無門關解釋

 

 

 

禅宗無門關(自序)

 

 

 

佛語心(ぶつごしん)を宗(しゆう)と爲(な)し、無門(むもん)を法門(はふもん)と爲(な)す。既(すで)に是(こ)れ無門(むもん)、且(しばら)く作麼生(そもさん)か透(とほ)らん。

・・・以下省・・・

 

 

 

頌(じゆ)に曰(いは)く、

 

大道無門(だいだうむもん)、千差路(せんしやみち)あり。此(こ)の關(くわん)を透得(とうとく)せば乾坤(けんこん) に獨歩(どくほ)せん。

 

 

 

 

 

 

解釋(かいしゃく)

 

 

昨日の終わり

 

「如何なるか是(こ)れ佛(ほとけ)」と問はれて「麻三斤(まさんぎん)」と答へた、洞山和尚(とうざんをしやう)の絶對把握である。洞山においては、「麻(あさ)の實(み)」あるがまゝでそれが「物質無」であり、同時に「そのまゝ佛」なのである。通過する必要がなく、絶對實在の絶對把握であるから、「既(すで)に是れ無門、且(しばら)く作麼生(そもさん)か透(とほ)らん」である。

 

 

 

つづき

 

 

絶對(ぜつたい)の實在(じつざい)の絶對把握(ぜつたいはあく)であるから、教へることは出來ない。教外別傳(けうげべつでん)である。

 

 

 

外から教へ込み得(う)るものは相對界(さうたいかい)のものであって絶對實在ではないから「門より入(い)る者は是(こ)れ家珍(かちん)にあらず」である。縁(えん)に從って生ずる者は始終あり、成壞(じやうゑ)する。これを把握したと思ってゐても、それは相對的把握に過ぎないから、把握してゐると思ってゐるその次から壞(くだ)けてしまふ。

 

 

 

相對的存在は因縁所生(いんねんしよしやう)のものであるから、アルと思ってゐても時々刻々變滅(じゝこくゝへんめつ)する。こんなものに頼ってゐては、結局頼るべからざるものに頼ってゐては、結局頼るべからざるものに頼ったことになる。

 

 

 

談論風發(だんろんふうはつ)して説明自由自在に亙(わた)り、説法詳細を悉(つく)しても、説明の語句(ごく)そのものは相對的世界を説明する言語(げんご)を用ゐるしか仕方がないから、「凭麼説話(そんなせつわ)は大いに風無(かぜな)きに浪(なみ)を起し、好肉(りっぱなにく)に故々瘡(わざわざきず)を剜(ゑぐ)って作るやうなものである。」

 

 

 

自由自在の説話でさへも斯(か)くの如きものであるから、その説話の一字一句に滯(とゞこほ)って、その解會(げゑ)、その理會(りくわい)を覓(もと)めるに至ってはまるで、「棒(ぼう)を掉(ふる)って月(つき)を打(う)ち、靴(くつ)を隔(へだ)てて、痒(かゆがり)を爬(か)く、」やうなものであって、實相の絶對把握とは何の交渉もないことである。

 

 

 

かう無門和尚は本書を讀(よ)むのに字句に捉(とら)はれず、外(そと)より教へられると思はず、實相を内部より開顯(かいけん)して、一躍如來地(いちやくにょらいぢ)に超入(てうにふ)せられんことを望むと云ふ注意を與(あた)へられたのである。 

 

 

 

次いで、無門慧開和尚自身(むもんゑかいをしやうじしん)がこの四十八則を編(あ)むに到った動機を述(の)べてゐるのである。南宋(なんそう)の理宗皇帝(りそうくわうてい)の紹定元年戊子(ぜうていぐわんねんぼし)の夏(西暦一二二八年)無門四十六歳の時、東嘉(とうか)の龍翔寺(りゆうしやうじ)の首衆(しゆしゆう)として衆(しゆう)を指導してゐた事がある。

 

 

 

衲子即(のつすすなは)ち袈裟(けさ)を着(つ)けた修行僧どもが、「益(ま)さんことを請(こ)ふ」即(すなは)ち尚益々眞理(なほますますしんり)を知ろうと詰めかけて來たと云ふのが、「衲子請益(のつすしんえき)す」である。

 

 

 

