◎ 無門關解釋
○ 第四十五則他是阿誰(たはこれたそ)
東山演師祖曰(とうざんえんしそいは)く、釋迦彌勒(しやかみろく)は猶(な)ほ是(こ)れ他(た)の奴(ぬ)。且(しばら)く道(い)へ、他(た)は是(こ)れ阿誰(たそ)。
無門曰(むもんいは)く
若(も)し也他(またた)を見得(けんとく)して分曉(ぶんげう)ならば、譬(たと)へば十字街頭(じがいとう)に親爺(しんや)に撞見(どうけん)するが如(ごと)くに相似(あひに)ん。更(さら)に別人(べつにん)に問(と)うて是(ぜ)と不是(ふぜ)とを道(い)ふことを須(もち)ひず
頌(じゆ)に曰(いは)く
他(た)の弓(ゆみ)を挽(ひ)くこと莫(なか)れ、他(た)の馬(うま)に騎(の)ること莫(なか)れ。他(た)の非(ひ)を辨(べん)ずること莫(なか)れ、他(た)の事(じ)を知(し)ること莫(なか)れ。
解釋(かいしゃく)
昨日のところ
凡(およ)そ「生命の勝利」― 即(すなは)ち「成佛(じやうぶつ)」― とは「空」又は混沌(こんとん)(日本の『古事記』では「漂(たゞよ)へる國」と云ふ)を生命の自由自在の力によって秩序あらしめ、形相あらしめると云ふことである。秩序と形相とは裏と表であって、秩序がなければ形相があり得ない。秩序があり得なければ混沌であるが、「混沌」は「空」であって滅亡のほかはないのである。
つづき
軍備の秘密を求むる敵(もの)には、軍備の秘密を與(あた)へ、妻子を求むる者には、妻子さへも與(あた)へると云(い)ふのは、ものの差等價値(さとうかち)を、無差別(むしやべつ)の一様(いちやう)に塗りつぶしたことであって、斯(か)くては天國淨土の建設などは思ひもよらないのである。
凡(およ)そ差等價値(さとうかち)の複雑なる調和ある配列こそ高等生物の特徴であり、蚯蚓(みゝず)や、海鼠(なまこ)のやうにどちらが頭か尻尾(しつぽ)か判(わか)らないやうな生物は下等生物(かとうせいぶつ)の特徴である。
どれが自分の妻君(さいくん)か判(わか)らないで、あちらの牝(めす)と戯(たはむ)れ、こちらの牝(めす)と交(まじは)ってゐるのは、高等なる人間生命を下等なる動物生命にまで失墜(しつつゐ)せしめることになるのである。
凡(およ)そ「布施(ふせ)」とは斯(か)くの如(ごと)き「道徳的失墜」を施(ほどこ)すことであってはならないのである。布施(ふせ)の最も大なるものは法施(ほつせ)であり、法施とは「眞理」を施(ほどこ)し、「理念」そのまゝに、彼(かれ)をして生活せしむるやうに導くことである。
「妻を自分に譲(ゆづ)ってくれないか」と淫蕩(いんたう)なる相手に望まれたとき「はいはい」と素直にその惡に身をまかせることではなく、そのやうな淫蕩(いんたう)な下等動物の生活から脱却して、人間らしき道徳生活に入らしめることこそまことの法施である。
是(こゝ)に於(おい)て、吾々が他人に奉仕すると云ふことは他人の「執着」に奉仕することでもなく、他人の「貪慾(とんよく)」に奉仕することでもなく、他人の淫慾(いんよく)に奉仕することでもないと云ふことを知るべきである。
基督(キリスト)が弟子の足を洗ったからと云って、弟子の足に奉仕したのだと思ってはならないのだ。彼は「汝(なんぢ)ら互(たがひ)に相愛(あひあい)せよ」といって「相互愛(さうごあい)」なる眞理に奉仕し、「愛」なる眞理を施(ほどこ)したのである。
眞理を施さないで、「物(もの)」を施し、眞理に奉仕しないで、「物」や或特定(あるとくてい)の「人」に奉仕するとき、その奉仕は穢(けが)れたるものとなり、その布施は低卑(ていひ)な邪道(じやだう)に墜(お)ちたものとなるのである。
