無門關解釋

 

 

第四十八則乾峰一路(けんぽういちろ)

 

 

乾峰和尚(けんぽうをしやう)、因(ちな)みに僧問(そうと)ふ、十方簿伽梵一路涅槃門(じつぱうばぎやぼんいちろねはんもん)、末審路頭甚麼(いぶかしろとうなん)の處(ところ)に在(あ)るや。・・・以下省略・・・

 

 

無門曰(むもんいは)く

 

一人(にん)は深深(しんしん)たる海底(かいてい)に向(むか)って行(ゆ)いて簸土揚塵(ひどやうぢん)す。・・・以下省略・・・

 

 

頌(じゆ)に曰(いは)く、

 

未(いま)だ歩(ほ)を譽(こ)せざる時先(ときま)づ已(すで)に到(いた)り、未(いま)だ舌(した)を動(うご)かざる時先(ときま)づ説(と)き了(をは)る。・・・以下省略・・・

 

 

 

 

解釋

 

 

昨日のところ

 

斯(か)うして差別相(しゃべつさう)の把住(つかみ)を放(はな)してしまはせるのが放行(はうぎやう)である。と云って、一切を無差別平等(むしやべつびやうどう)に放(はう)ってしまへば一切が壊(くだ)ける。

 

「人類々々」と云って、「日本人」と云ふことを忘れてしまったのでは、國は滅び、日本人も滅びるのである。人は兎(と)もすれば抽象に流れることを高級めかしく考へたがるものであるが、「人類」と云ふやうな抽象概念の化物(ばけもの)は何處(どこ)にもないのである吾々は日本人であり、東洋人であって、西洋人でもない「人類」と云ふ者があるなら此處(ここ)に出(い)で來(きた)れ。

 

 

 

 

つづき

 

 

だから一切の差別を打破するために使った雲門の扇子は、一つの要(かなめ)に纒(まとま)ってすべて一體(たい)となってゐるが、一體となってゐるが故にこれを開けば末廣(すゑひろ)とひろがって、風を吹き送って人の心の惱熱(なうねつ)を冷(さ)ますことが出來ることに注意しなければならない。

 

 

 

要(かなめ)の中心にまとめる働きが「把住(はぢゆう)」であり、扇(あふぎ)をひらいて其の紙面(しめん)に色々に描かれてゐる模様が出(で)て來るのが「放行(はうぎやう)」で、「把住(はぢゆう)」があり「放行」があるので、物事(ものごと)は生きた働きをする事が出來るのである。併(しか)し、「把住」ばかり説いたり、「放行」ばかり説いたりするのは事物(じぶつ)を兩面から覗(のぞ)いてゐるので、實相を直視したと云ふ事は出來ない。(拙著『把住と放行』絶版)

 

 

 

そこで無門和尚は、「正眼(しやうげん)に觀來(みきた)れば二大老(だいらう)、總(すべて)に未(いま)だ路頭(ろとう)を識(し)らざることあり」とて、そんなに兩面から見て裏參道を通行してゐるやうな事では、表參道を直(ぢか)に見た人とは云へないぜと一寸揶揄(ちょっとやゆ)して見たのである。

 

 

 

それでは涅槃門(ねはんもん)に到(いた)る表參道(おもてさんだう)たる唯一(ゆゐいつ)の正路(しやうろ)は?もう空中に劃(くわく)一劃(くわく)、線を畫(ゑが)くことでもない。扇子(せんす)をもって三十三天(てん)の頂上にゐる帝釋天(たいしゃくてん)の鼻(はな)っ柱(ぱしら)を胴突(どつ)くことでもない。そんな珍妙(ちんめう)な藝當(げいたう)をしなければ、實相が無いのではない。

 

 

 

實相の世界、涅槃(ねはん)の世界、安養(あんにやう)の世界、極樂世界(ごくらくせかい)は、正眼(しやうげん)を豁開(くわつかい)して見よ。無門がその頌(じゆ)で云ったやうに、「未(いま)だ歩(ほ)を譽(こ)せざる時先(ま)づ已(すで)に到(いた)り、未だ舌(した)を動かさざる時先づ説き了る(をは)」― 未だ足を譽(あ)げて、十萬億土(まんおくど)の彼方(かなた)まで歩いて行かなくとも、此處(ここ)が此(こ)の儘(まゝ)實相の世界である。淨土であるのである。

 

 

 

