉體の體力を消耗(しょうこう)し、容易に邪霊(evil,spirit)が憑依(オブセス)し易い状態にならしめることは避ける方が賢明であるのである。
つづく
谷口雅春著「人間無病の原理」
☆ 神がすべてなりと観ぜよ
毎日毎日神想観を行じ、神がすべてであり、神と、神の創造せられたる世界と人間との完全にして美しく妙なることを念想せよ。その念想を継続しているうちに、真に「神がすべて」であり、一切の不完全なるもの、不調和なるもの、醜きもの、病気、反感、災難などは存在しないものであると云う確信が自分の潜在意識の奥底までも湧き起こって来るのである。その時次第に(時としては忽然)その人の周囲は光明が輝きはじめ、健康は回復し、すべての人は自分に好意を示しはじめるのである。