そこで「釋迦彌勒(しやかみろく)は猶(な)ほ是(こ)れ他(た)の奴(ぬ)」であるが、その「他」とは「眞理」であると云ふことである。眞理を顯現(けんげん)するよりほかに吾々は奉仕する道も布施(ふせ)する道もあり得ないのである。
公娼制度(こうしやうせいど)のあった時の事、村川辰藏氏(むらかはたつざうし)が西の宮遊廓(みやいうくわく)の娼妓(しやうぎ)たちに教化講演に行ったことがある。遊女(いうぢょ)に淫行(いんかう)を大いに勧(すゝ)めて、今後大いにお客にサービスしてその娼賣(しやうばい)を繁昌せしめなさいと云ふ譯(わけ)にも行かないのである。
と云って、懶(なま)けなさいと云ふ譯(わけ)にも行かない。淫慾(いんよく)を鬻(ひさ)ぐことを條件として約束して前借(ぜんしゃく)をして來たのであるから淫慾(いんよく)を鬻(ひさ)がなかったならば、それは約束を破るところの一種の詐欺行爲(さぎかうい)である。
さりとて、淫慾(いんよく)をひさぐと云ふ約束を丁寧深切(ていねんしんせつ)に履行(りこう)して、お客の肉慾を樂しましめ、お客をして益々遊里(ますますいうり)の深みに足を蹈(ふ)み込ましめるやうにするならば、それは、相手を益々堕落(ますますだらく)の世界へ追ひやることになり、是(これ)また淫行(いんかう)の罪を犯す者だと云はなければならない。
そこで村川辰藏氏は娼賣(しやうばい)を勉強しなさいとも、懶(なま)けなさいとも云はないで、その講話では唯眞理(たゞしんり)を施(ほどこ)されたのである。村川氏はさう云ふ遊里(いうり)へ賣(う)られて來る娘は父母との間に本當の調和が出來てゐないことを看破(かんぱ)したのである。大抵の遊女は、自分を賣(う)った冷酷(れいこく)な父母を憎(にく)んでゐるものである。
父母が自分の娘を遊女に賣(う)るほどに冷酷であるから、娘が父母を憎むのも無理もないが、凡(およ)そ父母として我娘(わがむすめ)を可愛く思はないものがあらうか。自分の三度の食を割(さ)いても其娘(そのむすめ)をば堕落せしめたくないのが普通の人情なのである。
それだのに、どんな經濟的事情があるにせよ娘を賣(う)らねばならぬやうになったのは、その父母と娘との間に必ず何らかの精神的葛藤があり、その葛藤(かつとう)の結果本當の親子の愛情が晦(くら)まされて、到頭娘(たうとうむすめ)を賣(う)るやうなことにまでなったのである。
それは一面から考へて見ると、娘が父母を憎んでゐる心の反映によって親子の本當の愛情が晦(くら)まされて斯(かく)の如(ごと)きことになったのである。だからこれからは父母を憎む心を捨(す)てて父母を觀(くわん)じて禮拜(らいはい)せよと講話したのである。
そして神想觀の一種なる慈父母觀(じふぼくわん)とも云ふべき觀法(くわんぱふ)を行(おこな)はしめた。
すなはち冷酷無情(れいこくむじやう)と見ゆる父母は、娘自身の心の反映として斯(か)くの如く假(かり)に現(あらは)れてゐるところの假相(けさう)であるとして否定し、本當の父母の實相は大慈大悲の佛(ほとけ)なるところの、慈父慈母であるとして、合掌禮拜(がつしやうらいはい)のうちにその慈父母の實相を觀(み)、今まで冷酷無情の父母と見誤(みあやま)りたることをお詫(わ)びしその慈父母に感謝し觀法(くわんぱふ)を行はしめたのである。
斯(か)う云ふ慈父母觀を毎日行はしめてゐるうちに、遊女に賣られた其娘(そのむすめ)と親との間に、心の世界に和解が出來て來たのである。
和解(わかい)が出來(でき)たならば天地一切のもの何物(なにもの)も自分を害することは出來ぬ」とは生長の家の教であるが、果然(くわぜん)、その娼妓稼(しやうぎかせ)ぎの年季(ねんき)の來(こ)ないうちに親が金を拵(こしら)へて娘を迎へに來たのである。