そこで無門は、古人(こじん)の行履(あんり)にあらはれたところの古今(ここん)に通じて誤らざる公(おほや)けな眞理の規範本則(きはんほんそく)たる「公案(こうあん)」を引出しては、門を敲(たた)き本人の佛性を喚(よ)び覺(さま)す合圖(あひず)の瓦(かはら)として、眞理を學ぶ人たちを機に應(おう)じて導いて來た。

 

 

 

その公案を心覺(こゝろおぼ)えに大要録(たいえうか)き取って置いたら、こんな一冊に集大成したと云ふのである。合計すると四十八則になるが、別に眞理を知るのに、こんな門關(もんくわん)が要(い)る譯(わけ)ではないから「無門關」と云ふのであるが、

 

 

 

若(も)し門關に引っかゝらず、絶對眞理の絶對把握の出來る箇(こ)の漢(ひと)ならば、危亡(きばう)を顧(かへりみ)ず、單刀直入(たんたうちよくにふ)、謙信(けんしん)が信玄(しんげん)へ單騎決戦(たんきけつせん)をいどみ込んだやうに絶對實相の世界へ一躍超入(いちやくてうにふ)して貰(もら)ひたいと云ふのである。

 

 

 

斯(か)くの如(ごと)く、絶對實相を直接把握した人に對しては、たとひ四面(めん)八臂(ぴ)の大力(だいりき)の鬼王那托(きわうなだ)と雖(いへど)も、それをさえ攔(さへぎ)ることは出來ないし、

 

 

 

西天竺(せいてんぢく)の佛祖釋迦(ぶつそしやか)より達磨(だるま)に至(いた)る四七=二十八代の祖師たちも、支那(東土(とうど))の二三(にさん)=六代の祖師(達磨より六祖曹谿慧能(そさうけいゑのうに至(いた)る)たちも威風(ゐふう)を恐れて命乞(いのちご)ひをするであらう。

 

 

 

併(しか)しまた本書を讀んでも絶對實相の絶對把握が出來ないで、愚圖々々(ぐづぐづ)してゐるやうなことでは窓を隔(へだ)てて、騎馬(きば)の兵の馳(はせ)るのを見るやうなもので、眼を眨得(またた)くひまに蹉過(すれちが)ってしまって、實相が何やら、眞理が何やら、看(み)たと思った瞬間に看逃(みのが)してしまって、實相なんて無いものだ、やはり人間は肉體だと云ひ出すかも知れない。

 

 

 

そこで無門和尚(むもんをしやう)は、頌(じゆ)に於(おい)てもう一度繰返したのだ。「大道無門(だいだうむもん)」だ。宇宙の眞理には門などはない。別に家を飛び出して狭(せま)き門を入(い)らねばならねことはない。斷食(だんじき)も水行(すゐぎやう)も苦行も要らない。大道(だいだう)はひろびろとしてゐる。絶對實在(ぜつたいじつざい)の絶對把握(ぜつたいはあく)である。眞理そのまゝが大道である。

 

 

 

此(こ)のそのまゝが解(わか)れば、差別(しやべつ)そのまゝに大道があらはれるのである。君(きみ)に忠(ちゆう)なるが大道であり、師恩(しおん)を知るが大道であり、親に孝なるが大道であり、夫婦相和(あひわ)しが大道であり、兄弟(けいてい)に深切(しんせつ)なるが大道であり、博愛衆(はくあいしゅう)に及ぼすが大道である。

 

 

 

路(みち)は千差(せんしや)あれども、そのまゝに大道である。この大道は虚空(こくう)に等しく、宇宙に等しい。この大道を獨歩(どくほ)する者は乾坤(けんこん)を獨歩(どくほ)する者なのである。乾坤(けんこん)を獨歩(どくほ)する眞人(しんじん)は、空中歩行(くうちゆうほかう)でもする奇蹟人(きせきじん)でもなければ、議論凄(ぎろんすさ)まじく、主君を批判し、親をやり込め、師を云ひまかす人でもないのである。

 

 

 

今日(こんにち)一日、皇恩に感謝して見よ、兩親に感謝して見よ。今日一日、親のどんな命令でも「ハイ」と素直(すなほ)にその命令のまゝに實行して見よ。そこから乾坤(けんこん)を獨歩(どくほ)する底(てい)の法樂自在(はふらくじざい)な悦(よろこ)びが感じられて來るであらう。道は近きにありだ。また至道無難(しいだうぶなん)である。

