人生は神生なり

                   藤原敏之先生

                   すべてを癒やす道より

 

 

四十六年つづいた夫婦不和をうちあける 

 

 

 

これも大分古い話でありますが、私がまだ広島県の呉市におりました頃、昭和二十五、六年頃のことです。私は毎朝の早朝行事と日曜講演をずーっとしておりまして、昼は勤めがあるので個人指導は日曜日だけにしておりました。

 

 

 

ある日曜日、早朝行事も終り、教化部の事務室で休んでおりますと、一人のおばあちゃんが入ってこられまして、「私は○○町の○○というて、ここへチョクチョク来ておる嫁のところのババでございますが、どうでも一ぺん指導してもらえと嫁がいいますので今日はお邪魔しました」と挨拶されます。

 

 

 

このお嫁さんというのは熱心で、ときどき自転車にのって早朝行事にも来られる方であります。それでとりあえず、個人指導の部屋に入ってもらったのであります。問題というのは、

 

 

 

三年も前から神経痛で左の手が自由に動きません。それに痛くて痛くてどうにもなりません。その上、頭がわれるように痛んで鉢巻きでもしていないと我慢出来ないほど痛むのです。いつも頭に石臼をかぶっているようで目をあけておれないのです。1日おきに病院に通っていますがどうしてもよくなりません。

 

 

 

それで困りぬいておりましたら、嫁がいいますには『おばあちゃん、三年も病院に通っても治らないで苦しいなら一度生長の家で個人指導してもらってはどうですか』と申しますので今日は思い切って上りましたのや。どうぞよろしゅうたのみますわ」といわれます。

 

 

 

私はだんだんお話をきいておりますうちに、゛あぁ、これはきっとご夫婦が不調和だナー゛と感じましたので「おばあちゃん、ご主人あるの?」とたずねますと、キョトンとして「えー、主人は一人おることはおるんですけど…」といわれますから、「一人あれば結構やがな。どお?仲はいいのかね?」と水を向けてみますと、

 

 

 

「なんのなんの、仲良いどころかとんでもないクサレおやじで、私は大馬鹿をみましたよ。いい年をして、七十歳にもなって、二十五になる女をかこい、今どこにいるかわからんのです」といわれますから、なるほど「一人おることはおる」といわれた意味がはじめてわかりました。おることはおるが、今はどこにいるかわからないということらしいのであります。

 

 

 

それで私も「へぇー、たいへんなご主人やねー」と申しますと、「へぇー、このクソおやじのために、一生苦労のし通しですわ」といいながら、結婚当時からの長い物語を口からアワを飛ばしながら、雄弁に話されます。

 

 

 

「私がちょうど二十一歳のときでありました。仲人が『相手は海軍さんでそれは立派な人柄で堅い堅いまじめな人や。あんな人にもろうてもらえば、一生苦労なんかすることはいらん。ほんまに結構やで』と上手にすすめます。

 

 

 

会ってみればなるほど、まじめそうな青年士官です。親たちも『いいお人やで。あんなお人ならまちがいはない』と熱心にすすめますので、私もついその気になって結婚しました。当分は、まあまあよかったのですが、何しろ堅い堅いクソまじめな人でまるで時計みたいな人ですわ、

 

 

 

朝でも何時何分に起きて、何分に顔を洗って、何分に一服タバコを吸って何分に飯を食って何分に鞄をもって家を出る。毎日一分の狂いもないようにキチッと決まっておりますのや。軍隊の生活はその通り一分一秒の融通もきかないのであります。

 

 

 

私も朝は何時におきて何時何分にごはんを炊いて、何時何分にお汁をかけ、何時何分にお茶を沸かし、何分にごはんを出すという具合に主人に合わせて仕度をします。それを順序よく、無駄のないように運んで決まった時間までにちゃんと間に合わさなければいけないので朝は大変なのです。

 

 

 

ふだんのときは、それでよろしいのですが、前日お客さんでもあって夜おそくなったりして、ウッカリ朝寝坊するときがあると、サァー大変、大急ぎで仕度しなければ間に合いません。裏口にコンロ(七輪)をもち出して火をおこし、大あわてでごはんの火蒸しも十分に出来ずお汁も加減する間もないというとき、やっと用意をすませてチャブ台に並べて食事がはじまり、ちょっとでもごはんがあつすぎたり、お汁があつすぎたりすると何もいわずに二人のごはんやお汁やつけものやいっぱいのっているチャブ台に手をかけて、グラッとひっくり返しておいて黙ってサッサと出ていってしまうのです。

 

 

 

そんなときの悲しいことくやしいことといったらありません。一日中不愉快な想いでくらさなければなりません。叱ってくれるならまだよいのですが、気にいらぬと何もいわずにチャブ台なんか引っくりかえしておいてサッサといってしまうので、こちらはたまったものではありません。

 

 

 

