人生は神生なり

                    藤原敏之先生

                    すべてを癒やす道より

つづき

 

過去ばかりふりかえるのは幽霊

 

 

 

私もじっと我慢して聞いていましたが、大分最近の話になりましたので、「おばあちゃん、それで終いかね」とききますと「へぇ、ざっとそんなことですわ」といってケロッとしておられます。

 

 

 

「おばあちゃん、あんたこんな人と知ったら結婚するのじゃなかったと、そればかりいって四十六年間の出来ごとを愚痴ばかりいって後悔しておられるが、どんなにいってみても思ってみても四十六年間のこと、どうすることも出来ないでしょう」と申しますと「そうなんです。だからくやしいのです」とまたいっておられます。

 

 

 

こんなのを後向きの生活といいます。こういうのを幽霊というのであります。とうの昔にすんでしまったことを、しっかりとつかんで放そうとせず、心はいつもその方にいっておりますから、前進も何も出来ません。

 

 

 

今の現実と完全に遊離して、ありもしない空想だけに生きているのであります。幽霊の絵をごらんになりますと、大抵は顔が後向きになっております。手はニューッと前の方に出ており、足はないのです。よく昔から幽霊か幽霊でないかは足をみればわかると申しますが、それはあのような姿をした幽霊がいるというのではありません。

 

 

 

迷っている人の心を分析してそれを絵にすると、あのような姿になるというのであります。顔が後向きというのは、いつもすんだことばかりを心でつかんでいて、「ああしなければよかった。こうするのではなかった」と後悔ばかりしているのであります。

 

 

 

また、手だけが前に出ているのは、まだ来ておらぬことを、いろいろ心配し取越苦労ばかりしている人であります。すんだことも、まだ来ておらぬこともどちらも空想であり、現実ではありません。つまり、ありもしないことを、あるかのように錯覚してその想いに縛られて動きがとれなくなっているのであり、これを迷いというのであります。

 

 

 

まったく空想だけに振りまわされていて、現実がお留守になり、今に生きていない、つまり大地に足がついていないのを象徴して足のない絵が描かれているのであります。幽霊が前にむいて、大手をふって歩いている絵などみたことないでしょう。

 

 

 

そのような姿の幽霊がいるのではなく、心があのようになっている。心が迷っている生きた幽霊が沢山いるということになりますから、よく反省し内観して幽霊にならないよう心がけて頂きたいものです。

 

 

 

長々とかいたおばあちゃんの物語をおよみになり、何かお感じになることはありませんが、今おばあちゃんが病気で苦しんでおられる姿が話しの中にアリアリと描かれているでしょう。

 

 

 

私がおばあちゃんの悲しいつらい立場をおもい、「おばあちゃん、あなたの主人というのはずいぶんわけのわからないわがまま勝手なしかたのない人だね」というと得意げに「へえそうなんですよ」と申されます。

 

 

 

今度はまた「おばあちゃん、あなたという人はよくも我慢しましたな。辛抱づよい人だね。よくもそんな人と四十六年間も暮らしてきたね」と申しますと、嬉しそうに「はい、世間の人はみなそないにいってくれはりますわ」と、得々としておられます。

 

 

 

こういう人にまるきり反対の真理をお伝えするのは一番むずかしいのであります。反省も内観もくすりにするほどもありません。自分は絶対にわるくない、と思いこんでおられます。わるいのは相手だけであります。こんなときにウッカリ「あなたがわるい」などといえばそれこそ前記の農家のおかみさんのように、いっぺんに怒らせてしまい、二度とよりつかなくなります。

 

 

 

そこで私は静かに祈りまして、「おばあちゃん、今日はせっかくきて下さったが帰って下さい。話はやめますわ」といいますと、おばあちゃんは目を丸くして「どうしてでござんすか?」といわれますから、「どうしてといっても、道徳的立場からいったら、何でも我慢し、こらえた方が絶対にえらいということになります。

 

 

 

形だけみたら、おばあちゃんは絶対にわるくない、好き勝手なことをし、でたらめをしている主人がわるいと、軍配はおばあちゃんに上ります。それは、道徳は形だけをみて、形で善悪を決めるからです。宗教はそれとはちがいます。形よりも心に重点をおくのです。

 

 

 

形は心の影であり、心で形をつくるのだという教えでありますから、私は今日道徳の立場で話をせず、宗教の立場でお話をすることになります。そうすると、今あなたは、おじいちゃんはとんでもないわるい人だといえば喜び、あなたはよくもまあ我慢したね‐といえば気をよくしているでしょう。

 

 

 

そこへ私が、あなたが間違っているといえばあなたは怒るに決まっている。怒らせるくらいなら、いわない方が、ずっとましだから、あなた、気持のよくなったところでこのまま帰って下さい」と申しますと、「まあそういわずに話して下さい」といわれます。

 

 

 

「だって怒らすようなことなら、いわない方がいいじゃありませんか」と重ねて申しますと、「怒りはしませんから、話してみて下さい」と頼まれます。「きっと怒りませんか?」と念をおしますと、「絶対に怒りません」と確約されるので「それでは話しましょう」といって次のようにお話したのであります。

 

 

 

つづく

 

 

 

☆ 今日のところを読んで以前書いたと思いますが、どうしても赦す事が出来ない事がありました。それまでの私はベテランですからどんなに頭に来ても、赦しの神想観(座禅)を30分もすると赦せました。それがどうしても赦せなかったのです。それが今これを読んでいて、相手が悪い、私しは悪くないと思っていましたが、その問題が起こる何年も前にいざこざがあり、その時は私にも悪い部分があった事を今分かりました!笑、喧嘩になるのは両方に原因があるということです!笑!喧嘩は自分が正しいと思っている時に起こります!笑!

 

 

◉ 今日は、過去ばかりふりかえるのは幽霊とあります。

 

こんなのを後向きの生活といいます。こういうのを幽霊というのであります

 

まったく空想だけに振りまわされていて、現実がお留守になり、今に生きていない、つまり大地に足がついていないのを象徴して足のない絵が描かれているのであります

 

よく反省し内観して幽霊にならないよう心がけて頂きたいものです。

 

長々とかいたおばあちゃんの物語をおよみになり、何かお感じになることはありませんが、今おばあちゃんが病気で苦しんでおられる姿が話しの中にアリアリと描かれているでしょう。

 

◉ 昨日のブログの最初の方におばちゃんの病気が書いてあります。病気は象徴ですから病気を見ると、どう云う心かという事が分かります。

 

 

自分は絶対にわるくない、と思いこんでおられます。わるいのは相手だけであります

 

◉ ほとんどがここですね!笑!自分は悪くない、相手が悪い!

 

 

道徳的立場からいったら、何でも我慢し、こらえた方が絶対にえらいということになります。

 

道徳は形だけをみて、形で善悪を決めるからです。宗教はそれとはちがいます。形よりも心に重点をおくのです。

 

◉ 心が変わる事により病気や問題が治ると云う事です!