「生命の實相第三巻」

 

 

◎ 第三章 心の平和に到達する真理

 

 

 

◉ 昨日の最後のところ

 

このようにわれわれは自分自身というものを物質であると思わず、「本当の自分」というものを「金剛不壊」の霊的実体であるということを自覚することになると、形の上では縛られていても、実際において縛られていない自由自在な状態が実現するのであります、

 

すべての悲しみとか怒りとかいうものは、自分自身をなにか形のあるものであって、ほかから縛り得るものだと思っている妄想誤想から出て来るのであります。だからこの妄想誤想を断ち切ればわれわれは悲しみや怒りやその他あらゆる心の不自由から脱することができるのであります。

 

 

 

 

○ 言葉の印象力

 

 

つづき

 

 

 

心霊研究家などや巫女(みこ)などのかたのうちには、靈眼(れいがん)で靈の姿を見て、あの人に憑(つ)いている霊はこういう形をしているとか、

 

 

 

なかには狸(たぬき)の形をしているとか、狐(きつね)の形をしているとかいう人がありますが、それは、ラジオの波動やテレビジョンの波動を感受して、それを声に顕したり姿にあらわしたりする受信機がその人にできているということにすぎないのであります。

 

 

 

ラジオの受信機がここにあって東京にいる放送者の声をここで出したからといって、東京にいる放送者が、現実にここに来ているといえば、それは真理を知らないものであります。

 

 

 

狸の霊姿(テレビジョン)が霊的受信機に(すなわち霊視能力者や霊媒)に顕われたからとて狸の霊そのものがそこに来ているというふうなものではない。

 

 

 

この世界は波動の世界であるから、その波動をある形に再現する装置をつくればその種類にしたがって、いろいろの姿が顕われ、いろいろの声が顕われるけれども、その姿、その声が本来そこにあるのだと考えるとまちがいなのであります。

 

 

 

この点で、肉眼に見える世界はむろんのこと、靈眼に見える世界でも、それがそのままそこに存在すると考えるものは迷いに捉われているといわねばなりません。

 

 

 

よく人は、見えるから存在するという、しかし、肉眼にせよ、霊眼にせよ、見えるということはなんら存在するという証拠にはならないのであります。

 

 

 

トルストィもいっているように見えないものだけが本当の存在であります。この谷口自身にしましても、この肉体は眼に見えていかにも一見確固とした存在であるかのように見える。

 

 

 

しかしこの肉体はけっして確固不壊の存在ではないのでありまして、なんぴともこの肉体の生活を終らねばならない、言い換えると結局肉体は死滅してしまわねばならないのであります。

 

 

 

われわれは誰でも、われわれ自身を肉体であると考えるかぎりにおいて、結局「死刑の宣告」を受けた死刑囚と同じであって一歩ずつ刑期に近づいて行くのでありますから、常に前途不安、本当に明るい生活には出られないのが当然であります。

 

 

 

本当に明るい生活というものは、「本当の自分」というものが無形のものであるということを悟ったときにはじめて到達しうるのであります。

 

 

 

自分というものを形のあるものだと考えていますと、形のあるものは縛られる、縛られるると思うから苦しい、逃げ出したいと思う、

 

 

 

逃げ出そうと思うからかえって縛っている束縛が眼について苦しくなる、こうして自分自身を形のあるものだと思っているかぎりわれわれは苦しいのであります。

 

 

 

また、ちょっと病気をしてもここに病気をしている自分が形のままにあると思う、そのためにその病気という念に捉えられて、その病気という念を常に心にもっているから、

 

 

 

念の客観化(かたちか)したものであるところの肉体は、「病気の念」すなわち「病気の精神波動」が客観化して、いつまでも病気から免れることができなくなりますが、

 

 

 

これが逆に「自分」というものは無形のものである、無形のものが有形の病気にかかるはずはないという真理をさとって、今ここにあらわれている病気の状態は一種の念波である、念波が形にあらわれたものである。

 

 

 

波動というものは「迷いの世界」のものであるから、ほっておけば時間のたつうちに消えてしまうものであるのは、風のない湖面の波のようなものである、

 

 

 

心の風さえ騒がせなければそれはやがて自消自減してしまうものであると観じて、心の平和にして円満完全な「生命」の実相をじっと平静に眺めるようにしていますと、いろいろ思い惑って手当てをするよりも、結局病気はすみやかに消滅してしまうのであります。

 

 

 

これつまり肉体は念の影でありますから、念を平静にたもてば肉体はおのずからその平和の念を映じ出して健康になれるのであります。

 

 

 

霊視能力者は「神を見た」といいますけれども、五官はもちろん六感でも神を見たものはないのであります。神というものは無形のものでありますから、ここに見よ、彼処(かしこ)に見よというがようには神はいまさないのであります。

 

 

 

ヨハネは、第一書に「いまだ神を見し者あらず、われらもし互いに相愛せば、神われらにいます」と明らかに神というものは見えるものではない、相愛する愛の中にいると明言しているのであります。

 

 

 

ところが使徒ヨハネは『黙示録』では自身が神の姿の客観化したものを霊眼によって見た体験を書いているのであります。

 

 

 

 

つづく

 

 

 

 

谷口雅春著「生命の實相第三巻」心の平和に到達する真理

 

 

 

 

 

☆ 今日も凄いですね!

 

今日私が一番目についたのが、「… この点で、肉眼に見える世界はむろんのこと、靈眼に見える世界でも、それがそのままそこに存在すると考えるものは迷いに捉われているといわねばなりません。」勿論それまでの説明があり、物質なし、肉体なしがより一層鮮明になったのですが、

 

本当に「生命の實相」は素晴らしいですね!笑!