⑤ 最高の幸福を得るには

                       藤原敏之先生

                       すべてを癒やす道より

 

 

昨日の終わり

 

それは宗教がよいから、神様が特別に愛が深いからとか、神様がえらいから、力があるから、お願いをよくきいて治して下さったというのではありません。その人の心の状態、その人の信じた程度によって現われるのです。この薬はよく効くというのでも、それは薬という物質が効くのではなく、のむ人の信頼の度合い、信じた程度によるのです。

 

 

 

つづき

 

 

処方箋をのんで胆石が消えたおばあちゃん!

 

 

 

昔、長野県のあるおばあちゃんが胆石症というやっかいな病気にかかり、切開手術を受けなければ治らないと宣告され、身体も衰弱しているので大手術に堪えられるかどうかわからない。というので大変困っていたところ、東京の大学病院に真鍋教授という立派な先生がおられて、この先生にかかればどんな難病でも必ず治してもらえるときき、おばあちゃんは真鍋先生の診察をうけて、薬をもらってのめば、たとえ死んで本望だと思い立って、東京に行ったというのであります。

 

 

 

今とちがって特急列車なんかなく、長い時間かかってやっと東京につき、病院をたずねて、念願の真鍋先生のていねいな行届いた診察を受けました。先生からやさしい言葉で 

「おばあちゃん、よく来たね。心配するなよ。私が一番よく効く薬を上げるから必ずよくなるよ」ときかされ、

 

 

 

おばあちゃんは涙を流して喜び、心勇んで家に帰り、薬だといって渡された封筒入りの紙を鋏(はさみ)でていねいに切りきざんで薬土瓶に入れ、何時間もかけてよく煎じて、いわれた通り一週間分にわけて飲んだところが、手術をしなければ絶対に治らないと宣告されていた胆石症がケロリと治ったのであります。

 

 

 

あまりの嬉しさにおばあちゃんはじっとしておれず、また汽車にのってわざわざ真鍋先生に御礼を言うために東京に行ったのであります。真鍋先生は愛の深い先生で、忙しい中を会って下さり、「よかった。よかった」と一緒に喜んであげ、「おばあちゃん、あの薬のみやすかったろう」とおたずねになると、おばあちゃんは

 

 

 

「先生それだけはちょっと違います」と答えるので、先生は「そんなはずはないがな―」といわれましたが、おばあちゃんの説明をきかれて大変おどろいたというのであります。

 

 

 

大学病院などでは診察した医者は、たいてい処方箋といって薬の調合をするのに、何をどれだけ、何をどれだけという分量を書いた紙を渡します。その処方箋を薬局にもっていって薬を調合してもらうのですが、

 

 

 

おばあちゃんは田舎者薬といえば草の葉や木の根を煎じてのむことぐらいしかしらないので、封筒に入っているのがてっきり薬だと思いちがいして、その処方箋を煎じてのんだというのであります。

 

 

 

さすがの真鍋先生もこれに驚いたといいます。この話しは谷口雅春先生からおきかせ頂いたお話であります。 

 

 

 

このように信じてのめば、処方箋でも効くという事実によっても、病気などというどうにもならないものもあるというまちがった信念によって病気はつくられるのであって、病気というものが本当にあるのではないということがわかるのであります。

 

 

 

世の中には山の岩の間から湧き出る水を、弘法大師が杖でおつきになったらそこから水が湧き出したといって、その水をのむとどんな難病でもたちまち治ると宣伝して、お水をもらいに来る人のためにバスを運行させるほど繁昌しているところもあります。

 

 

 

その水をもらって呑んで実際病気の治る人も沢山あるのです。そしてまた、それを伝えきいた人が遠い所からでもお水を戴きにやってくるのです。河原から格好のよい石を拾って来て、ほこらでもづくり、しめ縄でも張って、うやうやしく礼拝して「この石をなでたら盲の目があく」「この石をなでた手で脚をさすれば立たない脚が立つ」と宣伝すれば、それは信じた程度に応じて、盲の目があき、いざりも立って歩けるようになるのであります。

 

 

 

このように世間には科学や常識ではとても考えられないようなことがいくらでもあります。宗教でなくても催眠術や気合術等でも、科学常識ではどうしても理解出来ないことが事実存在するのです。

 

 

 

石槌山や大峰山に登って修行する行者の中にも、精神力によってどんなことでも出来ることを証明しております。一日じゅう穴をほって護摩(火)をたいて、カッカッとしている火の上を素足で平気で歩いて、やけどもしないという火渡りの術というのもあります。

 

 

 

このように考えてきますと、心によってどのようにでも変化させることが出来るのであり、゛何がどうでなくては…゛とか゛どうしなければ…゛とかいうような特別な固定したことなどは何もないということがおわかりになると思います。

 

 

 

 

つづく

 

 

 

☆藤原先生が悟られた時の文章

 

  肉体は、人間が地上生活をするための道具であって、本当の人間は、これを造って使っているいのちが本当の人間だ。だから肉体のことをカラダといいます空だからカラダといいます。

 

缶詰めでも、中身があるうちは缶詰めというけれども、蓋を開けて食うてしもうて、ガンガンだけになったら缶詰めと言わないで、これは缶詰めの殻といいます。だから中身と入れ物とは別です。と言われる。

 

まことに理屈に合ったことだけ言われる。私は理屈こきだけに、一つ一つなるほどなるほどと納得していました。むこうの言うことが全面に正しくて、むこうが正しければこっちの考えは全部間違いだと壊れていくのです。

 

自分の考えが崩れていきます。両方正しいということはない、一方が正しければ一方は間違いなのです。それを今まで正しいと思いこんで、悩んで苦しんでおった。
 

自分の考えが全部違うんです。自分の考えはことごとく壊れていった。そうして私最後に「なるほどー!」とわかったのです。 

「こんなもん人間だという考えがいかんのです。みんなカラダカラダと言って納得しているんだ。空だからカラダというんじゃよ。空だから身がらという。

 

死んでごらん、なきがらになったというて、焼いて処分するでしょう。こんなもんは人間と違うよ!これを使って生きているいのちが人間なんだよ、神なんだよ!」 

これを聞きまして、私ははじめて本当の自分というのがわかったのです。

 

・・・省略・・・