◎ 無門關解釋

 

 

第十一則 州勘庵主(しうかんあんじゅ)

 

 

趙州(でうしう)一庵主(あんじゅ)の(ところ)に到(いた)って問(と)ふ、有(あ)りや有(あ)りや。主(しゆ)、拳頭(けんとう)を竪起(じゆき)す。州伝(しういは)く、水淺(みづあさ)うして是(こ)れ(?舟エ)(ふね)を泊(はく)する處(ところ)にあらず、

 

・・・以下省略・・・

 

 

無門曰(むもんいは)く

 

一般(いつぱん)に拳頭(けんとう)を竪起(じゆき)す、甚麼(なに)としてか一箇(こ)を肯(うけが)ひ、一箇を肯(うけが)はざる。且(しばら)く道(い)へ、(?言淆)訛甚(かうくわなん)の處(ところ)にか在(あ)る。

 

・・・以下省略・・・

 

 

頌(じゅ)に曰(いは)く

 

眼(まなこ)は流星(りうせい)、機(き)は掣電(せいでん)、殺人刀(さつにんたう)、活人劍(くわつにんけん)。 

 

 

 

 

解釋(かいしゃく)

 

 

つづき

 

 

趙州和尚(でうしうをしやう)が「有(あ)りや、有(あ)りや」と伝(い)って問(と)ひかけるのからして何かを握(にぎ)ってゐるのである。

 

 

 

本來無ー物(ほんらいむいちもつ) ー 生長の家式に伝(い)へばー 「物質(ぶつしつ)は無(な)い」である。「我(われ)」もない、「無我(むが)」である。それだのに「有(あ)りや、有(あ)りや」と問(と)ふ ー 八十歳になるまでそんなことを問(と)うて行脚(あんぎや)してゐた。餘程趙州(よほどでうしう)と伝(い)ふ和尚(をしやう)は本來無(ほんらいな)いものを握(にぎ)ってゐた男と見える。

 

 

 

そこで「有りや、有りや」と趙州(でうしう)が問ひかけたときに、二人の庵主(あんじゅ)はどちらも拳(こぶし)を握(にぎ)って突(つ)き出(だ)したのである。

 

 

 

對向(たちむか)ふ人の相(すがた)は鏡(かがみ)であって、二庵主(あんじゅ)がどちらも握(にぎ)り拳(こぶし)を突き出したところを見ると、却(かへ)って趙州和尚自身(でうしうをしやうじしん)が握(にぎ)ってゐるところあることを勘破(かんぱ)せられたものであって、二庵主(あんじゅ)ともどちらにも同じ力(ちから)を見出(みいだ)すべきである。

 

 

 

だから此等(これら)の二庵主(あんじゅ)に優劣(いうれつ)があると見るならば、それは却(かへ)って迷悟(めいご)を批判(ひはん)する參學眼(さんがくがん)がないと伝(い)はなければならない。

 

 

 

では二庵主(あんじゅ)は本當(ほんたう)に同じ力であるか。

 

そこに招(よ)び出された同じ力は、趙州和尚(でうしうをしやう)が自身の「心の影(がげ)」として招(よ)び出されたる「同じ力」であるから、趙州和尚(でうしうをしやう)の「心の影」としては同じ力であるが、公案(こうあん)に應(こた)へた二庵主自身(あんじゅじしん)の悟(さとり)の境地(きやうち)に於(おい)ては矢張(やは)り優劣(いうれつ)があるとしなければならぬ。

 

 

 

だから此(こ)の二庵主が同様に拳(こぶし)を握って突き出したことには優劣なくして優劣があることを勘破(かんぱ)しなければならない。

 

 

 

趙州和尚(でうしうをしやう)は自分自身の心境を勘破(かんぱ)せられながら、相手の心を勘破(かんぱ)したのである。

 

 

 

その二庵主のいづれにも、自分の「心(こころ)の反影(はんえい)」を見ながら、同時に二庵主自身の心の相(すがた)を勘破(かんぱ)したのである。

 

 

 

ー併(しか)しこれは趙州和尚(でうしうをしやう)のことだとのみ考へてはならない。

 

人生は常に斯(か)くの如きものであって、常に相手に自分の心の反影(リアクション)發見(はつけん)しながら、同時に相手自身(あひてじしん)の心の動きを勘破(かんぱ)する自由自在の眼力(がんりき)がなければならぬ。

 

 

 

