生命の實相第三巻

 

◎「生命」は愛と知恵とによって生く

 

 

 

○幽界、霊界も現象世界

 

 

◉ 昨日のところ

 

 

幽界、霊界は現世におけるよりも、念のフィルムが現像される速力が早いのでありますから、われわれが正しい念をもつか迷いの念をもつかによって、一瞬のうちに、その状態が客観化されてあらわれて来るのでありますから、生前死後を通じてわれわれは自己の生命を神との正しい関係において自覚することがぜひとも必要なのであります。

 

それで、生長の家の聖典『生命の実相』は生きている人だけが読む本、病気が治るためばかりに読む本、現世における運命を好転さすためばかりに読む本だと思っているとまちがいなのであります。

 

 

 

 

つづき

 

 

 

 

現世でも、実際これはたれそれに上げたいと思えぱ必ずとどく―われわれはその上げたいものに、その上げたい相手方の名前を書いて、郵便局なり鉄道の小荷物係の所へ持って行くと必ずとどく―これは相手にとどけたいという念が具象化したのであります。

 

 

 

この念というものは必ず具象化するものであります。そんなことをいっても、その小包みを上げたいという念を起こしても、念を起こすだけで郵便局なり鉄道なりへ持って行かねばとどかぬではないかという人があるかもしれませんが、そんなことはない。

 

 

 

実際これをたれかに差し上げたいという念がハッキリと強烈に起こってきますならば、必ずその念が、自分なり他人なりの手を動かして荷造りをさせ、所書きを書かせて、ついにその品物を相手にとどけることになるのであります。

 

 

 

こういうように念というものは形るものを動かす力をもっている。念が主であって形は念にしたがってどうにでもなるものでありますから、われわれはできるだけ善い念をハッキリ強烈にもつ必要があるのであります。

 

 

 

そのできるだけ善い念のうちで、なにがいっとう善い念であるかといいますと、自分は神の無限の生命、無限の知恵、無限の力に連なっており、神の無限の愛によって守られているという念をもつことでありますが、

 

 

 

その念をもつにしても、その念が漠然として力弱いものであってはならないのであります。その念が強くハッキリとしたものでなければならない。

 

 

 

その念が強くハッキリとしたものとなるためにはどうしてもその念が信念となり確信とならなければならないのであります。

 

 

 

そのために「生長の家」家族はすべて、毎日「神想観」の修行を励(はげむ)ことになっているのでありまして、この修行によって、われわれの心が神に向かって全開(まなびら)きになる、

 

 

 

そうすると神の力がとうとうとしてわれわれの生命の中ヘはいってくる。そして神の力は無限でありますから、それがはいって来たときは、われわれの生命も知恵も愛も力も無限となる。

 

 

 

われわれがいろいろの点で何ものかを欠乏しているならば、たれも自分を欠乏させているのではない、自分自身が心の扉をしめ心に堰(せき)をつくって神の無限力の流入をさえぎっているのにすぎないのであります。

 

 

 

だから「神想観」によって心の扉を開くことをし、神に結ばれている自覚を深めてゆきますならば、自然に適当な自分の動き方ができてきますとともに、

 

 

 

周囲からも自然に自分を働かしてくれる働きをし向けてくれることになりますので、健康の点だけではなく、運命境遇等のいっさいも、現実的によくなってくるのであります。

 

 

 

生長の家の全国誌友は今も希望により「光明思念連盟」に加入して神想観遠隔指導を受けることができるのであります。

 

 

 

思想の波動はラジオの波動よりもいっそう精妙なものでありますから、どんなに遠隔の地にいても感応するのであります。

 

 

 

満州にいて遠隔指導に一回参加して即座に、脚が歩けず坐(すわ)れなかった方が坐れだし歩ききだした実例もあります。

 

 

 

ラジオの波動を受けるにも精妙なラジオ機がいるように、思想の波動を受信するにも一種独特の形式よって本部から放送する精神波動を感受するようにしなければなりません。

 

 

 

その坐法式、観念の持ち方などは新修版『生命の實相』第四巻か、『詳説神想観』に詳記(しょうき)してあります。

 

 

 

つづく

 

 

 

 

谷口雅春著「生命の実相第三巻」 「生命」は愛と知恵とによって生く

 

 

 

 

☆ 生命の実相の教えは無限だという事は良く分かっているつもりですが、先日改めて、観の転換が大切だと思った次第です。生長の家七つの光明宣言の最後に吾等は正しき人生観と正しき生活法と正しき教育法とにより・・・・人生苦を解決するとありますように、

 

藤原先生の本に

 

世の多くの人達が色々な問題につき当って悩んだり、苦しんだりするということは、その根本において間違いがあるからであります。宗教の解決法というのは、そのーつ一つの問題を捉えて,解決法を考えたり、工夫し研究するのでも、解決に向って努力するのでもないのであります。

 

ちょうどそれはー本の木が根から生えて、その木から沢山の枝が個々別々に出て伸びているよう見えても、根がーつであるように、人生における問題も、たとえ健康上の問題も、経済上の問題でも、家庭や子供の問題であっても、おおよそ困ったり、苦しんだりするということは、形や条件がちがったように見えても根本はーつに帰するのであります。

 

とありますように!