そんなことがたび重なるにつれて、主人がわがままな短気な人だとわかりました。このような性格を急に直せといっても無理だし、そうだとするとこれからの長い一生をこんな悲しい辛いおもいで過ごさなければならんかと思うと不安でお先真っ暗です。

 

 

 

これは今のうちに別れて逃げ出す限ると決心したのですが、気がついて見ますと、身体に変調が来ていて、妊娠したとわかったのです。私は途方にくれました。サァーどうしたものか、このまま帰って子供を産めば父(テテ)なし子になる。

 

 

 

生んでおいて帰れば継母にかけねばならずどうしたものかと、思案にくれた結果、やはり私が泣いて我慢すれば子供を泣かせずにすまされる。私さえ犠牲になれは子供は助かる、子供を助けるためだと、あきらめて、そのままいることにしました。

 

 

 

おれば次々と子供が出来る、とうとう五人子供を生みました。子供の世話と、気むずかしい主人の機嫌とりに、とうとう四十六年、泣きの涙でくらしてきました。あのとき、仲人口にだまされさえしなかったら今ごろこんな苦労をせずに済んだものを…と後悔ばかりしております。

 

 

 

主人は海軍工厰(かいぐんこうしょう)を定年退職してから私にかくれて、次々と女をつくり今頃どこにいるかわからぬ始末です。何の因果か、私のような不幸なものはありません。」ここにかいていることはほんの一部でありまして、四十六年間の出来ごとをしゃべりまくり、私は゛この人は話をききにこられたのではなく、きかせにこられたのだナー゛と思いながら感心してきいておりました。

 

 

 

もっとも聞いて上げることも指導の上では大切なことであります。思いきりしゃべらせて、きいて上げると心の垢(ストレス)がとれて浄まるのでそれだけで病気の治る人もあります。

 

 

 

話の内容がだんだんと最近の話になってきました。「ついこの間も夕方、久しぶりにひょろっと帰ってきました。何か必要なもの、足りないものがあると、とりに帰るのであります。息子も嫁も機嫌よく迎えて『いっしょに御夕飯を食べていきなさい』とすすめますと『それじゃごちそうになろうかい』」といって機嫌よく食べておりました。

 

 

 

今思うと別ににいわなくてもよかったのですが、つい口から出てしまったのです、『おじいさん、あんたも世間体があまりよくないことをしているのだから無理もないけれども、家の者に居所ぐらいは知らせて下さいよ。家族に知られたくなかったら私にだけでも教えて下され。そうでないと何かことが起こったときに連絡のしようがないでしょう。

 

 

 

この間大阪の娘から電報が来たときでも、おじいさんに相談しなくては…と思ってもどこにおるかわからんではどうしょうもないでしょう。あのときは何とか息子らと相談して、かたづけられたからよいようなものの、もっと重大な事件でどうしてもおじいさんに相談しなければかたづかぬようなとき、どうしますのや。ちっとは私らのことを考えて下さいよ』といったのです。

 

 

 

そうしたら急に機嫌がわるくなり、また悪い病気が出て、私ら夫婦だけではなく息子や嫁や孫もいっしょに食べていたので台の上には沢山のお椀や皿が並べてあるのを、卓のふちに手をかけガッとひっくり返しておいてサッサと帰ったきり行方がしれないのです。

 

 

 

先生、私の身にもなって下さい。女は結婚運がわるかったら一生泣いてくらさなければなりません。あのとき仲人や親が『よい人や。よい人や』といってすすめるから、ついその気になったのが運のつきです」と四十六年間の主人の棚下ろしを並べられるのであります。

 

 

 

つづく

 

 

 

 

 

☆ 今日は夫婦不調和解消の体験です。

 

 

「私がちょうど二十一歳のときでありました。仲人が『相手は海軍さんでそれは立派な人柄で堅い堅いまじめな人や。あんな人にもろうてもらえば、一生苦労なんかすることはいらん。ほんまに結構やで』と上手にすすめます。

 

◉ ここですね!以前、飛田給道場の総務(医学博士)の徳久先生は職員の結婚相談には絶対のらないと笑ながら言っておられました。女の職員が徳久先生に男性の写真を見せてどっちが良いですかと聞いてくるが、私は貴女の男性の好みがわからないのでわからないと絶対話にのりません。もし私しがこっちが良いと言ったら結婚した後で上手くいかなくなると、徳久先生がこっちが良いと言ったからと言われるので!と云う事です。笑!

 

 

◉ それから問題はここですね!

 

これは今のうちに別れて逃げ出す限ると決心したのですが、気がついて見ますと、身体に変調が来ていて、妊娠したとわかったのです。私は途方にくれました

 

私さえ犠牲になれは子供は助かる、子供を助けるためだと、あきらめて、そのままいることにしました。

 

 

◉ 結婚して上手くいかなくなった原因の解説は明日です。