「生命の實相第三巻」

 

 

◎ 心の平和に到達する真理

 

 

 

○ 罪を他に帰するは自分を土偶人形(でくにんぎょう)にすること

 

 

 

この「生長の家」の生活を始めない以前のわたし、つまり金剛不壊(こんごうふえ)の自分の「生命」の実相を自覚しない以前のわたしは、絶えずこの悪い精神波動を起こしていましたので、不断に身体も悪く心も不快だったのであります。

 

 

 

今から考えてみますと、今でもまだ本当に善くなってはいませんが、わたしほど悪い人間は少なかったかもしれないのです。

 

 

 

ちょっと胃腸が悪いと、「お昼にあんなおかずを食べさせたからだ」といって小言をいう。「おかずが半煮えであったから、そのために野菜の繊維素が不消化だったのだ」などという。

 

 

 

つまり、人間というものを宇宙の主宰者である神の子であるとは考えずに、一片の野菜の繊維よりも弱いものだと考えていましたので戦々競々として、自分に対して与えられるものに警戒していなけれぱならなかったのであります。

 

 

 

そんな弱い信念しかもっていないのでありますから「心」の顕現(あらわれ)である身体が善くなるはずがないのであります、インキ壷をひっくり返してでも、

 

 

 

これは自分が不注意であったのだ、自分が自己の円満完全な本性の自覚が足りなかったためにこんな失錯をしたのだとは考えずに、「お前がこんな所ヘインキ壷を置いておくものだからインキがひっくりかえったのだ」などという。

 

 

 

あるいは「お前が呼んでも返事をしないものだから、手をあげる拍子に袖がひっかかって机からインキ壷が落ちたのだなどという。

 

 

 

終いにはこれは自分が悪いのではない、親がわたしの性格をこういうふうに生んだのだなどとまで思ったりする、始末にいけないわたしだったのです。

 

 

 

何事が起こっても悪いことはみんな他のせいにし、みな他に責任を負わしてしまって、自分だけは責任のがれをしようと思う。

 

 

 

こんな卑怯な虫のよい心は、ちょっと考えると、悪いところを他にばかりなすり付けて自分は善い所ばかり独占するのだから、大変得になる心の持ち方であるかのように思われますけれども、けっしてそうではない。

 

 

 

聖典の第一巻で「他を生かせ自分も生きる」という題で説明したことがありますように他を罪する心は自分を罪することになるのであります。

 

 

 

他を心で斬るものは自分も他から斬られる―これが心の法則であります。寝られないと他のせいにする、胃腸が悪いと他のせいにする、不幸があると他のせいにする

 

 

 

―こういう心は、自分というものが全然他の人または他の物の傀儡(かいらい)であって、土偶人形(でくにんぎょう)のようなものだと考えていると同様である。

 

 

 

土偶人形(でくにんぎょう)というものは少しも自主独立な選択力がない。右を向かせれば右を向き、左を向かせれば左を向く、手を上げるのもインキをひっくりかえすのも自分の力ではない。

 

 

 

だからわたしがインキをひっくり返してもわたしが悪いのではないという弁解も成り立つ。この土偶人形と同じように自分自身にはなんの力もないものだ他動的にのみ支配されているものだ、

 

 

 

とわたしは「生長の家」の心の持ち方になるまでの長い期間、「わたし自身」を考えていたのであります。そういう弱い自覚を持っていたから、わたしはしじゅう「他から害される」という強迫観念をもっていた。

 

 

 

そして毎日「他がこうだからわたしはこんな目に会った」とつぶやいていたものであります。人を恨む、その癖自分は同情されたい。

 

 

 

その間じゅうわたしは神経衰弱で、不眠症になったり胃がつかえたり、下痢したり、震災に会ったり、泥坊に二度もはいられたりしていました。

 

 

 

が、人間というものはそんな他から支配されるような土偶人形ではない、自主独立的な神の子である、自分の肉体、自分の運命、自分の境遇は、自分で自由自在に変化させるものであるという真理をさとってからは、だんだんわたしのつぶやきも減ってきました。

 

 

 

こうして自己の神性の自覚ができまして、つぶやきが減ってきますと、わたしの身体も健康となり、以前にはずいぶん虚弱だったわたしが、

 

 

 

会社生活の片手間にでも雑誌の執筆編集から、他人の病気相談にいたるまで、二重三重の激務に従事できるようになってきましたし、境遇もだんだん善くなりつつあるのであります。

 

 

 

他(ひと)の陥るおとしあなを造っておけば自分もまたおとしあなに落ちるという意味で、昔から「他を呪わば穴二つ」という諺がありますが、

 

 

 

この「呪う」ということは本当は言葉で悪くいうことでありますから、「つぶやく」ということも要するに「呪い」にほかはならないのであります。

 

 

 

だからこの「他を呪わば穴二つ」という諺は「つぶやくものにはつぶやくような不幸が来る」ということに言い換えることもできるのであります。 

 

 

 

 

つづく

 

 

 

 

谷口雅春著「生命の實相第三巻」 心の平和に到達する真理

 

 

 

 

 

☆ この文章は昭和5年以前の話しです。丁度今の私しが当時の雅春先生ぐらいのところと言いたいですが、根本の出来が違いますので、足もとにも及ばないのでしょうね!笑!

 

今これを読みまして、気づいたのが、時々この性格はおふくろのせいと今でも知らず知らず使っていました!情けない!恥ずかしい!笑!

 

それから、昨日のテレビで番組名は忘れましたが、マレーシアの男女が婚約中で来年結婚するそうですが、イスラム教の教えで、今だに手も握った事も無いと言っていました。

 

日本をどう思いますか?と言う問にふしだらとは思いません!習慣、文化の違いですからと言っていましたが、谷口雅春先生は「私の日本憲法論」の中で憲法24条結婚は両性のみの合意で出来るこれを改正しないと日本の性は乱れ滅びると書いておられます。

 

今の憲法は日本を弱体化する為に作られていると書いておられます。御皇室の今の真子さまの件も結婚は24条でできると、秋篠宮殿下は言われたのでは?憲法が間違っておろうと御皇室は国会で決めた憲法には従うと言うことでしょう!