「生命の實相第三巻」

 

 

第四章「生命」は愛と知恵とによって生く

 

 

 

「生長の家」のとこうとする一大真理は、「実在する世界」は、実在する宇宙は、完全円満、光明無限、生命無限、知恵無限、愛無限、

 

 

 

したがってまた調和無限、供給無限、自由無限であるところの一大生命力によってささえられ、その一大生命力の展開として一切の生命は存在に入ったという事実です。

 

 

 

この一大生命力を「神」と称するのであります。

 

 

 

この一大生命力なくしては、一切の生命は存在に入ることができないのでありまして、もし、そこに一個の生命があるというならば、それは必ずや、その無限生命の泉なる一大生命力がそこに発現しているということになるのであります。

 

 

 

それで、「生命」というものは、そこに「生命」が本当にあるならば、ただ生きているというだけでは「生命」がないということになります。

 

 

 

「生命」は同時に知恵でありますから、真理を悟らないでば、その「生命」は生きていないということになるのであります。

 

 

 

だから、知恵のない生命―というものは本来ありえないことになるわけであります。

 

 

 

知恵は発現すれば、知恵と生命とは一体でありますから、生命が生き生きとしてくる、知恵が曇れば生命が曇ってくる、これは真理を知らないで知恵の目が雲って病気になっている人が、

 

 

 

『生長の家』を読んで真理を悟り知恵の眼が開いてくるにしたがって、胃癌でも肺病でも自然に治ってくる事実からでもわかるのであります。

 

 

 

知恵と生命とは必然的に一体でありますから、知恵があるということはそこに生命があるということでありまして、知恵が生きれば生命が生きてくる、知恵がなければ生命が死んでしまう。

 

 

 

ここにいう知恵というのは真理を悟る英知のことでありまして、商売上の駆け引きに使うような知恵ではありません。

 

 

 

これと同じことが、愛についてもいえるのでありまして、愛とは生命の正しい動き方をいうのでありますから、愛が発現しているということは、そこに生命が発現しているということになるのであります。

 

 

 

だから愛を発現さし、愛の行ないを常に事実にあらわしている間はその人は病気にならない、現に病気になっている人でも、愛を発現させている間は病気が治っているのであります。

 

 

 

先日、『生長の家』誌友の六月の集まりで、大阪から北村勉氏が来られた。この方は、神誌の巻頭言(かんとうげん)に書いたことがありますが、網膜剥離症(もうまくはくり)といって、眼科の方では治療の道のない難症の眼病にかかっていられる。

 

 

 

眼が悪いので聖典『生命の實相』を十分読みきることができない、だから真理を知る知恵の眼を開くという方面からいうと、知恵すなわち生命を生かすということができにくいのであります。

 

 

 

そのかたが聖典『生命の實相』を自身のためにお読みになると、ただ一ぺ-ジ半を読んだだけで眼底が痛み、後頭部が痛んできて、読むに耐えなくなるのであります。

 

 

 

ところがある晩、知人の慢性病者を治してあげたいという愛の念願から聖典『生命の実相』を持っていって病人の枕頭(まくらもと)で読んであげた。

 

 

 

病人の枕頭には薄暗い電燈がともっていて、その光の弱さがとうてい、この重症の眼病者たる北村勉氏には一ページを読む力がないと思われた。

 

 

 

しかし、不思議!北村氏はズンズン読んでいった。三十ページ、四十ページ、まだまだ眼が疲れないで五十ページも読んだと自分でいわれた。

 

 

 

北村氏個人に宿る力は小さくとも、愛は、自他が一体となるところに、肉体を超越した大生命の力が発現するのでありますから、北村氏自身の肉体を超越した力が発現したのであります。

 

 

 

多くの人は、他(ひと)に愛を施したら、自分自身が減るように思っていられるかもしれませんが、この実例が語るようにけっしてそんなものではありません。

 

 

 

愛を与えるときわれわれの個々(ひとりずつ)の生命が大生命と一体となりいっそう大きく生長しているのであります。

 

 

 

だから「生長の家」の創刊号の扉には、「まだまだ多く愛を与えよ、愛を与えれば与えるほど殖える」という詩が書いてあったので、これが「生長の家」の生活のモットーであります。

 

 

 

われわれの生命力が、与えればかえって殖えるということは、われわれの「生命」というものが、ただこの自分の肉体のなかにのみあるのではないという証拠になるのであります。

 

 

 

肉体という有限の物質から出るだけの力であれば、むろん与えれば与えるだけ減ってくるのであります。

 

 

 

盥(たらい)の水なら、その盥の中にのみありますからその水を汲み出すだけ減ってくる。ところが豊富な水脈につづいている井戸の水は、汲み出しても汲み出しても減ってこない。

 

 

 

この汲み出しても汲み出しても減ってこないのは、井戸の水はその井戸の中にだけあるのではないからであります。

 

 

 

それと同じように、われわれの生命力というものが与えれば与えるほど殖えるという奇現象を呈するのは、われわれの生命力はわれわれの肉体の中にだけはない。

 

 

 

肉体の境を超えて流れている広大無辺な生命がわれわれの生命であるからであります。われわれと肉体は井戸の框(かまち)みたいなものである。

 

 

 

それは実に広大無辺な地下水の流れの一個の出口たるにすぎないのであって、われわれの生命の本地は目に見える肉体の井戸の中にあるのではなく、むしろ眼に見えない無辺無限の地下水こそわれわれの生命なのであります。

 

 

 

つづく

 

 

 

谷口雅春著「生命の實相第三巻」第四章「生命」は愛と知恵とによって生く

 

 

 

 

☆ 今日から第四章です。

 

「生命の實相」は、谷口雅春先生が、神の啓示をうけておかきになった聖典で、先生御自身が、あら、こんなことを書いていると思いながら、お書きになったこともある、ともらしておられたことを、お聞きしたことがあります。ですから、とにかく繰り返し、繰り返し、読むことが、一番大切なことで、一回読んで、わかったなどと思っている人こそ、ちっともわかっていない人だ、ということもできるのです。

 

と医学博士の徳久克巳先生は書いておられます。耳が痛いですね!笑!