ところがその妓樓(ぎろう)の主人も生長の家の教を聽(き)いてゐて、心境一變(しんきやういつぺん)してゐる際に、「冷酷(れいこく)の親」が變貌(へんぼう)して慈父母(じふぼ)に現(あらは)れたところの不可思議さに打たれて、感激のあまりその前借金(ぜんしやくきん)の大部分を棒引(ぼうびき)してやる。
親も喜び、娘も喜び、そこに天國淨土の有様(ありさま)が實現したのである。併(しか)し前借金を棒引してやった樓主(ろうしゆ)だけは損になるではないかと思ふ人があるかも知れぬが、その妓樓(ぎろう)では抱(かゝ)へた妓共(こども)二十數名が、斯(か)う云ふやうにして十二名に減じてしまったのに、不思議なことには以前よりも収入が殖(ふ)えたのである。
うかれ客の金ばなれのよい、筋(すぢ)の好いのが來るのである。三界は唯心(ゆゐ)の所現(しょげん)、立ち對(むか)ふ人の心は鏡である。樓主(ろうしゆ)が前借金を負けてやるほどに與(あた)へる心に成ってゐるから、この樓主(ろうしゆ)に近づいて來る客は支拂(しはら)ひを惜(を)しむやうな客が來ないで、あっさり遊んで百圓札で支拂をして「もうお釣剩(つり)は要らないよ」と云ふやうな客が來るのである。
抱(かゝ)へ娼妓(しやうぎ)が少ければそれだけ手數(てすう)もかゝらないで、それでゐてその樓主(ろうしゆ)の収入は倍加した ― 斯(か)やうにして樓主(ろうしゆ)にとっても天國淨土が實現したのである。
今まで、この不淨(ふじやう)の穢(けが)れたる世界を遠離(をんり)する方法として選ばれてゐたところの佛教的人生觀は因縁觀(いんねんくわん)であり、空觀(くうくわん)であったと思ふ。
「私のやうに娼妓(しやうぎ)に賣(う)られて來るのは前世(ぜんせ)の因縁である」と諦(あきら)めるが、どんな優怖悲惨充(いうふひさんみ)ち滿(み)ちてゐると見える世界も本來「空(くう)」であるとして消極的に諦(あきら)めるに過ぎないのであって、積極的に「自分の親は本當は自分を愛してゐるのであって、その愛情ある調和ある状態こそ實在である」と秩序ある實在の世界を肯定(こうてい)することが出來なかったのである。
概念的な「空(くう)」には全體一様(ぜんたいーやう)の感じがするだけで秩序があり得ない。秩序ある世界 ― 生(い)ける天國淨土 ―は「空(くう)」的實在觀では得られるものではないのである。
「空」の世界は、所謂(いはゆ)る「漂(たゞ)へる國」に過ぎない。「漂へる國」又は「空」はたゞ天國の素材(そざい)となるだけで、天國淨土は、「此(こ)の漂へる國」を修理固成(つくりかためな)すところの理念の力(ちから) ― 天(あめ)の理念鉾(ぬぼこ)によるほかはないのである。
つづく
谷口雅春著「無門關解釋」第四十五則他是阿誰(四)
☆ 凡(およ)そ「生命の勝利」― 即(すなは)ち「成佛(じやうぶつ)」― とは「空」又は混沌(こんとん)(日本の『古事記』では「漂(たゞよ)へる國」と云ふ)を生命の自由自在の力によって秩序あらしめ、形相あらしめると云ふことである。秩序と形相とは裏と表であって、秩序がなければ形相があり得ない。秩序があり得なければ混沌であるが、「混沌」は「空」であって滅亡のほかはないのである。
◉ 今までの宗教は「空」を説いてきたのである。谷口雅春先生が出られて現象を否定せられて「実相」を実在の世界を発見せられたのである。勿論、キリストも釈迦も「実相」を説かれたのであるが、その後の弟子がわからなかったと云う事です。
ものの差等價値(さとうかち)を、無差別(むしやべつ)の一様(いちやう)に塗りつぶしたことであって、斯(か)くては天國淨土の建設などは思ひもよらないのである。
◉ 無である、空であると説いていたと云う事です。
凡(およ)そ差等價値(さとうかち)の複雑なる調和ある配列こそ高等生物の特徴であり
◉ 実相の世界です。