それを悟れと云ふのだが、その悟れと云ふことすらも要らないのである。「未だ舌を動かさざる時先づ説き了る」であり、口頭(こうとう)の説法以前の世界である。悟っても悟らなくとも、そのまゝ既(すで)に、こゝが實相世界であり、こゝが此(こ)のまゝみ佛の世界なのである。とは云へ、乾峰和尚(けんぽうをしやう)と雲門和尚(うんもんをしやう)と、流石(さすが)に法碁(はふご)の名人(めいじん)ではある。

 

 

 

互(たがひ)に著々機先(ちやくちやくきせん)を制し合って、一方(いつぽう)が「把住(はぢ

ゆう)」と出れば、他方(たはう)は「放行(はうぎやう)」と出る。まことに巧(たく)みなものであるが、それだけで滿足したのでは、富士山の麓(ふもと)をドウドウ廻(めぐ)りしてゐることになる。すべからくドウドウ廻りをやめて、一躍如來地(いちやくにょらいぢ) に超入(てうにふ)すべきである。

 

 

 

その向上の急所の竅(あな)は何處(どこ)にあるかを知るべきである。もう其處(そこ)は把住と放行とが一つになった世界、把住も放行もない世界だ。時間と空間とが一つになった世界、時間も空間もない世界だ。有(う)と無(む)とが一つになった世界、有も無もない世界だ。有無の對立ある相對的「無」の世界ではなく、無無無無無(むむむむむ)の世界だ。

 

 

 

これで『無門關』四十八則の講義は一先(ひとま)づ完了したのである。あとに残るのは、無門みづからの前書の序文と、後序(こうじょ)とである。序(つい)で書(が)きが始めと後とにあるのであるが、前書序文(まへがきじょぶん)の方も後に説明することにしたのは、無門が序文に書いた「無」の意味が、第四十八則まで來て一層明瞭(いつそうめいれう)になるからである。

 

 

 

言葉と云ふものは、如何(いか)に巧(たく)みに表現して置いても、讀(よ)み手が意味をとり違へることもある。絶対無とか眞空(しんくう)とか云ふと、「何もない」やうに思ひ違へる人あるので、「無の奥にある妙有(めうう)」などと説明すると、「無」に對立する「有」の世界を立てたかのやうにとって反駁(はんばく)して來る人もある。

 

 

 

併し「無」とは何であるか。最後の締め括(くゝ)りとして、無門和尚の自序の解釋を次に見て頂きたい。

 

 

 

 

 

 

谷口雅春著「無門關解釋」   第四十八則乾峰一路(完)

 

 

 

 

 

☆ 長い間おつきあい頂きありがとうございました!一応これで「四十八則」終了です。しかし上記にありますように、禅宗無門關(自序)、無門後序がありますのでそれを後少しですが明日から掲載させて頂きます。それと第二十二則が中途半端になっていますので最後に掲載します。

 

☆ 今日は

 

要(かなめ)の中心にまとめる働きが「把住(はぢゆう)」であり、扇(あふぎ)をひらいて其の紙面(しめん)に色々に描かれてゐる模様が出(で)て來るのが「放行(はうぎやう)」で、「把住(はぢゆう)」があり「放行」があるので、物事(ものごと)は生きた働きをする事が出來るのである。併(しか)し、「把住」ばかり説いたり、「放行」ばかり説いたりするのは事物(じぶつ)を兩面から覗(のぞ)いてゐるので、實相を直視したと云ふ事は出來ない

 

 

此處(ここ)が此(こ)の儘(まゝ)實相の世界である。淨土であるのである。それを悟れと云ふのだが、その悟れと云ふことすらも要らないのである。「未だ舌を動かさざる時先づ説き了る」であり、口頭(こうとう)の説法以前の世界である。悟っても悟らなくとも、そのまゝ既(すで)に、こゝが實相世界であり、こゝが此(こ)のまゝみ佛の世界なのである。

 

 

悟っても悟らなくとも、そのまゝ既(すで)に、こゝが實相世界であり、こゝが此(こ)のまゝみ佛の世界なのである。と云う事です。

 

 

すべからくドウドウ廻りをやめて、一躍如來地(いちやくにょらいぢ) に超入(てうにふ)すべきである。その向上の急所の竅(あな)は何處(どこ)にあるかを知るべきである。もう其處(そこ)は把住と放行とが一つになった世界、把住も放行もない世界だ。時間と空間とが一つになった世界、時間も空間もない世界だ。有(う)と無(む)とが一つになった世界、有も無もない世界だ。有無の對立ある相對的「無」の世界ではなく、無無無無無(むむむむむ)の世界だ。

 

◉ すべからくドウドウ廻りをやめて、一躍如來地(いちやくにょらいぢ) に超入(てうにふ)すべきである。