⑫ 〝記憶〟と〝業〟の問題について)
つづき
○受難禮讃に堕してはならない
このように、難事が出て来ても、暗い心にならずに明るい心に転ずるのはよろしいが、是が「受難禮讃」という様になるといけないのです。難を受ける事が有難いと云うので、「不幸が来る方がいい」「人間が苦しむのを神が悦び給うのだ」と云う考えになると、それは又不幸を呼び寄せるという事になります。
我々は人類共通の意識の波動的ツナガリの中に生活しておりますから、自分に「困難を欲する」とか、「苦しみを欲する」とか云う様な念願がありますと、その欲する希望の波が宇宙全體に拡がりまして、その苦難を實現するに恰度適当な要素を引寄せて来ることになるのであります。
恰度、単細胞動物が自分に必要な食物を触手を伸ばして、つかみ取って来る様に、その様に眼に見えないけれど、眼に見えない心の波の触手を伸ばして、自分の心に欲し描くものを引寄せて来るという事になるのであります。だから、「難有り、ありがたし」も「不幸が来た方がいい」という様な受難禮讃になってはいけないのであります。
私が島根県地方へ講習に行きました時に、汽車に乗って窓から外を見ておりますと、私を出迎えのため同乗せられた島根県の幹部の人が松江中学の校舎を指さして、「あの中学校長先生は山中鹿之助を崇拝しておって山中鹿之助が三日月を拝んで、『吾に七難八苦を与え給え』と祈ったというが、人間はよろしくあの山中鹿之助の如くでなければならない。
人間は苦しみに耐えなければ向上出来ないから、苦しみを迎える心がなくちやいかん、と云う訓辞を常に生徒に与えておられたのですが、すると松江中学は二度も火災に罹(かか)って焼けてしまったんですよ「と言っておられましたが、そういう様に、苦しみが欲しい、それが私の希望であるという様になりますと、眼に見えざる潜在意識の触手を動かして苦しみを引寄せるという事になるのであります。
だから、「難有り有難し」と云うのは、そんな難を引寄せて来るのが有りがたいのじやいけないのです。「難」になる因(もと)の、この「業」というものが、潜在意識の世界に記憶としてその具象化のエネルギーが残存している場合、そのエネルギーは形に現れたら消えるだから、今「難」が形に現れたことは「ああ有難い、これで悪い“業”が消えた」と感ずるのなら好いのです。
そして「今まで潜在しておったところの苦難の出て来る原因は消えてしまったから、もう出ないのだ」という観念に振り替えてしまう。そうすると我々の心の中が明るくなって、幸福を呼び迎える精神波動が新たに出来たという事になるのであります。
つづく
谷口雅春著「人間無病の原理」
☆ 昨日は一日マイナスの業が出て朝から晩まで仕事をしていました。どういう事かと言いいますと私しの恩師のような先生から素晴らしい手紙をずいぶん前に貰っていまして早く返事をと思いながら、とにかく朝から夜まで働いていまして、又それだけではなく幾つも渋滞していましてそれを先日の13日のたまの休みに全部処理しました!だいたいこういう事をすると自壊作用が来ますね!笑!朝からバスに乗り遅れるは!笑、やる事なす事失敗ばかりでして結局ブログ作る時間も力もなく休ませて頂きました。そのかわり今朝から奇蹟的な良い事ばかりで、要はやるべき事を処理しなかった事はマイナスの業といいますか、それを処理したのは徳積みになりますので悪い業が消えた後はいい事がどんどんやって来るという事で久々に友人から電話あり昼からデパートの食堂で食事しながらビール飲んで帰ってきました。笑!ビール昼間から?美味しくて楽しかったからよしとしましょう!私はすべて良い方に勝ってに解釋しています。笑!笑いましょう!笑えばおかしく楽しくなるするとおかしく楽しい事がやってきます!笑!