布施(ふせ)の最も大なるものは法施(ほつせ)であり、法施とは「眞理」を施(ほどこ)し、「理念」そのまゝに、彼(かれ)をして生活せしむるやうに導くことである。
◉ 真理を施すという事です。
是(こゝ)に於(おい)て、吾々が他人に奉仕すると云ふことは他人の「執着」に奉仕することでもなく、他人の「貪慾(とんよく)」に奉仕することでもなく、他人の淫慾(いんよく)に奉仕することでもないと云ふことを知るべきである。
◉ それで第四十五則の公案の「他」とは下記です。
そこで「釋迦彌勒(しやかみろく)は猶(な)ほ是(こ)れ他(た)の奴(ぬ)」であるが、その「他」とは「眞理」であると云ふことである
◉ これからは体験談です。下記の体験が毎月行われているのが練成会だと思われて結構です。
癌で余命宣告された方、会社が倒産しそうな会社の経営者、等々現象世界に行き詰まり、親兄弟に言われてしぶしぶ皆さん来られます。しかし誰もそんな事言わないので、そんな問題抱えてるとは思いません、
それが下記のように講話がはじまり、親の愛、国の有り難さ、天皇陛下等々、吾々が今まで教わって来なかった当たり前の事、正しい生き方を聞いている内に自分の今までの考えが間違っていた事などが自然に分かり、神想観や浄心行、場所によっては畑仕事しているうちに下記のような体験が続々生まれると云う事です。
私みたいに慣れて来ると初めて来たような人がどう変わるのかを見ていますと、毎月色々な体験を見させて頂き何時も不思議だなと感謝、感激で帰っています。今はコロナでどこもやっていないのではと思います。はじまったら行かれたら良いですよ。
西の宮遊廓(みやいうくわく)の娼妓(しやうぎ)たちに教化講演に行ったことがある。
その講話では唯眞理(たゞしんり)を施(ほどこ)されたのである。村川氏はさう云ふ遊里(いうり)へ賣(う)られて來る娘は父母との間に本當の調和が出來てゐないことを看破(かんぱ)したのである。大抵の遊女は、自分を賣(う)った冷酷(れいこく)な父母を憎(にく)んでゐるものである。
父母が自分の娘を遊女に賣(う)るほどに冷酷であるから、娘が父母を憎むのも無理もないが、凡(およ)そ父母として我娘(わがむすめ)を可愛く思はないものがあらうか。自分の三度の食を割(さ)いても其娘(そのむすめ)をば堕落せしめたくないのが普通の人情なのである。
だからこれからは父母を憎む心を捨(す)てて父母を觀(くわん)じて禮拜(らいはい)せよと講話したのである。
そして神想觀の一種なる慈父母觀(じふぼくわん)とも云ふべき觀法(くわんぱふ)を行(おこな)はしめた。
今まで冷酷無情の父母と見誤(みあやま)りたることをお詫(わ)びしその慈父母に感謝し觀法(くわんぱふ)を行はしめたのである。
◉ 実相を観る神想観
斯(か)う云ふ慈父母觀を毎日行はしめてゐるうちに、遊女に賣られた其娘(そのむすめ)と親との間に、心の世界に和解が出來て來たのである。
和解(わかい)が出來(でき)たならば天地一切のもの何物(なにもの)も自分を害することは出來ぬ」とは生長の家の教であるが、果然(くわぜん)、その娼妓稼(しやうぎかせ)ぎの年季(ねんき)の來(こ)ないうちに親が金を拵(こしら)へて娘を迎へに來たのである。
◉ 本当にこういう事が起こります!笑!
ところがその妓樓(ぎろう)の主人も生長の家の教を聽(き)いてゐて、心境一變(しんきやういつぺん)してゐる際に、「冷酷(れいこく)の親」が變貌(へんぼう)して慈父母(じふぼ)に現(あらは)れたところの不可思議さに打たれて、感激のあまりその前借金(ぜんしやくきん)の大部分を棒引(ぼうびき)してやる。
◉ 実際色々な体験をーやった方が来て体験発表されますので初めて来た人もへーと思って帰られると思います。私がそうでしたから!笑!