③ 最高の幸福を得るには

                       藤原敏之先生

                       すべてを癒やす道より

つづき

 

 

○ すべての背後に法則がある

 

 

 

それでは一体幸福を願っていろいろな努力をしながら逆に不幸になって泣いたり、苦しんだりしなければならないのはどうしてでしょうか。

 

 

 

健康を願って注意に注意を重ね、用心しているのにどうして病気になるのだろうか。事故を起こさないようにと自分も家族も祈るように思って注意しているのに、なぜ交通事故に遭うのであろうか。いつまでも夫婦仲よく暮すつもりで結婚したのに、なぜ三月や半年で夫婦別れをしたり、明けても暮れても夫婦げんかをしなければならないのか。

 

 

 

健康で優秀な、世のため人のために貢献できるような立派な人間に育ってもらいたいと願って、世話して育てた子供が、どうして勉強嫌いや怠けものになって、親を泣かせたりするのか、このように数え上げれば、際限がありませんが…。このような矛盾がどうして生れるのか、わからない。わからないでただ迷うだけで、解決の道も方法も見当がつかないのです。 

 

 

 

世の多くの人はものごとが調子よく運ぶと運がよいと言い、はかばかしくいかないで悪い結果になると運が悪いと言います。何でもすぐに「運」「運」といわれますが、それでは「運とは何ですか?」とたずねると「運って運ですわな」だけで何もわかっていない。

 

 

 

だからちょっと調子がよければ有頂天になり、ちょっと調子が悪いと゛青菜に塩゛で一ぺんにしょげてしまうという、まるで七面鳥のように変るのであります。これでは不安で心配で仕方がないでしょう。

 

 

 

この運とは何かと申しますと、運とは゛運ぶ゛という意味です、運賃とか運送とかいう場合の運です。何が運ぶのであるかといいますと、それは法則であります。

 

 

 

この世界には法則なるものが厳然として存在するのであります。これはもちろん見ることは出来ませんが、見られないからないということはありません。一番手近な例でわかりやすいのは、皆様お互いの中に今現に生きて働いている生理の法則など、これはどんな唯物論者でも疑う人はないでしょう。またこれは疑うことの出来ない事実であります

 

 

 

無意識に、何も気づかずにいてもちゃんと息をしている。また心臓も動いている。食べたものをみんなちゃんと消化して、赤い血にかえ、肉にも骨にも黒い髪の毛にもかえているこの働き、この事実を否定する人はありません。

 

 

 

しかし、それが何ものの働きであるかはわかりません。ただ働いているのでありますが、それを一般には生理の法則とよんでおります。生理とは生命(いのち)の法則という意味であります。

 

 

 

また、この大きな重たい地球が空中にポッカリ浮かんでいて、しかも一日に一回転して夜と昼をつくり、一年間に三百六十五回も回転している。一体何ものの力であり、働きであろうかと考えてみてもわからない。そこで、専門の学者はこれは天体の法則であると言い、一般には自然だといっております。

 

 

 

 

 

善業の種をまくこと

 

 

 

このようにすべてのものは法則によって動いている。このように一切のものをあるべき姿に現わし、あるべき位置にあらしめている不思議な何ものかを宗教では神とか仏とか名づけて、親しみやすいように人格化しているだけなのです。

 

 

 

この法則を真理と呼んでいるのです。真理というのは、普遍の理、絶対の法則であるという意味です。平等であり、永遠にかわることなく、どこでも、いつでも誰にでも変わらない法則なのです。

 

 

 

この法則によって運命がつくられるのです。この法則は、万人に公平であり、平等であります。ちょうど乗り物のようなものであります。この法則に乗って信じて委せ切れば、誰でも思いのままに幸福になることが出来るのです。

 

 

 

仏教では、このことを因果律と申します。因果律とは、因縁結果の法則という意味で、善因善果、悪因悪果ともいいます。善い種(因)をまけば善い実がみのり、悪い種(因)をまけば、必ずわるいものが生えるというのです。このことを゛因果眩(くら)まさず゛といって、絶対にごまかしがきかぬというのです。また仏教では業ともいいます。善業は善果を現わし、悪業は悪果を招くと教えています。

 

 

 

また、その業をわけて、身・口・意の三業ともいい、身体で行なう業、口で現わす言葉による業、さらに心に思う業と三つに分類しています。その中でいずれの業が最も強く働くかといいますと、それは意業であるといわれております。

 

 

 

身体で行う業は一番軽いとされています。゛あの野郎、一つ殴ってやろう゛と思って追いかけても、一メートルもはなれたら、どうしても打つことはできません。十メートルもはなれていたら、どうすることもできないでしょう。だから身業というのは比較的軽いのであります。

 

 

 

次に重い業は、口業です。口で罵倒するのなら、少しぐらい離れていても「バカヤロウ、お前なんか死んでしまえ」とお声でどうなると、二、三十メートル向うにいても相手を怒らせることが出来ます。

 

 

 

次に最も重い、最も強い力をもっており、大きな働きをするのは意業であります。これは心で思うことですから、相手を呪い、憎むことは何万キロ離れていても通ずることが出来るとされております。この念力が、すべてのものを形の世界に造り出す、最も大きな力となり、働きをするのであります。ですからこの念力をまちがった方向に働かすと、とんでもない結果を招くことになるのです。

 

 

 

このように、私たちの運命や環境をつくり出す原動力となり、形の世界に現わす根本原因となるものは想念であり心であります。私たちを幸福にしたり、不幸にしたりするのは、心という乗り物、いいかえると心という運び手によることがおわかり頂けると思います。

 

 

 

旅行をするのでも乗り物を利用するでしょう。東京に行こうと思ったら、東京行きの電車にのるでしょう。九州にいこうと思ったら博多行きの新幹線を利用するでしょう。それなら、幸福になりたいと願ったら、幸福行きという乗物にのらなければ目的地には行けません。

 

 

 

運命をつくり出す心、目的に向って運ぶ心を正していかなければ、どんな方法で努力してみても幸福になることは出来ないのであります。願うことと、現われた姿、現実が食いちがっているということはどう考えても何かが狂っている、まちがっているという証拠です。

 

 

 

何度も言うことですが、畠に大根が生えたのを見て、何を蒔いたかよくわからないということはないでしょう。゛ああ大根の種をまいたな゛とわかります。それは生えたものは、まいた種の現われであるからです。

 

 

 

゛大根を作って、お漬物にしよう゛と思って、畠を耕し、種をまいて、肥料をやり、色々と世話をして出来たものがニンジンであったとしたらどうでしょう。こんなのを矛盾といい、これでは困るのです。願いと現実がくいちがってくるからどうしようかと行きづまりを感じ、悩み苦しむのです。

 

 

 

 

つづく

 

 

 

 

 

☆ 今日は「すべての背後に法則がある」「善業の種をまくこと」でした。