 

 

 

何の奇天烈(きてれつ)もなく、何の變哲(へんてつ)もない、當(あた)り前のことが當(あた)り前に出來るのが、大道無門千差路(だいだうむもんせんしゃみち) であり、この路(みち)を歩む者は乾坤(けんこん)を獨歩(どくほ)する者である。乾坤を獨歩するの大神通(だいじんつう)は何も難しいことはない、至道無難(しいだうぶなん)である。

 

 

 

左記に當(あた)り前のことが當(あた)り前に出來ることが至道(しいだう)であり、自由自在を得(う)る道であることが、生長の家の神示(しんじ)に於(おい)て次の如く書かれてゐる。― 

 

 

汝(なんぢ)ら天地一切のものと和解せよ。天地一切のものとの和解が成立するとき、天地一切のものは汝の味方である。天地一切のものが汝の味方となるとき、天地の萬物何物(ばんぶつなにもの)も汝を害することは出来ぬ。汝が何物(なにもの)かに傷つけられたり黴菌(ばいきん)や悪霊に冒(をか)されたりするのは汝が天地一切のものと和解していない證據(しようこ)であるから省(かへり)みて和解せよ。

 

 

 

われ嘗(かつ)て神の祭壇の前に供(そな)へ物を獻(さゞ)ぐるとき、先(ま)づ汝の兄弟(きやうだい)と和せよと教えたのはこの意味である。汝らの兄弟(きやうだい)のうち最(もっと)も大(だい)なるものは汝らの父母(ちゝはゝ)である。神に感謝しても父母(ちゝはゝ)に感謝し得ないものは神の心にかなわぬ。天地萬物と和解せよとは、天地萬物に感謝せよとの意味である。本當(ほんたう)の和解は互(たが)ひに怺(こら)へ合(あ)ったり、我慢しあったりするのでは得られぬ。怺(こら)へたり我慢しているのでは心の奥底(おくそこ)で和解していぬ。感謝し合ったとき本當の和解が成立する。

 

 

 

神に感謝しても天地萬物に感謝せぬものは天地萬物と和解が成立せぬ。天地萬物との和解が成立せねば、神は助けたうても、爭(あらそ)ひの念波(ねんぱ)は神の救いの念波を能(よ)う受けぬ。皇恩(くわうおん)に感謝せよ。汝の父母に感謝せよ。汝の夫又は妻に感謝せよ。汝の子に感謝せよ。汝の召使(めしつかひ)に感謝せよ。一切(いつさい)の人々に感謝せよ。天地の萬物(すべてのもの)に感謝せよ。その感謝の念の中にこそ汝はわが姿を見、わが救いを受けるであろう。

 

 

 

われは全(すべ)ての總(すべ)てであるからすべてと和解したものの中(なか)にのみわれ

はいる。われは此處(ここ)に見よ。彼處(かしこ)に見よと云うが如(ごと)くにはいないのである。だからわれは靈媒(れいばい)には憑(かゝ)らぬ。神を靈媒に招(よ)んでみて神が來ると思ってはならぬ。われを招(よ)ばんとすれば天地すべてのものと和解してわれを招べ。われは愛であるから汝が天地すべてのものと和解したとき其處(そこ)にわれは顯(あらは)れる。

 

 

 

 

 

谷口雅春著「無門關解釋」禅宗無門關(自序)(完)

 

 

 

 

 

☆ 今日の最後の

 

汝(なんぢ)ら天地一切のものと和解せよ。天地一切のものとの和解が成立するとき、天地一切のものは汝の味方である。・・・以下省略・・・

 

これは大調和(七つの燈臺の點燈者)の神示です。「生命の実相」40巻まとめたのが「甘露の法雨」で、それをまとめたのがこの神示です。

道場では毎朝、神想観をして、大調和の神示を拝読して「甘露の法雨」を誦げています。そうしますと実相が突然開けます。この大調和の神示の中に「感謝」せよと云うコトバが二十三書かれているようです。感謝が如何に大切か?末期癌患者さんが毎日一万回唱えて治っていますしたくさんの体験が出ています。私しもやりました。たくさん体験が出ました。笑!実相世界は完全ですから、完全な健康が繁栄が出るしかないと云う事です。