「生命の実相」に学ぶ 第三十七巻ー⑤

                 第三十七巻幸福篇上

 

◎ 幸福を得るには

 

 

 

○ 人の病気を治すには、どのようにしたらよいでしよか?

 

 

 

 

「生命の実相」第37巻 174ページ(携帯版)185ページ)に、

 

 

『人の病気を治すには、その人の病気を自分の内に摂取しなければならないのは、

 

 

 

洗濯屋が汚れものを洗濯するにはー度それを自分の家ヘ持って帰らなければならぬようなものである。

 

 

 

「自分の内に摂取する」とは同悲同苦の感情を起こして「かわいそう」という愛念によって、相手の苦しみ悩みを自分自身の苦しみ悩みとすることである。

 

 

 

それはラザロの死を見て、「イエス涙を流したまえり」の境地である。

 

 

 

彼が憤りによって病気になっているならば、「憤るのはもっともだ」と同情する愛念が起こるベきである。

 

 

 

これは相手の病根がどこにあるかを知るためでもある。同情のない審判(さばく)くだけでは治す力は少ないのである。

 

 

 

かくて同情によって自己の内に相手の悩みを摂取した後は、最早、その病根である心の悩みでいつまでも自分の心を乱しているようなことでは、汚れた水(想念)をもって汚れ物を洗うに等しいから効果はないのである。

 

 

 

そこで、心の中に、すベての病気と、病根である悪しき想念感情を放っち去って

 

 

 

「彼は神の子であるから病気もなければ、未だかつて憤ったこともないのだ」と実相を念ずるようにしなければならぬのである。

 

 

 

これが「続々甘露の法雨」の中に「この病気は、この心の迷いの影などと迷いをいちいち詮索すること勿れ。迷い本来無ければ、迷いの影も本来無し。

 

 

 

この病気は何の罪の結果ならんかと罪の種類をいちいち詮索すること勿れ。罪本来無ければ罪の種類も本来存在せざるなり。

 

 

 

汝ら存在せざるものを追うこと勿れ」と書かれている所以である。

 

 

 

すなわちいったん、その病気の原因、病気の苦悩などを自己に摂取した後には、病気の姿や、原因に心を捉えられることなく

 

 

 

「汝の生命の実相は久遠の神なり、不壊身なり、本来円満完全なる仏身なり」(「続々甘露の法雨」)とじっと自身の実相を諦視すれば自分の病気が治り、同じように相手の実相を諦観すれば相手の病気が治るのである。

 

 

 

「真の人間は神の子・人間なり、真清浄、真円満なる神の子、人間なり」この実相を驀(まつしぐ)らに自覚しさえすればよいのである。

 

 

 

しかし実相を自覚して自己を円滿莞全だと諦視するには、まず悔い改め(自己否定)がなければならない。物質(肉体)の否定と「心」の否定である。

 

 

 

肉体は本来ない、それは心の影だとまず肉体を否定し、さらに「あんな心を起こしたのは実相(ほんもの)の心でなかった。すまなかった。

 

 

 

あれはニセモノだった」と心も否定し去り、しかして後、円満完全なる罪なき実相を諦視するのである。一度「心」を否定した上でまだクヨクヨ思ってはならない』

 

 

 

 

プラジルからの報告によりますと、プラジルの生長の家総支部には、毎日、プラジル人が個人指導におしかけてきて、百名、百五十名ときますので、生長の家総支部にはプラジル人の方が多くて、日本人は影がうすい、とのことです。

 

 

そして、ブラジル人が生長の家の御教えで救われて、どんどん奇跡が起こるものですから、別に宣伝しなくとも、ふえるー方だとのことです。

 

 

生長の家の教えが、ブラジル人の間に定着してきつつあるようです。生長の家は、人類光明化運動ですから、世界の人類を救う使命をもっていますので、プラジルでこのようにブラジル人の間ヘ、生長の家が浸透してゆきつつあることは、まことに喜ばしいことです。

 

 

 

つづく

 

 

 

徳久克巳著「生命の実相」に学ぶ    第三十七巻 ー ⑤

(著者紹介 医学博士 産婦人科医 生長の家理事長)

 

 

 

 

 

☆ 「生命の実相」もいよいよ明日から第38巻に入ります。残り三巻になりました!これ終わったら次は何を掲載しようかと考えています。

 

以前徳久克巳先生が帝国ホテルで会社の社長さん集めて講話していた時毎月来る人が少なくなって、どうしようかと考えた時、あまり優しい話ばかりだと飽きるので難しい、無門関解釈という谷口雅春の禅の本があるので、その講義を始めたらたくさん人が集まって来たと言う事です。当ブログに少し掲載していますが、どうしようか?と思っています。笑!