生命の實相第三巻
◎ 第三章 心の平和に到達する真理
○ 言葉の印象力
◉ 昨日のところ
霊視能力者は「神を見た」といいますけれども、五官はもちろん六感でも神を見たものはないのであります。神というものは無形のものでありますから、ここに見よ、彼処(かしこ)に見よというがようには神はいまさないのであります。
ヨハネは、第一書に「いまだ神を見し者あらず、われらもし互いに相愛せば、神われらにいます」と明らかに神というものは見えるものではない、相愛する愛の中にいると明言しているのであります。
ところが使徒ヨハネは『黙示録』では自身が神の姿の客観化したものを霊眼によって見た体験を書いているのであります。
つづき
「われ振り返りてわれに語(かた)る声を見んとし、振り返り見れば七つの金の燈台(とうだい)あり。
また燈台の間に人の子のごときものありて足まで垂(た)るる衣(ころも)を着、胸に金の帯(おび)を束(つか)ね、
その頭と頭髪(かみのけ)とは白き毛のごとく雪のごとく白く、……その顔は烈(はげ)しく照る日のごとし。
われこれを見しときその足下(あしもと)に倒れて死にたる者のごとくなれり。
かれその右の手をわれに按(お)きて言いたまう『懼(おそ)るるな、われは最先(いやさき)なり、最後(いやはて)なり、活(い)けるなり、われ … 世世限(よよかぎ)りなく生く。
また死と陰府(よみ)との鍵を有てり。… 』」(『黙示録』第一章)
こういうふうに使徒ヨハネはあたかも諸方(しょほう)の霊覚者が「生長の家」の神の顕現(けんげん)を見られると同じような具合に神の姿を霊眼で見ているのであります。
しかもかれはヨハネ第一書(だいいちのふみ)でだんことして「未だ神を見しものあらず」と宣言しているのであります。
そこがヨハネの偉いところで、神というものは無形のものであって、それが形に顕われて見えたところが神そのものが見えたのではない、
それは神の救いの霊波をただ客観化して感じただけである。それを知っていたヨハネは偉いのであります。
「生長の家」にしましても生長の家の神様の姿は現実にあらわれられる。一人の霊覚だけにではなく、多勢に同一の姿をもってさえも顕われている。
しかし神は霊覚には見えぬ、愛のなかにいるといわれる、
神は宮のなかにはおらぬ道(ことば)のなかにいると神はいわれる、
神の姿や、神の宮は一種の象徴にすぎないのであります。
つづく
谷口雅春著「生命の實相第三巻」 心の平和に到達する真理
☆ この『黙示録』第一章 は「生命の實相」頭注版は四十巻あります。それの一巻の一番初めに書いてあります。背すじががピーンとなりますね!笑!
後は読む人悟れ・・・・・・これは雅春先生のお言葉だったと思います!