無門關解釋
 

   

無門後序(むもんこうじょ)


從上(じゆうじやう)の佛祖(ぶつそ)の垂示(すゐじ)の機縁(きえん)、款(くわん)に據(よ)って案(あん)に結(けつ)す。初(はじ)めより剰語無(じょうごな)し。腦蓋(なうがい)を掲翻(けいぼん)し眼睛(がんせい)を露出(ろしゆつ)して肯(あ)へて諸人直下(しょにんぢきげ)に承當(じょうたう)して他(た)に從(したが)って覓(もと)めざらんことを要(えう)す。

 

若(も)し是(こ)れ通方(つうはう)の上士(じやうし)ならば、纔(わづ)かに譽著(こちやく)するを聞(き)いて便(すなは)ち落處(らくしょ)を知(し)らん。了(つひ)に門戸(もんと)の入(い)るべき無(な)く、亦階級(またかいきふ)の升(のぼ)るべき無(な)し。臂(たゞむき)を掉(ふ)って關(くわん)を渡(わた)って關吏(くわんり)を問(と)はじ。豈見(あにみ)ずや玄沙(げんしゃ)の道(い)ふことを。

 

無門(むもん)は解脱(げだつ)の門(もん)、無意(むい)は道人(だうにん)の意(い)と。又白雲道(またはくうんいは)く、明々(めいめい)として道(だう)を知(し)る、只是(たゞこ)れ者個甚麼(しやこなに)としてか透不過(とうふくわ)なると。凭麼(いんも)の説話(せてわ)も也(ま)た是(こ)れ赤土(しやくど)に牛嬭(ごねい)を搽(ぬ)る。若(も)し無門關(むもんくわん)を透得(とうとく)せば早(はや)く是(こ)れ無門(むもん)を鈍置(どんち)せん。

 

若(も)し無門關(むもんくわん)を透(とほ)り得(え)ずんば亦乃(またすなは)ち自己(じこ)に辜負(こふ)せん。謂(いは)ゆる涅槃心(ねはんしん)は曉(あきら)め易(やす)く、差別智(しやべつち)は明(あきら)め難(がた)し。差別智(しやべつち)を明(あきら)め得(え)ば、家國自(かこくおのづか)ら安寧(あんねい)ならん。 


時(とき)に紹定改元解制前五日(ぜうていかいげんかいせいぜんいつか)

楊岐八世(やうぎ八せ)の孫(そん)、無門比丘慧開謹(むもんびくゑかいつゝ)しみて識(しる)す。


 

 

 

解釋(かいしゃく) 

 

 

從上即(じゆうじやうすなは)ち上(うへ)に揚(かゝ)げたものから第四十八則に至るまで、佛祖(ぶつそ)の垂示(すゐじ)し給(たま)へる機(き)に據(よ)りて眞理を示したのであるが、それは罪人の白状(はくじやう)(款(くわん))に準(したが)って下す判決文(案)のやうに簡單明瞭(かんたんめいれう)にしめ括(くゝ)ってあって、始めから一語(ご)の剰語(じょうご)もないのである。

 

 

 

「腦蓋(なうがい)を掲翻(けいぼん)し眼睛(がんせい)を露出(ろしゆつ)して」と云ふのは頭蓋骨(づがいこつ)てふ蓋(ふた)を掲翻(はぐ)って、眼(め)の玉(たま)を引出(ひきだ)して了(しま)ってと云ふ意味である。

 

 

 

吾々の五官智による認識は相對認識(さうたいにんしき)であって、ものそのものの絶對認識ではない。吾々の視(み)てゐる世界が今あるが如(ごと)く見えるのは眼球(めのたま)が圓(まる)いためにさう視(み)えるのであって、眼球(めのたま)がハート形であったり、長楕円形であったりしたら全然別の相(すがた)に見える。

 

 

 

また吾々の眼球(がんきう)のレンズの度が顯微鏡的(けんびきやうてき)な廓大度(くわくだいど)をもってゐたとするならば、今まで塊(かたまり)だと思はれてゐたものが瓦斯體(ガスたい)のやうな稀薄(きはく)な體(たい)を備(そな)へてゐるやうにも視(み)えるのである。だから吾々が本當(ほんたう)にものそのものを絶對認識しようと思ったならば、「他に從(したが)って覓(もと)めざらんことを要す」であって、他物(たぶつ)を介(かい)して相對認識してゐるやうなことでは駄目である。

 

 

 

「直下(ぢきげ)に承當(じようたう)して」實相そのものに直接觸(ふ)れ合って、それをそのまゝ承當(うけいれ)ることが必要なのである。若(も)し汝が通方(つうはう)の上士(じやうし)(十方(じつぽう)に自在(じざい)を得(え)た達士(たつし))であるならば「纔(わづ)かに譽著(こちやく)するを聞いて便(すなは)ち落處(らくしょ)を知らん」だ。

 

 

 

譽(あが)るか著(つ)くか大刀風纔(たちかぜわづ)かに三寸(ずん)にして、その刅(やいば))が何處(どこ)へ落ちて來(く)るかが判(わか)る筈(はず)なのだ。大道(だいだう)は自由自在であって、「了(つひ)に門戸(もんこ)の入(い)るべき無(な)く」その段階を通(とほ)って行かねばならぬと云ふやうな「階級の升(のぼ)るべき無(な)し」である。階級を昇ってゐては無限の高さに昇ることは出來ぬ。

 

 

 

たゞ實相無限の高さに昇るのは一躍超入如來地(いちやくてふにふにょらいぢ)のほかはないのである。門(もん)なしに入(い)り、階段無しに昇る底の境(きやう)に達(たつ)したならば、それこそ自由自在であって「臂(たゞむき)を掉(ふ)って關(くわん)を渡(わた)って關吏(くわんり)を問(と)はず」だ。

 

 

 

關所(せきしょ)があっても關(せき)なきが如(ごと)く、關所(せきしょ)の番人(ばんにん)に、「そこにゐるか」と云ふ必要もない。肉體(にくたい)があっても肉體ないが如く、肉體の番人など何するものぞだ。

 

 

 

玄沙(げんしゃ)の師備和尚(しびをしやう)は、「無門(むもん)は解脱(げだつ)の門(もん)、無意(むい)は道人(だうにん)の意(い)」と云ったが、「門(もん)」なしになってこそ、解脱の門に到達したと云ふものだ。あれでなければ悟れぬ、これでなければ救はれぬ、などと一つの「執(しふ)」を有(も)ってゐるやうなことでは解脱などと云ふことは思ひも寄らぬ。

 

 

 

宗教が却って爭ひの因となり、葛藤(かつとう)の門となる。無門のみが解脱の門である。その無門を體現(たいげん)して、宗派を樹(た)てず、すべての宗教がそのまゝ、宗派を改めずして、一切の閑葛藤(かんかつとう)を脱して「唯一實相」に歸一せしめ、「蓮華王座」(宇宙即ち蓮華藏世界の中心座)信仰に歸一せしめる正しい信仰が「生長の家」なのである。

 

 

つづく

 

 

 

谷口雅春著「無門關解釋」無門後序(一)

 

 

 

 

☆ いよいよ明日で「無門關解釋」終わりです。本当に長い間おつきあい頂きありがとうございました!明日以降は第二十二則の後半を掲載して、その後はどうしようかと思っています。「無門關解釋」を全て掲載出来るとは思っていませんでした。色々な面で、少し休憩しようかなとも思っていますが、「神様は休憩無しです!」と聞こえて来そうな気もするので考えます。ありがとうございました。