生命の實相第三巻
○ 生長の家は何を信ずるか
◉ 昨日の最後です。
社会は、日本は、いま、一歩一歩絶大の危機を孕(はら)みつつ墜落して行く。社会はどこまで墜落して行くか、日本はどこまで墜落するか。
(註・これは昭和六年頃の文章である)
つづき
盲目的に墜落するも改造するも危険である! ここに神の摂理として人生の燈台が出現した! それが生長の家であります。
平和の中で病気に罹(かか)らず、戦乱の巷(ちまた)にいて砲弾に当らず、かくしてみずから傷つかず同時に周囲を光明化する道を生長の家は指示しているのであります。
現在の経済組織が如何にともあれ、また来らんとする経済組織が如何にともあれ、現実世界は心の世界の顕現でありますから、人間が生命の実相を悟らず、
人間の征服欲が、人間の我欲が、人間の復讐欲が、現実世界を操っている以上は、そこに人間にとっての地上天国が実現すべき必然的理由がないのであります。
では世界の改造運動に内より燈(ひ)を照らすものは生長の家でなければならない。
だから世界の改造家がもし切実に人類を愛し、本当に地上天国をこの世に招来しようと思うならば、まず生長の家に来り地上天国の雛型たるべき各自の生命の実相(ほんとうのすがた)を「見真(けんしん)」しなければならないのであります。
神の造りたまえる存在の実相(じっそう)に透徹し、その実相を雛型としてそれを現実世界に現わしてのみこの世界は本当に地上天国となるのであります。
我欲や見当違い で改造改造と力んで見ても、各自の心に神の子としての生命の実相が見真されていなければ、盲人の手引で多数の盲人を河中(かちゆう)へ突落すようにエッサエッサと改造の掛声を掛けながら現在の人類をまた別の地上地獄へ突き落すに違いないのであります。
心が形の雛型となる! ではまず心に自己の生命の円相を自証せよ、組織は自然に浄(きよ)まるであろう。組織が浄まらなければ、心が浄まらないというのは「戦場にあって砲弾に中らないことは難かしい」というに等しい。
それは 実例でも解る通り、難かしいと思う者にだけ難かしいのである。心を浄めて地上天国の根本基礎を築き直しそこからこそ社会改造にも出発しなければいたずらに犠牲者ばかり多くして効果は少いのであります。
戦場に出ても弾丸に当らないで敵を克服し得て根本平和を招来し得るに越したことはない。地上天国の建設にも出来るだけ敵弾の犠牲者にならない方が好いのであります。
そのために先ず、神の子たる自己の心の力を信ずる―そしてこれを実証しつつあるのが「生長の家」であります。
既に病気を征服し、戦争には砲弾雨注の間にあって中(あた)らぬことを実証し、経済組織の欠陥の真っただ中にあっても、その欠陥の弾丸を潜りぬけ得ることを立証した。
すべての人間がこの生長の家の説く真理を悟るとき、人生には、誰も人生の弾丸に当る者がなくなる、即ち少しも犠牲なしに地上天国になるのであります。
が、皆が「生長の家」の真理を悟ることが至難であれば一人でも「生長の家」の信仰に入ることを私は祈る。
その一人は如何なる混乱の巷にあっても地上天国建設途上の人生の敵弾に倒された犠牲者とはならないのであります。
谷口雅春著「生命の實相第三巻」 生長の家は何を信ずるか!(完)
☆ 今日は
神の造りたまえる存在の実相(じっそう)に透徹し、その実相を雛型としてそれを現実世界に現わしてのみこの世界は本当に地上天国となるのであります。
我欲や見当違い で改造改造と力んで見ても、各自の心に神の子としての生命の実相が見真されていなければ、盲人の手引で多数の盲人を河中(かちゆう)へ突落すようにエッサエッサと改造の掛声を掛けながら現在の人類をまた別の地上地獄へ突き落すに違いないのであります。
と説いてあります。
「各自の心に神の子としての生命の実相が見真されていなければ、盲人の手引」 と書いてあります。
無門関解釈にも悟った人が右と言っても左と言っても正解です。悟ってない人が、同じように右と言おうが、左と言おうが間違いですと書いてあります。
☆ いよいよ明日から、「生命円相の真理」です。「・・・なぜわれわれが「生命の實相の扉をひらく時、医術などではとうてい及ばない驚くべき自然癒能が発揮されるか?
と書いてあります。