③ 霊的治療能力の本源
つづき
○信仰治療(faith,healing)
信仰治療には人間を介することなく霊地、霊場、神社、斎場(道場)等に入るだけで、或は、その地を踏むだけで、突如として病気が消えてしまうことがある。
その最も顕著で世界的に有名なる實例は、フランスのルールドの聖泉に唯浸るだけで浸る前の重症患者が聖泉に浸って岸にあがると、既に症状が完全に消滅治癒していた實例などをロックフェラー研究所の外科医長、故アレキシス・力レル博士はその光景をみずから目撃して、『人間・この未知なるものの』“Man,the,Unknown”の高著を書いたのであった。
生長の家でも「本部の練成道場や宇治別格本山の練成道場等の、その神域に入るだけで慢性病が忽然と癒されたというような實例が屡々(しばしば)出て来るのであるが、これは神域又は霊域に充満せる“癒し”の霊的波動によって、病念が中和消去せられるものと解されるのであって、
ガーデナー氏の第一問の、
「療能カを活用するには何故人間というチヤンネルが必要か」という質間以外に属するものであって、人間を媒介とせず、神域又は霊域の神癒的雰囲気が直接、患者に作用するものなのである。
神域又は霊域の神癒的雰囲気は如何にして生ずるかという問題になると、偉大なる宗教運動が、高級霊界の計画によって現實界に人類光明化運動としてはたらきかける場合には、その主働高級霊を中心に無数の高級霊のグループがその光明化運動に参加するのであって、
それらの多くの高級霊の中には治病にすぐれた霊たちもあり、それが、神域に入り来たれる病人に奇瑞(きずい)を見せて正しい信仰に導こうとして、奇蹟的治癒をあらわして見せることがあるのである。ルールドの治病奇蹟や、生長の家神域に於ける神癒現象の如きはそのような高級霊群のはたらきだと察せられるのである。
そこでこの次に、第三問の「これ等の心霊治療能力は、それぞれ別個のものであるか」という問題への回答が出て来るのである。人體磁気を利用して患者を催眠状態に陥れて暗示によって病気を軽減するMagnetic,healingは、心理学的暗示効果であり、これは催眠術の上手な人なら誰でも出来るのであるが、その効果は永続的ではないのである。
また術者に霊的治癒力の天分があり、イエスが生れつき盲目の少年を癒やして開眼したような種類のSpiritual,healing,は、その個人に属する天賦的霊能であり、信者が信仰心をもって、宗教の本山やルールドの如き神域に近づいて癒される神癒(faith,healing―信仰による癒し)とは、また各々別種の範疇(はんちゅう)に属するものである。
これらの三種の治癒は、その治癒力の発する根源が各々異なるものであり、催眠治療は人為的なものであるが、その他の二つは人為を超えたものであるから、それを術者が併用するなどという不純なことはできるものではないのである。
しかしイエスの治病奇蹟の跡を顧みると、イエス個人に天賦的に与えられた神癒能力に加うるに、「汝の罪赦されたり、起ちて歩め」とか「死せるに非ず眠れるなり。起きよ」というような積極的な言葉の力で、長年のイザリを起ちて歩ませたり、死者を蘇生せしめたりしている行蹟を観察するならば、イエスは天賦的な治病の霊能力をもっていたほかに、無意識的に“言語暗示”が併用されていたと解釈できぬこともないのである。
つづく
谷口雅春著「人間無病の原理」
☆ 人の病気を治すには
人の病いを心で治そうと思ったならば、その病気を見てはならないのである。此処に治療を要する病人があるなどと思ってはならないのである。観たとおりに現れるのが心の法則であるから、吾々が心で彼を病めりと観るならば、彼は依然として病いの状態でつづくであろう。病気の存在を信ぜず、又見ざるところの人のみが病気を消滅することが出来るのである。何処にも神のつくらない病気などは存在しないのであり、そんな病気に罹(かか)っている人も存在しないのであると見なければならぬ。