信こそすべて  ―私の体験から―
                         藤原敏之先生

                         すべてを癒やす道より
 

絶対絶命のはてに
 

 

 

私は昭和二十一年二月末に中支から復員し、休職中の会社に復職、広島県尾道市の支店(営業所)の管理職で赴任しました。勝つものと信じていた戦争には敗け、食糧はない、何も彼も無いものづくし、三千年の歴史に輝く日本国の前途に対しても何の見通しも立たない。占領軍の意のままに、伝統も習慣全部変えられていく、日本の進路はもちろん、国民の生きてゆく方針も理想も、すべてを失ったのですから希望も喜びもあるはずもありません

 

 

 

敗戦によって傷ついた心で、ただその日その日を生きているというだけの毎日でした。生きているというより棲息といった方が一番当てはまるかもしれません。まるで、水を失った魚同然です。このように失意の状態にあったとき、はからずも生長の家のみ教えにご縁を頂くことができたのです。この前に出版して頂いた『あなたは必ず救われる』という本に、かなりくわしく書いておきました通りです。

 

 

 

私しは少年時代から、人生問題に真剣にとり組み、゛人生とは何か゛゛人生如何にに生くべきか゛゛争いのない平和な生活を送るにはどうすればよいか゛といった問題、また生来身体が弱く、医者と薬なしでは生きて行けないという、実に不安な人生に悩み、何べんか自殺も決意し計画もしました。

 

 

 

精神修養になることは片っぱしから手がけ、自分に納得いくまで徹底して実行しました。下座行がよいときけばすぐに飛びこんでやりました。宗教という宗教もほとんど関係しないものがないくらい一通り経験しました。それもよい加減にというのではなく、徹底してやりました。世間の人は私のことを、少年時代には考えこんでばかりいるので神経衰弱だといい、青年期にかけて私のことを゛気狂(きちが)い゛゛気狂い゛といっておりました。

 

 

 

何でも徹底的に究明し、腹の底から納得出来て結論が得られるまで、食うことも寝ることも忘れるほどやるので、一般の人は気狂い扱いにしてしまいました。専門的に勉強したのは仏教でしたが、少年時代から親鸞聖人を尊敬し憧れておりましたので、仏教学院で勉強しました。

 

 

 

本当の救いとは何か、本当の安心は如何にすれば得られるかに心血を注いだのです。しかしどうしても相対の救いしか教えてもらえるところがなく、多くは死語の救い、未来の極楽往生だけで現実の救いも根本的な救いの道も教えてもらえるところがなく、求道に疲れはてて、なかば諦めておりましたときに、世界最高のみ教えである生長の家に導かれたのです。

 

 

自分の力の限界がわかり、絶体絶命どうすることも出来ないという切羽つまった状態のときに示された真理の一言は理屈ではありません。お腹がへり切っているときに出された一杯のご飯はうまいもうまくないもありません。ただのみ込むしかありません。

 

 

 

私がはじめて生長の家のみ教えをきいたときの精神状態はまさにその通りであります。人間は神の子だ、そのほかの何ものでもない。肉体は道具であり、容れ物だ、その肉体さえも造り、肉体を使って生きている生命こそは本物の人間であり、その生命が宇宙をさえも造り、かくあらしめている不可思議霊妙なる神の生命そのものであり、人間の本体は神そのものであると教えられたときの驚き、全く驚天動地というのはこのことであろうと思います。

 

 

今の今まで、人間は肉体である、肉体は生身(なまみ)だから病むこともある、死もあると思いこんでいたのが、人間なるものの本性が神であり永遠生き通しの生命そのものであるとわかったのでありますから、まさに飛び上がらんばかりの転身であります。ただ泣きました。

 

 

 

「人間神の子」の一言で新生したのです。世界も変わりました。見るものことごとく神の生命であり、神であります。肉の世界から生命の世界へ、人間の世界から神の世界へ、現象の世界から實相の世界へと超人したのであります。

 

 

私だとばかり思っていたのが神様であったのです。神様は病気しない。神様に不可能はない。神様は困らない。この大自覚と絶対的な自信に到達したのでありますから、それ以来何が起こっても困るということのない自分にならせて頂いたのであります。

 

 

 

一切合財神からの授かりものであり、神からの賜りもの以外は無かったと気づかせて頂いたのですから有難くないもの等あるはずがありません。あるのは喜びであり、感謝であり、満足以外になくなったのです。

 

 

 

それ以来、三十一年病気で休んだことは一度もありません。一服の薬の御厄介にもなりません。谷口雅春先生のお説き下さる真理が絶対であり、ただの空理空論でなく、単なる理想論でもないことがおわかり頂けると思います。

 

 

この私の体験を通してみ教えをお取り次ぎさせて頂きますと、これまた不思議に医学や常識で絶対に治らないという難病奇病も次々に姿を消し、癒されるのであります。これだけはとうてい解決の方法はないとせられた難問題もスラスラと解決するのです。

 

 

 

唖(おし)がものをいう、何十年の分裂症が全治する、何年も立たなかった足が立つようになる。長年の盲が目が見えるようになる…など奇跡というより仕方のないことが続々と現われるのです。

 

 

 

これを見ても人間の常識なんて、ほんとうに当てにならぬものだということがわかります。

 

 

 

 

つづく

 

 

 

 

☆ 「真理は啞をも癒す」は当ブログ過去記事に載っています。(2020/07/05)