その自由自在の眼力(がんりき)があってのみ、「頌(じゆ)」に書かれてゐるやうに眼力は流星(りうせい)の如(ごと)く輝(かがや)き、心機(しんき)よく一瞬の電光(でんくわう)を掣(とら)へ、活殺自在(くわつさつじざい)、殺人刀(さつにんたう)ともなり、活人劍(くわつにんけん)ともなり、よく殺し、能(よ)く活(い)かすことが出來(でき)るのである。

 

 

 

「眼(まなこ)は流星」と伝ふのは流星は暗夜(あんや)の中(なか)に實に素迅(すばや)く閃(ひらめ)くところの光(ひかり)であり、その眼力の鋭さ素迅(すばや)さ、眼(め)にも止まらない力をもってゐることをあらはしてゐる。

 

 

 

電光を掣(とら)へると伝ふことも、電光は一瞬時閃(しゆんじひらめ)くと共に、それがどこへ消え失(う)せたか判(わか)らなくなる。その瞬時の隙(す)きをも、その瞬時(しゆんじ)の閃(ひらめ)きをも看過(みのが)さないのであってこそ、事物(じぶつ)はこれを能(よ)く殺(ころ)し能(よ)く生(い)かすことが出來るのである。

 

 

 

 

そこで最後(さいご)に二庵主(あんじゅ)の心境(しんきやう)の優劣(いうれつ)に就(つい)いて私の判斷(はんだん)を述(の)べて置(お)きたいと思ふのである。

 

 

 

二庵主(あんじゅ)ともたゞ「拳頭(けんとう)を竪起(じゅき)した」と伝(い)ふのであるから、それ自身の形のみを見たのでは優劣は分からぬ。心(こころ)を見たときにのみ優劣が判(わか)るのである。

 

 

 

ところが二庵主(あんじゅ)の心を見ようにも心の状態ー拳(こぶし)をどう伝(い)ふ意味に於(おい)て突(つ)き出したかーは書いてはない。それでは二庵主(あんじゅ)の心の優劣はどうして判(わか)るのであるか。

 

 

 

ー諸君(しょくん)はこれをどうして知り得(う)るとするかーこれは私が諸君に對(たい)して提起(ていき)したる公案(こうあん)である。

 

 

 

こんな問題に迷ふやうでは、眼(まなこ)は流星(りうせい)、機(き)は掣電(せいでん)とは伝(い)へぬであらう。さては如何(いかん)?

 

 

 

つづく

 

 

 

谷口雅春著「無門關解釋」第十一則州勘庵主(二)

 

 

 

 

 

☆ こんな問題に迷ふやうでは、眼(まなこ)は流星(りうせい)、機(き)は掣電(せいでん)とは伝(い)へぬであらう。さては如何(いかん)?

 

と言う事です!分かるようでわからないですね!笑!

 

 

 

 

 

 

★ 社会の混乱や家庭崩壊は先祖との断絶が原因

 

今多くの社会が混乱していることは事実ですがその原因に「家庭崩壊」ということが考えられます。そしてその家庭は「先祖」という根っ子の御恩を忘れそこから切り離され、断絶しているところに主な原因があるのです。

 

それは日本でも外国でも変わりはありません。それは世界中どこへ行っても、植物の根には立派な養分を与えなければどんな美しい花も実も生ずるものではないというのと全く同じ原理からであります。

 

戦後、戦前に見られなかった小児癌が殖えたり、現代医学で原因のわからない奇病が発生したりしているのは、戦後、占領軍が日本弱体化のために押しつけたマッカーサー憲法が「日本の美しき正しき伝統」であるところの家、(霊の継続、の系譜)の制度を破壊して家督相続ということはなくなり、財産相続のみとしてしまったために、子孫が結婚して家庭をつくれば、所謂、核家族、として祖先及び父母から断絶してしまうことになったために祖先及び父母を、真理、によって供養してあげる子孫が次第に少なくなりそれだけ、祖先及び亡き父母の霊魂が霊界に於いて真理、の悟りをひらいて、如来、の実相を顕わす。

 

(所謂る、成仏、の)機会にめぐまれないために、成仏がおくれる、その迷っている霊魂の霊波の影響を受けて脳腫瘍その他の難治の病気が特に戦後多くなって来たのである。

 

このような脳腫瘍は原因が霊界にあるから霊供養のほかに治療せしめる道はないのである。

 

(当ブログ先祖供養より)